第7話 感謝の素振り
王都の中央公園。 夜の帳が下り、本来なら恋人たちが愛を囁き合う憩いの場に、異様な音が響いていた。
ヒュン。……ヒュン。
静かだが、空気を強制的に従わせるような規則正しい風切り音。 逃げ回った末に、リックは人目につきにくい(と本人が思っている)公園の森の中で、日課の続きを始めていた。
「……九千九百八十、感謝。……九千九百八十一、感謝」
無心。 アイリスに追いかけられたことも、聖女に抱きつかれたことも、すべて忘却の彼方。 今の彼にあるのは、ただ木刀と、世界への感謝のみ。
その様子を、木陰からじっと見つめる三つの影があった。 アイリス、エリス、そして息を切らして追いついたアルだ。
「……信じられん」
アイリスが戦慄の声を漏らす。 彼女の手は、剣の柄にかかったまま震えていた。抜けないのではない。抜く気すら起きないのだ。
「構えに、隙がまったくない。いや、隙だらけに見えるのに、『どこから斬り込んでも斬られる未来』しか見えない……。なんだあの自然体は? まるで、そこに立っている大木と同じだ」
「リックさんの周りだけ、空気が澄んでいます……」
エリスは魔法使いとしての観点から呟く。 精霊たちが、リックの素振りに合わせて踊っているように見えるのだ。魔力など一滴も使っていないはずなのに、世界そのものが彼を祝福している。
「師匠……やっぱり、変な人だ」
アルだけは正直な感想を漏らしたが、二人の美女は聞く耳を持たなかった。
「……九千九百九十九、感謝」
リックが大きく息を吸う。 最後の一回。今日一日、無事に過ごせたことへの最大の感謝を込めて。
「――一万、感謝ァッ!!」
振り下ろされた木刀は、音速を超え、衝撃波を超え、概念的な『切断』へと昇華した。
ズバァァァァァァァンッ!!
夜空に向かって放たれた斬撃の余波が、雲を一直線に切り裂いた。 分厚い雲が左右に別れ、その裂け目から満月が顔を出し、リックをスポットライトのように照らし出す。
「よし」
リックは満足げに汗を拭った。 見上げると、なぜか空が綺麗に晴れている。
「お、今日は月が綺麗だな。ツイてる」
自分が雲を斬ったことに気づいていない男は、木刀を腰に差すと、あくびを噛み殺した。
「さて、宿を探すか……金はあるし、今日はふかふかのベッドで寝たいな」
そう独り言を言って歩き出すリックの背中を、三人は声も出せずに見送るしかなかった。 『剣姫』アイリス・ラインドットは、この日初めて、自分より強い剣士の存在を認め、頬を紅潮させて誓った。
「……必ず、私のモノにする」
聖女エリスは胸の前で手を組み、うっとりと呟いた。
「……神々しいです」
アルは頭を抱えた。
「……明日の新聞、どうなっちゃうんだろう」
翌朝。 王都の新聞各紙の一面は、同じ見出しで埋め尽くされていた。
『伝説の剣聖、王都に降臨!? 鉄甲竜を一撃、キメラを瞬殺、そして夜空の雲を両断!』 『正体はホームレス? 謎の木刀男、聖女と剣姫を侍らす!』
宿屋の食堂で、リックはその新聞を読みながらトーストをかじっていた。
「……最近の王都は物騒だな。すごい達人がいたもんだ」
「師匠、それ師匠のことですからね?」
向かいの席で、アルがジト目でツッコミを入れる。 昨晩、結局高級宿に泊まるのを「落ち着かない」と拒否したリックは、アルが定宿にしている安宿の、しかも一番安い部屋に転がり込んだのだ。
「まさか。俺はただのDランクだぞ? 記事には『神速の剣聖』とか書いてあるじゃないか。俺の剣は速いんじゃなくて、滑らかなだけだ」
「それを世間では神速と言うんです……。あ、ギルドから呼び出しが来てますよ」
「ギルドからの呼び出しか。なんだろうな」
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