第三話
それからは、表面上は何事もない日々が続いた。
夫婦の形は保っているから、毎日きちんと同衾しているようだった。
だが本当に「高坂の閻魔」は指一本触れていないようだった。
とはいえ……輿入れしたのに触れられない、というのもおそらく
だが、ひとまず、身体的な危害が及ばないなら、当面はそれでよい、と隼人は腹をくくった。
だが、このまま、瑞穂はほんとうに「石女」とよばれこの高坂の領地を追われていくのだろうか?
それは、隼人にとっては苦しい想像だった。
敬愛する主は、常に尊敬を集めていてしかるべきだ。
だが、一介の護衛にできることなど何もない。
せめて、「高坂の閻魔」以外の手によって危険が及ぶことがないよう、瑞穂の周囲に警護の目を光らせるのが、隼人のせいぜいだった。
そんなある日。
寝支度を整えている瑞穂のもとに、武藤からついてきた腹心の侍女がそっと近寄り、低い声で囁いた。
「暗殺者らしきものが潜んでいるとのこと。今宵、気を付けるようにと、隼人から」
瑞穂はそれを聞くと、わずかに首を縦に振った。
瑞穂自身も、ここ数日、見張られているような不穏な空気を感じてはいたのだ。
そっと小刀を床の近くに忍ばせ、
遅れて、惟信も
瑞穂にとって、その惟信の行為は心を痛めるものだったが、今日の瑞穂にとっては、それがありがたかった。
周囲の違和感のある気配がないかに、五感を向けることが可能になるからだ。
静寂が暗闇にしみ込んだころ。
ことり、と瑞穂の耳が何かの音を拾った。
とっさに瑞穂は体をひねって小刀を取りざま鞘を払うと、惟信の前に出る。
惟信も気配を感じて、上体を起こしていた。
そこに、銀色の閃光が走る。それは、前に膝立ちする瑞穂ごと惟信を正確に狙っている。
ガキーン。
瑞穂は小刀の鍔で相手の件を受ける。相手の圧は想像よりも強い。女の身にはやや不利だ。瑞穂の背中に冷たい汗が伝った。
「くッ」
押し返すために力を込めた瞬間。
すぶっ、という嫌な音とともに熱い潮が顔にかかる。
とたんに、鍔にかかる力が一気に抜け、なにかがどさり、と床に倒れる音がした。
「であえ!」
背後で惟信が叫ぶ。その声を聞き、瑞穂も緊張から解放され、腰が抜けるように床にへたり込んだ。
惟信の声に呼応して、家臣たちが灯を持って集まってくる。
暗闇だった寝所に灯が持ち込まれ、ようやく部屋の様子が判明する。
案の定、背後から刀で貫かれた黒衣の男――おそらく刺客――が、床に転がり、こと切れていた。
瑞穂は、続いて部屋の隅に視線を移す。そこには案の定、隼人が片膝をつき控えていた。それだけで、瑞穂にはすべての状況が了解できた。
が。灯を持って駆けつけてきた家臣たちにとっては。
「お館様!これは、いかに……?!」
惟信が始末した、割には不可解な背中からの一刺しに、戸惑いが走る。
次いで、血しぶきを浴びてへたり込んでいる瑞穂をみて、家臣たちの困惑は最高潮に達した。
「瑞穂が攻撃を防ぎ、瑞穂の護衛が背後から刺客を始末した。今宵は、瑞穂の功労だ」
「なんと、お方様が?」
家臣にざわめきが広がる。
惟信自身が瑞穂に興味を示さなかったから、家臣たちも同様だった。まさか、刺客と渡り合う武芸を持っているとは、聞いていないぞ?というささやき合いが、部屋の中に満ちる。
「そやつの身元を厳しく調べよ。また、館の近辺に怪しい者がいないかも、調べ上げるのだ」
浮足立つ家臣たちに、惟信の冷徹な命令が響く。
「は」
家臣たちはいっせいに首を垂れ、どやどやどそれぞれの持ち場に散っていく。
瑞穂は、腰が抜けたようにへたり込んだままでその様子を見ていた。
惟信は、そんな瑞穂のもとに歩み寄り、膝をつく。
「震えてるな」
小刀を持ったままの瑞穂の手に、そっと自らの大きな手を添えた。
そうされて初めて、瑞穂は自分がまだ小刀を握ったままであることに気が付いた。
「真剣で人と渡り合ったのは、は、初めてで」
そう。稽古としての剣術は誰にも負けない自負はあったが、そんな瑞穂の弱点は実践がないこと、だった。切れば血潮が噴き出す。そんな当たり前のことも、瑞穂にとってはどこか浮世離れしたことだった。
「そのようなことで、よくぞ立ち向かったな」
「と、殿をお守りするのは、妻の務めです」
そう言うと、思わず堰を切ったかのように涙があふれた。
それを見た惟信は、瑞穂の手から小刀を取り上げ、そっと脇に置くと、そのまま瑞穂の手を引くと、自らの胸に引き寄せ抱きしめた。
惟信の胸の中で、惟信の熱を感じた瑞穂は、震えが止まるのを感じた。
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