第3話 足りないピース

 東京に冷たい雨が降り続く深夜。

 佐藤任三郎のオフィス兼自宅にあるラボでは、重苦しい沈黙が漂っていた。

 普段は空調の音しかしない静寂な空間だが、今夜は明確な「行き詰まり」の空気が満ちている。


「……マジで無理。あの女、ガード堅すぎ」


 田中襟華が、愛用のゲーミングチェアを乱暴に回転させながら天井を仰いだ。

 彼女の目の前には、複数のモニターが並んでいる。映し出されているのは、MIIKAの自宅マンション周辺の防犯カメラ映像と、彼女の行動パターンの解析データだ。

 佐藤は襟華を架空のインフルエンサー『ERI』としてシークレットパーティーに潜入させる計画を立てた。しかし、詳細なシミュレーションを進める中で、致命的な懸念事項が浮上していたのだ。


「MIIKAの取り巻き、ただのスタッフじゃないね」


 襟華がモニターの一点を指差す。

 MIIKAが移動車から降りる映像。その周囲を固める黒スーツの男たち。


「こいつら、動きがプロだ。たぶん、半グレか本職のヤクザ崩れ。私が『ERI』として近づいても、ボディチェックで仕込みマイクもUSBも全部バレる。最悪、私の身元も割れるよ」


