始まり -1-
この写真には見覚えがある。これは二人で写した物ではない。選抜クラスへの合格が発表された時に、生徒たちと一緒にとった写真だった。それがまるで二人で、デート中にとったかのように加工されている。
お陰で犯人が分かった。
杏は下を向いたまま、スマホを触っていた。表情は見えない。またピコンと受信音がする。だんだんと内容が馴れ馴れしくなってくる。
“ねえ お祝いして。私、赤ちゃんが出来たの。勿論、貴方の子。本当に? なんて聞かないで。アンは一途なの”
“愛しているのは、岸本先生だけ”
なんだこれは? 状況が分からなかった。赤ちゃん? 何を言っている? 俺は鈴木杏とは何の関係もない。ただの生徒と先生……と考えて思わず口に手を当てた。
――ある。一度だけ。
――不意打ちだった。分からない所があると言われ、放課後の教室に二人きりになったことがあった。
――この問題なのだけど、と数学の本を広げる杏の横から、どれ? と覗き込んだ瞬間だった。
不意に杏の唇が岸本の唇に重なった。柔らかい感触がして、弾力ある舌が岸本の唇のまわりを
――それは否定できない。
だが岸本はすぐに自分を取り戻し、杏を遠ざけた。
――やめなさい!
――どうして? 私は先生を
杏は愛しているという代わりに、
――君は尊敬と愛を間違えている。
――思春期にはよくあることだ。
――よく見て、僕は三十五歳の腹が少し出かけたおっさんだよ。
――加齢臭もあるかもしれない。
――そんなことありません。岸本先生は素敵です!
――それにとても頭がいい。
杏はうっとりするような瞳で、岸本を見上げた。
その言葉は岸本のコンプレックスを刺激した。確かに昔、彼は彼自身を天才だと思っていた。特に数学にかけては。
「メンサに入れんじゃね?」と云う高校の時の友人の言葉を真に受けた。
テストは不合格だった。三度受けた。落ちた。上には上がいた。
東大には受かった。数学者になれると信じた。だが、やはり上には上がいた。物理学も駄目だった。この頃には岸本の精神は半分病んでいた。天才たちが何語を話しているのかさえも分からなくなった。大学の近くに借りた古アパートで、膝を抱えて閉じこもる日が多くなった。それを助けてくれたのが、大学のサークルで知り合った今の妻だった。
「岸本さあ」と妻はいつも乱暴な言葉使いで、彼の横にいた。
「数学、思い切って捨てれば? あんた、きっと教師に向いてる。この前、あたしの弟に問題の解き方教えてたよね。そんとき思った。理一なんかやめて文一に移って来なよ。あたしが傍にいるからさ」とかかかと笑った。
そして、彼は救われた。
――ねえ、先生。もう一度――
杏の白い手が伸びて来る。
岸本はそれを思い切り振り払った。
――やめてくれ! 僕は妻を愛している。
そう言い捨てて、岸本は杏を残したまま教室を出た。それが三か月程前のことだった。
以来、杏は勿論のこと、他の生徒、例えそれが男子生徒であっても二人きりになるのは避けてきた。質問があれば必ず職員室で教えることにしていた。
妊娠などあり得ない。全ては杏の妄想だ。しかし、杏が騒ぎ立てれば自分がどうなるかは火を見るより明らかだった。警察の捜査が始まる。自分はしばらく自宅待機を余儀なくされる。
例え妊娠していたとしても、DNA鑑定もある。杏の嘘はすぐにバレる。いつかは疑いは晴れる。だが噂を消すのは簡単ではない。
ネット上に流れるフェイクの情報。顔写真。生徒を妊娠させたエロ教師……。
それが嘘であることを証明するのは難しい。反論すればするほど、面白がって奴らはあることないことを騒ぎ立てる。黙って噂が収まるのを待つしかない。だが、一度ネットに書き込まれた情報は消えることがない。
―― デジタルタトゥー ――
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