死氷ーー境界の温度
いすず さら
死氷
第一章 凍る名前
その湖に名前はなかった。
地図には白い空白があり、地元の者はただ「奥の水」と呼んだ。冬になると完全に凍りつき、春が来ても氷は沈まず、割れたまま湖底に沈黙を保つ。だからいつしか、死氷――しひょう、と呼ばれるようになった。
俺がこの町に戻ってきたのは、父の葬儀のためだった。
十七年ぶりだ。あの冬から、数えるのをやめた年月。
駅を降りると、空気がやけに軽かった。冷たいのに、肺の奥まで澄み切っている。都会で吸っていた排気混じりの呼吸とは、まるで別物だった。懐かしさより先に、胸の内側が軋んだ。思い出すな、と身体が命じているのがわかった。
葬儀は淡々と終わった。泣く者はいない。父は町でも浮いた存在だったし、俺は戻らない息子だった。骨壺を抱えた母の横顔は、氷のように硬く、ひび一つ入っていなかった。
「……湖、行く?」
帰り際、置いた骨壺から手を離さず母がそう言った。
声に感情はなく、天気の話でもするような調子だった。
拒む理由を探したが、見つからなかった。
結局、俺は頷いた。
車は山道を進み、舗装の切れ目で止まった。そこから先は歩きだ。木々の間を抜けると、湖は突然現れた。記憶よりも小さく、そして広かった。矛盾した感覚が、視界を揺らした。
氷は張っていなかった。だが水面は不自然なほど静かで、風の波紋すら拒んでいるように見えた。湖は、生きているというより、保存されているようだった。
「ここでね」
母が言った。
「あなたが、落ちた」
その言葉で、時間が反転した。
あの冬。
笑い声。
白い息。
足元で鳴った、嫌な音。
――違う。
落ちたのは、俺じゃない。
「……母さん」
喉が凍りついたように声が出なかった。
母は湖を見つめたまま、続けた。
「引き上げたとき、氷がね。割れなかったの。人を抱えたまま、全部、沈んでいった」
俺の名前が、喉の奥で砕けた。
あの日、死んだのは誰だったのか。
戻ってきた俺は、何だったのか。
湖面に、俺の顔が映っていた。
だがそれは、確かに――俺ではなかった。
氷の底から、何かがこちらを見上げている気がした。
名前を呼ばれる前の、
まだ凍っていない死の気配が、足元に満ちていた。
第二章 沈む呼吸
その夜、眠れなかった。
布団に横たわると、天井の染みがゆっくりと水面に見えてくる。呼吸をするたび、胸の内側で氷が軋む音がした。冷蔵庫の唸り、柱のきしみ、遠くを走る貨物列車の低音――すべてが、水中で歪んで聞こえた。
夢を見ていたのかもしれない。
だが目を閉じるたび、あの湖があった。
沈む。
音が消える。
叫ぼうとしても、声は泡になってほどけていく。
はっと目を開けると、夜明け前だった。
窓の外はまだ青く、雪もないのに冬の匂いがした。
台所では母が起きていた。
湯気の立たない味噌汁をかき混ぜている。火はついているのに、なぜか温かさを感じなかった。
「眠れなかった?」
「……うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
母は俺の顔を見なかった。見れば、壊れてしまう何かがあるようだった。
「今日、湖に行く人がいるの」
母が言った。
「……誰が?」
「あなたよ」
箸を持つ手が止まった。
「昨日、戻ってきたばかりだろ」
「だから」
母は静かに答えた。
「今じゃないと、また凍るから」
その言葉の意味を、俺は理解できなかった。
だが理解したくもなかった。
昼前、湖へ向かった。
ひとりで。
氷はやはり張っていなかった。だが湖畔の土は硬く、踏みしめると低い音がした。まるで巨大な空洞の上を歩いているようだった。
水面に近づくと、妙な感覚がした。
寒いのではない。
引き寄せられている。
しゃがみ込むと、水の底が見えた。
澄んでいるのに、深さがわからない。光が途中で止まり、それ以上先に進むのを拒んでいる。
「……いるのか」
誰に向けた言葉だったのか、わからない。
そのとき、水面が揺れた。
風ではない。
内側から、何かが触れた。
――呼吸。
水の中から、確かに「息」の気配がした。
泡が一つ、浮かび上がる。
それは弾けず、水面に吸い込まれるように消えた。
まだ、温かいか?と頭に声が流れ込んでくる。
俺は立ち上がれなかった。
足が、自分のものではない。
息、できてる?
