始まり -1-

 この写真には見覚えがある。これは二人で写した物ではない。選抜クラスへの合格が発表された時に、生徒たちと一緒にとった写真だった。それがまるで二人で、デート中にとったかのように加工されている。


 お陰で犯人が分かった。


 鈴木杏すずきあん。岸本は廊下側の窓から、まだ教室の中に残っている彼女に目を向けて違和感を覚えた。杏は窓側の席に座っていた。熱帯のような暑さの中で汗一つかかず、サラリと長い黒髪は日光を浴びて艶っぽく光を放っている。

 杏は下を向いたまま、スマホを触っていた。表情は見えない。またピコンと受信音がする。だんだんと内容が馴れ馴れしくなってくる。


“ねえ お祝いして。私、赤ちゃんが出来たの。勿論、貴方の子。本当に? なんて聞かないで。アンは一途なの”


“愛しているのは、岸本先生だけ”


 なんだこれは? 状況が分からなかった。赤ちゃん? 何を言っている? 俺は鈴木杏とは何の関係もない。ただの生徒と先生……と考えて思わず口に手を当てた。


 ――ある。一度だけ。


 ――不意打ちだった。分からない所があると言われ、放課後の教室に二人きりになったことがあった。


 ――この問題なのだけど、と数学の本を広げる杏の横から、どれ? と覗き込んだ瞬間だった。


 不意に杏の唇が岸本の唇に重なった。柔らかい感触がして、弾力ある舌が岸本の唇のまわりをいながら、少しずつ口の間に入って来るのを感じた。若い女の子が放つ独特の甘い香りが岸本を包む。その刹那、理性が外れてこの感触をもっと楽しみたいという誘惑にかられた。


 ――それは否定できない。


 だが岸本はすぐに自分を取り戻し、杏を遠ざけた。


 ――やめなさい!

 ――どうして? 私は先生を懸想けそうしております!


 杏は愛しているという代わりに、懸想けそうと云う言葉を使った。それは愛しているよりも、深く重い言葉に感じた。そこには恋い慕うという意味と共に、切望するという意味が含まれているからだ。


 ――君は尊敬と愛を間違えている。

 ――思春期にはよくあることだ。

 ――よく見て、僕は三十五歳の腹が少し出かけたおっさんだよ。

 ――加齢臭もあるかもしれない。


 ――そんなことありません。岸本先生は素敵です!

 ――それにとても頭がいい。


 杏はうっとりするような瞳で、岸本を見上げた。


 その言葉は岸本のコンプレックスを刺激した。確かに昔、彼は彼自身を天才だと思っていた。特に数学にかけては。


「メンサに入れんじゃね?」と云う高校の時の友人の言葉を真に受けた。


 テストは不合格だった。三度受けた。落ちた。上には上がいた。

 

 東大には受かった。数学者になれると信じた。だが、やはり上には上がいた。物理学も駄目だった。この頃には岸本の精神は半分病んでいた。天才たちが何語を話しているのかさえも分からなくなった。大学の近くに借りた古アパートで、膝を抱えて閉じこもる日が多くなった。それを助けてくれたのが、大学のサークルで知り合った今の妻だった。


「岸本さあ」と妻はいつも乱暴な言葉使いで、彼の横にいた。


「数学、思い切って捨てれば? あんた、きっと教師に向いてる。この前、あたしの弟に問題の解き方教えてたよね。そんとき思った。理一なんかやめて文一に移って来なよ。あたしが傍にいるからさ」とと笑った。


 そして、彼は救われた。



 ――ねえ、先生。もう一度――


 杏の白い手が伸びて来る。

 岸本はそれを思い切り振り払った。


 ――やめてくれ! 僕は妻を愛している。


 そう言い捨てて、岸本は杏を残したまま教室を出た。それが三か月程前のことだった。


 迂闊うかつと云えば迂闊だった。教師として女生徒と二人きりになることなど、あってはならないことだ。だが、今まで妻以外にモテたことのない岸本は安心しきっていた。自分が恋愛対象になることはあり得ないと。

 以来、杏は勿論のこと、他の生徒、例えそれが男子生徒であっても二人きりになるのは避けてきた。質問があれば必ず職員室で教えることにしていた。


 妊娠などあり得ない。全ては杏の妄想だ。しかし、杏が騒ぎ立てれば自分がどうなるかは火を見るより明らかだった。警察の捜査が始まる。自分はしばらく自宅待機を余儀なくされる。


 例え妊娠していたとしても、DNA鑑定もある。杏の嘘はすぐにバレる。いつかは疑いは晴れる。だが噂を消すのは簡単ではない。


 ネット上に流れるフェイクの情報。顔写真。生徒を妊娠させたエロ教師……。


 それが嘘であることを証明するのは難しい。反論すればするほど、面白がって奴らはあることないことを騒ぎ立てる。黙って噂が収まるのを待つしかない。だが、一度ネットに書き込まれた情報は消えることがない。



 ―― デジタルタトゥー ――



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