あっちのこっち
界春男
プロローグ
その家は、毎日見ているのに、見た記憶が無かった。
ふと思い出そうとしても上手くいかない。
視覚から外れた瞬間に、存在自体がこの世界から消えてしまう。
けれど確かに、そこにある。
中野明が住んでいるアパートのちょうど反対側に、何の変哲も無い、二階建ての空き家がある。
屋根に乗った瓦は無くなっている箇所の方が多い。
せり出したベランダの床部分は、錆びて底が抜けているように見える。
塗装の剥げた手すりも、腐食して原型をとどめていない。
割れた窓ガラスから見える室内は、とても人が住んでいたとは思えないほどだった。
乾いた風が、カーテンだったものを揺らす。
誰もいないと分かっているのに、つい視線が張り付いてしまう。
空き家の向こうから北風が吹く。
ほこり臭いような、カビ臭いような気がするが、実際にそんなことはない。
空き家の有様を見ている中野の脳内が、勝手に想像しているニオイに過ぎないだろう。
荒れ果てた庭は、かつてコンクリートが敷かれていた面影が残っている。
それ以外は、雑草と野生化した庭木によって日々浸食され続けている。
この空き家は、いつからあるのだろうか。
日常に存在する、荒れ果てた、ただの空き家。
ところがそれは、昼間に限っての話だ。
夜、不意に目覚めることが多くなった。
物音がしたわけでも、トイレに立つわけでもない。
気がつくと、中野は窓を見ている。
カーテンの隙間から、向かいの家の二階が見える。
空き家全体を影が覆って、いや、空き家だけではなく、その周辺も一段と濃くなった影で重い。
何かが動いているわけでもない。
灯りがついているわけでもない。
窓の奥で重苦しい闇がじっとしているだけなのに、どうしても見てしまう。
目を離そうとしても中々うまくいかない。
中野が見ているのか。
もしかすると、見させられているのかもしれない。
ようやく視線を戻したときには、すっかり眠気が抜けきっていた。
中野はベッドの上で横になりながら、携帯電話を操作した。
——こんな怪談を見つけた。
住んでるアパートの目の前に、気味の悪い廃屋がある。
一目で誰も住んでないということが分かるくらいボロボロで、とにかく汚い。
木とかも生え放題で、何年も放置されてるっぽい。
アパートの大家さんが言うには、ここにアパートを建てるときから空き家だったらしい。
三十年くらい前からだから、かなり長い。
でも、当時は似たような空き家が近くに何軒かあったみたい。
それがコンビニになったり、マンションになったりして、「ああ、この空き家もそのうち何かになるんだろうな」って大家さんは思っていたらしいんだけど。
結局、目の前にある空き家だけは空き家のまま。
管理している人がいるとかいないとか、たまに人が出入りしているとか、そんな噂もあるみたいだけど。
実際に見たという人は誰もいなそう。
その噂も、最近になって聞くようになったそう。
道路を挟んで反対側にあるので、アパートを出るときに嫌でも目に入ってしまう。
前置きが長くてごめん。
ここからが本題。
昼間は別にいいんだけど、陽が落ちると雰囲気が全然違う。
なんというか、尋常じゃ無く暗い。
廃屋だから当然と言えば当然なんだけど。
電気が点いているとか点いていないとか、そういう話とはまた違うような暗さ。
暗いっていうよりも、本当に「無」って感じ。
いや、実際に家はそこにあるから「無」じゃないんだけど。
なんか、奥に引っ込んでいくような感じ。
見なければいいんだけど、暗すぎて逆に気になるというか。
見ないようにすればするほど、どうしても気になってしまうというか。
電車の中で変な人いたら、なるべく見ないようにするじゃないですか。
目が合ったら怖いし。
でも、やっぱり少しだけ見てしまうってことあるでしょ?
それと同じ感覚です。
暗すぎて見てしまうんです。
すみません。
怪談スレだから、もっとお化けとか出てくるような話じゃ無いとだめかと思ったんですが、書き込んでみました。
話はこれだけです。
似てる話だ、と思った。
窓の外を気にしている自分に気がついたので、寝返りをうって窓に背を向けた。
住んでいる家の近くに、空き家がある。
昼間は普通だけど、夜は何だか怖い。
よくある設定だ。
そんなことを思いながら画面をスクロールしたが、最後の一文で指が止まった。
これを書いている最中も、何度も廃屋を見た。
見てはいけないものを、まだ見ていないだけのような気がする。
この日はそれ以上、眠ることができなかった。
中野は、それから窓を見る回数を意識的に減らした。
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