『コールサインは、夜明けを待っている』
志乃原七海
第1話【プロローグ:太陽が聴こえた夏】
第1-話『コールサインは、夜明けを待っている』
【プロローグ:太陽が聴こえた夏】
――昔、世界は、音と光の奔流に満ちていた。そして、その奔流の中心には、いつも兄がいた。夏の匂いが、嗅覚を刺激するたび、兄の声の記憶を連れてくる。それは、湿ったアスファルトの熱気、青々とした草いきれの残り香、そして兄が愛用していた古い半田ごての、どこか甘い、罪深いほどの煙の匂いだ。それら全てが合わさり、結女が二度と触れることのできない、世界の「色」そのものを形作っていた。
あれは、空がどこまでも高く、青く、硬質に澄み渡っていた八月の日。記憶の中の太陽は、いつも許容範囲を超えて、痛いほどに明るかった。アスファルトの照り返しが、魂の幻影のように陽炎を揺らめかせる河川敷で、世界中のあらゆる音を吸い込んだかのような蝉時雨が、私たちの頭上から降り注いでいた。その音は鼓膜を叩く大音量でありながら、なぜか雑音ではなく、世界の生命が発する、巨大で途方もない合唱のように聴こえた。Tシャツが汗で肌に張り付く不快感さえもが、私と兄だけが共有する一種の祝祭のように感じられた、永遠のような午後だった。
「結女、こっちだ! アンテナの向き、あと5度だけ南! 南へ!」
兄・篠原陸の声は、常に断定形だった。私にとっては、彼が発する音は、無条件に正しい方向を示す羅針盤だった。彼の声には、私たちが今、この広大な地球上のどこかにある、たった一つの重要な信号のために共同作業をしているのだという、宇宙的な信念が宿っていた。しかし、その厳格な響きの奥には、妹を導く者だけが持つ、絶対に揺るがない優しさの波動が隠されていた。
13歳の私は、その声の波動に導かれるまま、額の汗を手の甲で拭った。手の甲についた汗の塩辛さが、夏の味覚だった。目の前には、兄がジャンクパーツから組み上げた、銀色の八木アンテナ。それは市販の効率だけを追求した道具ではなく、兄の魂が宿った、私と世界を繋ぐための中継器だった。三脚の上で、それはまるで未来の鳥か、あるいは異星の植物のように、誇り高く空を指していた。磨き上げられたアルミパイプが太陽光を乱反射し、私の目を細めさせる。その眩しさの中に、私は世界の無限の可能性を見ていた。この銀色の金属の先に、目に見えない宇宙と繋がる、秘密の扉があるのだと。
オイルが丁寧に注入された方位磁石の文字盤を睨みつけ、私は慎重にアンテナの向きを調整する。ミリ単位の狂いも、兄の目には許されない。真夏の太陽は皮膚のすぐ下まで、細胞一つ一つまで達しているかのようにじりじりと肌を焼き、熱気が皮膚の表面で細かく振動していた。その熱気の中に、土手から立ち上る青々とした草いきれの匂いと、遠くの鉄橋を渡る電車の、規則正しいリズムが混じり合っていた。兄は、そんな世界中の音と匂い、そして光の全てが、意味のある周波数を持っていることを、私に教えてくれた。
兄は、私のヒーローだった。
5歳年上の彼は、私よりもずっと深く、そして広い世界の構造を知っていた。秋葉原のガード下の薄暗い露店で買ってきた、用途不明のガラクタを分解し、夜通し自分の部屋でそれを新しい何かに組み上げていた。その時漂う半田ごての甘い煙は、私にとって兄が新しい世界を生み出すための「魔法の匂い」だった。彼は、混沌としたジャンクパーツの中から、完璧な秩序を持つ一つの機械を生み出す創造主だった。
夜、蒸し暑いベランダに二人で寝転がれば、兄は手のひらを広げ、夜空の星々を指さした。
「あれを見ろ、結女。白鳥座のデネブだ。あの光は、1400年という遥かな時間を旅して、今、僕らの網膜に届いている。僕らが今見ているデネブは、西暦600年代、まだ日本が飛鳥時代だった頃の光なんだ」
その説明を聞くたび、私は兄が天文学者であり、歴史家であり、そして宇宙と地球を結ぶ詩人であるように感じた。その瞳は、いつだって、私には見えない遥か遠くの何か――時間の彼方にある光を捉え、そしてその先に到達し得る未来を信じているようだった。
「よし、OKだ! 多分これで、国際宇宙ステーション(ISS)から、野口宇宙飛行士が子供たちに向けて発信するSSTV(低速度走査テレビ)の電波が拾えるはずだ!」