それは俺の声だった。
いや、俺が知っている「俺」の声。
「……やめろ」
声が震えた。
湖面に、輪郭が浮かび上がった。
人の形だ。
沈んでいるのに、逆さまに立っている。
顔が、こちらを向いた。
それは俺と同じ輪郭だった。
だが目が、決定的に違った。
生きている者の目ではなかった。
死んだ者の目でもない。
――保存された目。
「お前は……」
言い切る前に、湖が大きく波打った。
一歩、前に出ていた。
気づいたときには、靴の先が水に触れていた。
冷たくない。
むしろ、懐かしい。
帰ってきたんだね
声が、優しくなった。
ここ、凍らないよ
死んだまま、変わらない
足首まで水に沈んだ瞬間、
俺ははっきりと理解した。
――あの日、引き上げられたのは、俺じゃない。
生きていると思っていた十七年間は、
凍らない死の上を、歩き続けていただけだった。
水が、腰まで満ちてくる。
それでも、息はできた。
死氷は、
生を拒まず、
ただ――入れ替える。
第三章 境界の温度
水に沈んでいるのに、肺は苦しくなかった。
息を吸えば、冷気とも液体ともつかないものが胸に満ちる。吐くと、身体の外に溶けていく。呼吸というより、交換に近かった。
腰、腹、胸。
水位は確実に上がっているのに、恐怖はなかった。代わりに、強烈な既視感があった。――そうだ、俺はこれを知っている。忘れていただけで。
湖の中の「俺」は、ゆっくりと浮かび上がってきた。
正確には、上下の概念が崩れていた。こちらが沈んでいるのか、向こうが昇っているのか、区別がつかない。
距離が縮まるにつれて、細部が見えてきた。
濡れていない髪。
破れていない上着。
十七年前の冬、そのままの姿。
「……寒くないのか」
俺がそう言うと、もう一人の俺は首を傾げた。
寒いって、覚えてる?
その問いで、胸の奥がきしんだ。
寒さ。
痛み。
凍える指先。
記憶はある。だが感覚がない。
都会で過ごした十七年は、すべてガラス越しの世界だったのだと、今ならわかる。
ここはね
もう一人の俺が、湖の底を指さした。
温度が止まってる
死ぬ直前のまま
視線の先に、黒い影があった。
氷の破片。
いや、違う。
――人影だ。
子ども、老人、若者。
皆、同じ姿勢で沈んでいる。逃げようとした瞬間を、永遠に固定されたように。
「……そんなに、落ちたのか」
落ちたんじゃない
選ばれた
その言い方が、ひどく優しかった。
生きたいって、思った人だけ
最後の一瞬で
俺は言葉を失った。
あの日、氷が割れたとき、俺は何を考えた?
助けて。
嫌だ。
死にたくない。
叫んだ。
確かに。
「じゃあ……俺は」
君は、生きた
代わりに、僕が残った
もう一人の俺は、笑った。
それは作られた表情ではなく、心底納得した笑顔だった。
でもね
均衡が崩れた
十七年、君は「死んだはずの場所」で息をしてきた
だから、歪みが生まれた
胸の奥が、急に重くなる。
思い当たることが、ありすぎた。
理由のない空虚。
人を愛しきれない感覚。
どんな場所にいても、完全に「ここにいる」感じがしなかった。
「……母さんは」
声が、かすれた。
知ってる
最初から
だから、君を湖に近づけなかった
でも、もう限界だった
氷が、薄くなってる
その瞬間、湖全体が震えた。
水面が歪み、底の影たちが一斉に揺れる。
氷が軋む音が、四方から響いた。
選び直す時間だよ
どっちが、ここに残るか
「……ふざけるな」
叫んだつもりだったが、声は水に溶けた。
「俺は、生きてきた!」
知ってる
全部、見てた
孤独も、後悔も
それでも、君は進んだ
もう一人の俺が、手を伸ばしてきた。
指先が触れた瞬間、凄まじい冷たさが走った。
それは初めて感じる「死」だった。
だから
次は、僕が行く
「だめだ!」
反射的に、その手を掴み返した。
すると、湖が悲鳴を上げた。
氷が割れる音。
水位が一気に下がる。
境界が、崩れ始めていた。
――遅い
もう一人の俺の顔が、初めて歪んだ。
君が触れた
冷たい、と思った。
それが恐怖ではなく、安心に近いことに、
俺は理由を見つけられなかった。
もう、戻れない
世界が反転する。
上下が消え、光が遠ざかる。
最後に見えたのは、湖畔に立つ母の姿だった。
氷の上で、泣いていた。
その涙だけが、
凍らずに落ちていた。
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