 佐藤は腕を組み、不快そうに眉間の皺を深くした。


「……『バズ・インキュベーション』。彼女の所属事務所の親会社ですが、噂通り黒い繋がりがあるようですね」


 佐藤のデジタル解析でも、壁にぶつかっていた。

 MIIKAのプライベートスマホは、予想以上にセキュリティレベルが高かった。

 特定のIPアドレス以外からのアクセスを遮断する強固なファイアウォール。さらに、彼女はスマホを肌身離さず持ち歩き、生体認証でロックしている。

 遠隔ハッキングでバックドアを仕掛けるには、彼女が特定のWi-Fiに接続した瞬間に、物理的に数メートル以内まで接近し、特殊な電波を照射する必要がある。

 しかし、周囲にはプロの護衛。

 襟華一人で「潜入」と「ハッキングの補助」を同時にこなすのは、リスク係数が高すぎる。失敗すれば、襟華の命に関わる。


「リスク評価、85%」


 佐藤は冷徹に告げた。


「作戦中止です。このまま君を突っ込ませるわけにはいきません」

「はあ!? ふざけんな! やれるって!」


 襟華が椅子を蹴って立ち上がる。


「あの子……被害者の女の子、毎日泣いてるんだよ? ここで引いたら、あいつの勝ち逃げじゃん!」

「引くとは言っていません。作戦の再構築が必要だと言っているのです」


 佐藤は静かに諭すが、襟華の興奮は収まらない。


「ビビってんじゃねーよ! 私が捕まってもアンタの名前は吐かないからさ!」

「君が捕まったら、君の人生が『損切り』になります。……それは、私の美学に反する」


 佐藤は襟華から視線を外し、キッチンのほうへ歩き出した。


「頭を冷やしましょう。……食事にします」

「はあ? 飯?」


 襟華が呆気にとられる中、佐藤はジャケットを脱ぎ、エプロンを身に着けた。


 佐藤任三郎にとって、料理とは「カオス」を「コスモス」へと再構築する神聖な行為だ。

 今の状況はまさにカオスだ。感情的なティーンエイジャー、暴力的な敵対組織、攻略困難なセキュリティ。

 これらを整理し、最適解を導き出すには、一度脳のスイッチを切り替える必要がある。


 今夜の献立は、豚の角煮と出汁巻き卵。そして、土鍋で炊いた白米だ。

 豚バラ肉は、すでに昨夜から下茹でし、脂を抜いてある。それを、醤油、酒、砂糖、そして薄切りの生姜と共に、弱火でじっくりと煮込んでいく。

 落とし蓋の下で、煮汁がクツクツと小さな泡を立てる。

 この「待つ時間」が重要だ。焦りは禁物。強火にすれば肉は硬くなり、味は染み込まない。

 佐藤は煮込み具合を確認しながら、もう一つのコンロで出汁巻き卵に取り掛かる。

 卵を3つ、ボウルに割り入れる。白身を切るように混ぜ、一番出汁を加える。砂糖は入れない。関西風の、出汁の香りを味わうスタイルだ。

 銅製の卵焼き器を熱し、油を引く。

 ジュッ。

 卵液を流し込むと、心地よい音が響く。

 半熟の状態で素早く巻き、油を引き直し、また卵液を流す。

 手首のスナップと、箸の繊細な動き。幾層にも重なる卵の層が、美しい黄金色の直方体を形成していく。

 一切の乱れも、焼きムラもない、完璧なフォルム。


「……できた」


 佐藤は角煮と出汁巻き卵を皿に盛り付け、襟華の前に置いた。

 角煮は飴色に輝き、箸を入れるだけでホロリと崩れるほど柔らかい。出汁巻き卵からは、湯気と共にかつお出汁の上品な香りが立ち上る。

 不機嫌そうにスマホをいじっていた襟華だったが、匂いに釣られて鼻をヒクつかせた。


「……なにこれ。美味そうじゃん」

「文句を言う前に食べなさい。脳への糖分供給が必要です」

「チッ。いただきまーす」


 襟華は角煮を一口で頬張った。

 途端に、彼女の眉間の皺が解け、目が見開かれる。

 脂身の甘みと、生姜の効いた醤油ダレの旨味。それが口の中でとろけ合い、暴力的なまでの多幸感をもたらす。

 続いて白米をかっこむ。日本人のDNAに刻まれた、最強のコンボだ。


「……悔しいけど、美味い」


 襟華は出汁巻き卵をつつきながら、ボソリと言った。


「アンタさ、こんな特技あるならコンサルなんて辞めて定食屋やれば? そっちの方が平和じゃん」

「お断りです。客の食べ方にいちいち腹を立てて、初日で営業停止になる未来が見えます」


 佐藤も自身の分の角煮を口に運び、咀嚼する。

 完璧だ。味のバランス、食感、温度。すべてが計算通り。


 だが――。

 佐藤は箸を置いた。

 料理は完璧だが、作戦は不完全だ。

 何かが足りない。

 私と襟華。この二つのピースだけでは、MIIKAという城を落とせない。

 デジタルの壁を越えるには、物理的な接触が必要だ。

 だが、物理的な接触を行うには、相手の懐に入り込むための「鍵」が必要になる。

 暴力的な警備網をすり抜け、警戒心の強いMIIKAの心を解きほぐし、自らスマホを差し出させるような――そんな「人間心理のハッカー」が。


「……ねえ、社長」


 襟華が、空になった茶碗を置いて言った。


「悔しいけど、アンタの言う通りかも。私一人じゃ、あいつらの壁は突破できない。……『ERI』ってキャラで正面突破するのは無理がある」


 彼女は唇を噛む。


「もっとこう、嘘つくのが上手くて、男あしらいが得意で、息をするように他人を騙せるような……そういう『最悪な大人』じゃないと、あの場所には入れない」


 最悪な大人。

 その言葉を聞いた瞬間、佐藤の脳裏に、ある一人の女性の顔が浮かんだ。

 派手なドレス。甘い香水の匂い。そして、嘘と真実が混ざり合った、何を考えているか読めない瞳。

 佐藤は深いため息をついた。

 できれば、彼女とは関わりたくなかった。

 彼女は佐藤の「秩序」を乱す劇薬だ。潔癖な彼にとって、彼女の存在自体が歩くカオスのようなものだからだ。

 だが、今の状況を打破できるカードは、彼女しかいない。


「……一人、心当たりがあります」


 佐藤は苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「え? 誰?」

「君が言った通りの人物です。嘘つきで、男あしらいが得意で、息をするように他人を騙す……私が知る限り、もっとも性格の悪い女性です」

「へえ。アンタがそこまで言うって相当だね」


 襟華がニヤニヤと笑う。「元カノ?」


「とんでもない。……腐れ縁の『共犯者』です」


 佐藤は立ち上がり、窓際に移動した。

 雨はまだ降り続いている。

 彼は内ポケットからスマホを取り出し、登録されている連絡先をスクロールした。

 『W.Chihiro』。

 その名前の上で、親指が迷うように止まる。

 電話をかければ、借りができる。彼女は必ず、法外な見返りを要求してくるだろう。金銭的なものではなく、もっと厄介な何かを。

 だが、被害者の母親の涙と、MIIKAの嘲笑う顔が脳裏をよぎる。


 ――残念ですが、損切りが必要です。私のプライドのほうを。


 佐藤は通話ボタンを押した。

 コール音は鳴らなかった。まるで待ち構えていたかのように、ワンコールで繋がったのだ。


『あら、珍しい』


 スピーカーから聞こえてきたのは、ハスキーで艶のある、大人の女性の声だった。

 背後にはジャズの音色と、グラスが触れ合う喧騒が微かに聞こえる。どこかのバーにいるのだろう。


『あの潔癖症のミスター・サトウから電話なんて。……もしかして、寂しくなっちゃった?』


「ふざけないでください、渡辺さん」


 佐藤は眉間の皺を押さえた。電話越しでも、彼女のペースに巻き込まれそうになる。


「仕事です。……あなたの『悪い才能』を借りたい」


『あらそう』


 彼女――渡辺千尋は、短く笑った。

 その笑い声には、獲物を見つけた肉食獣のような響きがあった。


『高くつくわよ? ……で、今度は誰を地獄に落としたいの?』


 佐藤は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 そこには、コンサルタントの顔でも、料理人の顔でもない、冷酷な処刑人の顔があった。


「……インフルエンサーです。自尊心で肥え太った、哀れな豚を一匹」


 これで、ピースは揃う。

 氷の知性。

 炎の衝動。

 そして、毒の華。

 最悪で最強のチームが、動き出そうとしていた。

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