兄は興奮を抑えきれない様子で、愛用の古いトランシーバーのダイヤルに手を伸ばした。それは、私たち二人だけの小さな宇宙船の操縦桿だった。彼は、ダイヤルを、まるで貴重な宝石に、あるいは眠れる姫君に触れるかのように、ゆっくりと回す。カリカリ、カリカリ、という心地よいクリック音が、蝉の声の合間に響いた。それは、私たち二人だけの集中力の合間に響く、世界で最も大切な、期待の音だった。
やがて、スピーカーから「ザー…」という、生命の産声にも似たノイズが流れ出す。それは単なる雑音(ノイズ)ではなかった。遠い宇宙の彼方から届く、星々の叫びであり、あるいは人類が宇宙へと踏み出した一歩の証しのように聴こえた。私にとって、それは世界で一番、胸をときめかせる周波数だった。このノイズの向こうには、まだ見ぬ世界、まだ見ぬ誰かがいる。宇宙飛行士の声や、彼らが撮影した地球の写真が、今まさに電波という形で私たちのアンテナを目指して飛んでいるのだ。その揺るぎない事実だけで、私の胸はいっぱいになった。私たちは、この巨大な宇宙で、たった二人きりではなかった。私たちは、孤独ではなかった。
「…なあ結女。いつか、もっとすごいことしようぜ」
兄は、トランシーバーから耳を離し、空を見上げた。真っ白な入道雲が、夏の空をどこまでも高く、まるで神話に出てくる荘厳な城のように登っていく。
「月だよ。アポロ計画以来、人類が声を送っていない静寂の世界。俺たちの声を、あの月にぶつけて、跳ね返ってきた電波をキャッチするんだ。EME(アース・ムーン・アース)っていう技術だ。そうしたら、俺たちの声は、一瞬だけ38万キロの彼方まで旅行してくることになる。誰もいない、静かで完璧な世界に、俺たちの声だけが響くんだ。すごくないか?」
兄の声は、その響きだけで私の全身の細胞を振動させた。その声音は、私を常に「もっと遠くへ行ける」と信じさせてくれた。
「月まで…!」
想像もつかないスケールの話に、私は思わず息を呑んだ。私たちの声が、あの静かで、白い世界に届くなんて。それは、かぐや姫に手紙を出すことよりも、ずっとロマンチックな、科学と詩が融合した偉業のように思えた。それは、不可能なことなどないという兄の絶対的な信仰の表れだった。
「ああ。そして、いつか…まだ誰も聞いたことのない、不思議な電波を見つけよう。宇宙人が送ってくる信号かもしれないし、未来からのメッセージかもしれない。あるいは、もう滅んでしまった星の、最後の悲鳴かもしれない。俺とお前だけの、秘密のコールサインを探すんだ。世界中の誰も知らない、たった二人だけの周波数で」
兄の横顔は、いつだって未来の光に照らされて、きらきらと輝いていた。その笑顔には、世界に対する無限の信頼と、探求心に満ちていた。
その手を引かれて、私はアマチュア無線の免許を取った。分厚い法規集も、難解な無線工学も、兄が隣で、熱に浮かされたようにその面白さを語ってくれるなら、まるで壮大な冒険小説を読むように楽しかった。計算式や定理の一つ一つが、世界の構造を解明するための鍵のように思えた。兄と同じ世界を見たくて、兄と同じ「声」を聴きたくて。
あの頃の私にとって、無線機は、世界中の誰とでも繋がれる、希望の翼そのものだった。それは、兄が私に贈ってくれた、自由へのパスポートだった。
太陽の下で笑う兄と、どこまでも広がる青い空。
それが、私の世界の全てだった。そして、その全ては、いつだって、無条件で、私を受け入れてくれていた。
――まさか、その全てが、たった一つの匿名の悪意で、跡形もなく焼き尽くされるなんて。インターネットの巨大で饒舌なノイズの海に、私の「声」と「存在」が飲み込まれ、太陽が墜落し、空が墨を流したように黒く染まる日が来るなんて、あの夏の日の私には、想像もできなかったのだ。
1.【周波数 0.000MHz:独房のレクイエム】
現在。私の世界には、生命の温かさを持つ音も光もない。あるのは、電子が作り出す、冷たく、完璧な秩序だけだ。そして、無限の自己批判の残響だけが、壁の吸音材の中で虚しく反響している。
時刻は、午前3時13分。都市という巨大な機械が深い眠りに落ち、昼間の喧騒の残響さえもが完全に消え去った、沈黙の時間。昼間の私を嘲笑っていた人々の声も、ネットの誹謗中傷のログも、今は遠い幻影のように消え去っている。この時間だけが、私にとって真の安全地帯だった。
壁という壁、そして天井までもを黒い吸音材が覆う私の部屋は、まるで深海の水圧のように、重い静寂に満たされている。厚い遮光カーテンは、窓の外の東京という銀河系の存在を完全に消し去っていた。あの太陽に満ちた河川敷は、もう、物理的な距離を超えて、地球の裏側よりも、あるいは時間の始まりよりも、ずっと遠い場所にあるように感じられる。
篠原結女、16歳。高校には通っていない。ここが、私の世界の全てであり、私の砦であり、私の独房だ。私が自ら選んで閉じこもった、安全で、そして何よりも**「誰にも影響を与えない無害」**な空間。
私は、使い古されたオフィスチェアに深く身を沈め、目の前の六つの液晶モニターが放つ青白い光だけを浴びている。皮膚が光を吸収せず、反射するだけ。私は幽霊のように、あるいは深海の生物のように、その冷たい光の中で生かされている。切り揃えた黒髪も、血の気の薄い唇も、その無機質な光に染められ、現実の色を失っていた。
机の隅には、飲み干されたエナジードリンクの缶が三本、小さな墓標のように、整然と並んでいる。私はこの缶を捨てない。なぜなら、これらは私が**「生きている」**ことを証明する、唯一の具体的な残骸だからだ。糖分とカフェインだけが、この身体を動かす唯一の燃料だった。普通の人間が持つべき「熱」や「意欲」は、もう私の中には存在しない。
かつて兄と並んでダイヤルを回した、温もりのある木目調のパネルがついた、あの小さな無線機はない。あの機械は、人間と人間を繋ぐための「希望」の道具だったが、希望は裏切られる。今の私には、裏切らない「秩序」だけが必要だ。
今の私の前にあるのは、天井高く積まれたラックマウント式の機材群。古今東西の受信機、送信機、スペクトラムアナライザー、そして高性能なデジタル信号処理(DSP)ユニットで構成された、電子の祭壇。その黒い金属の筐体は、まるで未来都市のビル群のように、威圧的に聳え立っている。それらは、私を守り、私を罰するための、完璧に調整された機械たちだ。その冷たい金属の感触だけが、私を安心させた。
先日、久しぶりに顔を出した中学時代の友人は、この部屋を見て目を丸くし、そして少しだけ怯えたような声でこう言った。「すごい! YUME、ミュージシャン目指してるの? これ全部アンプでしょ?」。私は、曖昧に微笑んで、何も答えなかった。肯定も否定も、もはや億劫だった。笑える冗談だ。私にはもう、奏でるべき音楽も、聴かせたい誰かも、この世界のどこにもいないのだから。この機械たちは、音を出すためではなく、音を聴くため、そして音を「分析・分解」して、感情というノイズを排除するためだけに存在している。
私は、巨大で分厚いノイズキャンセリングヘッドフォンを装着し、意識を外界から完全に遮断する。ヘッドフォンが私の頭部を締め付け、世界との間に最後の防壁を築く。スイッチを入れると、サーというホワイトノイズが鼓膜を満たし、母親が階下で立てる微かな物音さえも、宇宙の彼方へと消え去る。これは、私のための結界。私のための、優しい繭。そして、私を「結女」ではない、ただの「観測者」に戻すための、厳格な精神的リセットボタン。
そして、今夜の「航海」を始めるための、厳格で、孤独な儀式に取り掛かった。儀式は、感情の混入を許さない。感情は、過去のトラウマを呼び覚ます。
「…原子時計(セシウム)同期、完了。システム時刻誤差、プラスマイナス0.01マイクロ秒以内」
指先が、慣れた動きでコンソールのスイッチを順番に入れていく。指先は冷たい。その所作に、迷いも感情もない。ただ、決められた手順を、機械のようにこなすだけ。感情はノイズを生む。ノイズは観測を妨げる。この完璧な秩序だけが、私を過去の絶望から遠ざける。
「…周波数スタビライザー、オールグリーン。温度ドリフト、許容範囲内」
カチリ、とリレーが作動する硬質な音が、静寂に響く。それは、私が感情を閉ざしたことの確認音のように聴こえた。
「…プリアンプ、シグナルOK。受信感度、定格に到達。ノイズフロア、基準値以下」
ウィーン、とラック内部の冷却ファンが一斉に低いハミングを始める。それは、巨大な生命体が、深い眠りから目覚める時の、静かな呼吸音にも似ていた。この機械の生命だけが、今の私には信頼できた。人間が発する「声」は、常に裏切りの可能性を内包している。
「…SDR(ソフトウェア無線)ユニット、オンライン。広帯域スキャンモード起動。全システム、離陸準備(プリペア・フォー・テイクオフ)、完了」
父は、この様子をドアの隙間から見て、「壮大なごっこ遊び」だと言って笑うらしい。心配しているのは知っているが、理解はされていない。
違う。これは遊びじゃない。これは、罰なのだ。贖罪の行為。
かつて、インターネットという饒舌で残酷な海で、私は私の全てを、無防備に、兄から教わった「希望」と共に晒した。そして、その「アバター」を焼き尽くされ、魂ごと殺された。匿名の人々の無慈悲な言葉が、私の存在そのものを否定した。その時の痛みが、今も私をここに縫い留めている。それは、物理的な傷ではなく、内側から細胞を焼くような、精神の火傷だった。
あの駅前で、見知らぬ同級生に「YUMEちゃんだよね?いつもネット見てるよ」と声をかけられた時の、心臓を氷の手に鷲掴みにされるような恐怖。私がどこに逃げても、世界は私を知っている。安全な場所はどこにもないと知った絶望。憎しみのあまり、自分の手で叩き割ったモニターのガラスの破片が、今も心のどこかに突き刺さり、時折、鈍い痛みを主張する。破片を抜いてしまえば、血が流れ、私が再び世界と繋がってしまう気がして、私はそれを放置している。
だから、私はもう話さない。評価もされない。繋がらない。沈黙だけが、私を守ってくれる。
ただ、聴く。
このノイズの海の底で、誰にも届かずに消えていく、声なき声を探す。
かつての私と同じように、助けを求める魂の断片を。その信号をキャッチし、その存在に気づいてあげることだけが、私がこの世界に存在することを、かろうじて許される唯一の行為なのだから。
それが、今の私の全てだった。過去への追悼であり、未来への拒絶。自己を無化するための、厳格な修行だった。
2.【心拍:未知のリズムの解析】
観測は、祈りに似ている。あるいは、広大な砂漠の中から、たった一粒の砂金を探し出す作業にも似ていた。しかし、その砂金は、見つけられた瞬間に私を再び世界と繋げてしまう毒でもあった。私は毒を求めている。
メインモニターに映るウォーターフォール表示を、私はただ見つめ続ける。上から下へと流れていく、電波の滝。青い背景の上に、黄色や赤の線が、無数に、しかし無感情に流れ落ちていく。それは、東京上空の空気に満ちた、目に見えない情報の奔流だ。そのほとんどは、意味のある情報だ。船舶の自動応答、航空機の管制信号、遠い国のラジオ放送、アマチュア無線の交信。それらは全て、私が夜なべして書き上げた、複雑なデジタルフィルターによって自動的に排除されていく。フィルターの目的は、意味のあるものすべてを遮断することだ。
私が探しているのは、そんな「意味のある」信号ではない。
意味をなさないはずの、ノイズの中の、僅かな揺らぎ。
誰のものでもない、孤独な信号。
それは、まるで、誰もいない浜辺に流れ着いた、メッセージの入っていない、空っぽの瓶のようなものだ。誰も気に留めない、存在の痕跡。しかし、その痕跡こそが、真実を語るのだ。
その瞬間は、何の予兆もなく、静寂を切り裂いて訪れた。
午前3時24分。全身の血液が一瞬で冷たくなったかのように、心臓が跳ねる。
ウォーターフォールの、普段は静かなはずの古い漁業無線用の周波数帯。その一点が、ほんの一瞬、燃えるような赤色に染まった。それはまるで、静謐な青い絵の具を垂らした水面に、一滴だけ真紅のインクが落ち、そして瞬時に拡散して消えたかのように、短く、そして決定的な光だった。その光は、私の暗い部屋に閉じ込められた秩序を乱す、最初の裂け目だった。
「――っ!」
息が、喉の奥で凍りついた。反射的に、私は無意識にヘッドフォンをさらに強く耳に押し付けた。
椅子を蹴るように立ち上がり、コンソールに身を乗り出した。背中に冷たい汗が伝う。
見間違いかと思うほど、それは刹那の出来事だった。心臓が、錆びついた扉のように軋みながら、嫌な音を立てて脈打つ。それは、私がどれほど平静を装っても、この身体がまだ「生き物」であることを証明していた。
私は震える指でマウスを操作し、ハードディスクに常時記録されている数秒前の受信データをバファから引きずり出す。高性能のSDRは、過去の電波を完璧に記録している。それは、時間の流れから、たった一片の「今」を切り取る作業だった。該当部分を切り出し、ノイズリダクションと複数のデジタルフィルターを、CPUが悲鳴を上げるほどの限界レベルまで引き上げ、再生ループにかけた。
ヘッドフォンの中から、音が聴こえた。
(…ツ、…ツー、…トン…)
(…ツ、ツー…)
ノイズの壁の向こうで、誰かが必死に何かを叩いている。モールス信号だ。しかし、モールスの基本である「ト・ツ」のリズムが、完全に崩壊している。符号は乱れ、震え、まるで嵐に翻弄されるボートの船首のように揺れていた。溺れる者の最後の息遣いのようだった。その音は、電気信号であるはずなのに、奇妙な湿り気を帯びていた。水滴の音か、発信者の震えか、判別がつかない。
解析ソフトにかけるが、表示されるのは意味をなさないランダムな文字列。「SPS」「SUS」。これでは通信として成立しない。遭難信号すらまともに送れないほどの、極限状態。発信者は、言語によるメッセージを送る能力を失っている。
違う。これは文字じゃない。これは言語以前のものだ。
私は聴いていた。モールスの意味ではなく、信号そのものが持つ、電気的な「震え」を。微細な周波数シフト、符号間隔の不規則な揺らぎ。それは、恐怖、焦り、そして諦念。生々しい感情の波が、300キロ以上離れた場所から、地球の電離層に反射し、私の部屋の屋根に立てられた高性能アンテナに届き、そして、私の魂を直接揺さぶる。それは、言葉を超えた、魂のダイレクトメッセージだった。
(まさか…そんなことが、技術的に可能だというのか…)
私は、もう一つの自作プログラムを起動させた。信号のON/OFFの時間間隔を、ミリ秒単位で数値化し、オシロスコープのように波形グラフとしてプロットするプログラムだ。これは、人間の意識の介在しない、純粋な物理現象として信号を分析するためのツールだ。
モニターに、緑色の線が描き出されていく。
それは、不規則でありながら、生命だけが持つ、あの独特のリズムを刻んでいた。
小さな山が二つ、そして、少し間を置いて、大きな山が一つ。
私は、自分の左手首に、そっと右手の指を当てた。トクン、トクン、と伝わる、自分自身の生命の鼓動。モニターに映る波形と、私の脈拍が、不気味なほどに、完璧にシンクロしていた。
それは、人間の心拍そのものだった。
心拍をモールス信号のように「ト・ツ」に変換し、無線に乗せている。発信者は、言葉を伝えようとしているのではない。自己を表現しようとしているのではない。
自分がまだ「生きている」という事実そのものを、最後の力を振り絞って、電波という見えない瓶に詰めて、嵐の吹き荒れる夜の海に流しているのだ。まるで、赤ん坊が世界に向かって泣き声を上げるように。純粋な生存本能の発露。
その心拍のリズムは、極度に弱々しく、いつ止まってもおかしくなかった。この信号が途絶える瞬間は、すなわち一つの生命の終わりを意味する。私はその瞬間の特等席にいるのだ。
3.【父のコールサイン:鎖を断ち切る声】
観測者でいるか、関与するか。
私は、部屋の椅子に座り込み、初めて明確に、そして恐ろしいほどの現実味を持って、この二択に直面した。部屋に閉じこもって以来、私は常に観測者であり続けた。安全な場所から、世界の混乱を眺める傍観者。それは、自分を傷つけないための絶対的なルールだった。
関われば、また傷つくかもしれない。私の声が、誰かを不快にさせ、それがまた私を傷つける結果になるかもしれない。あるいは、最も恐ろしいのは、何もできずに、ただ命が消えていく瞬間を、特等席で「聴いて」しまうこと。その罪悪感に、私は耐えられないだろう。それは、引きこもって以来の、あらゆる苦痛よりも、深く私を罰するだろう。
そんなのは、もう、ごめんだ。沈黙は、時に共犯者の印だ。
逡巡が、私の指を、体を、魂を、見えない鎖で縫い止める。沈黙の檻の中に、私を閉じ込めようとする、過去の恐怖の残像。
その時、机の隅のスマートフォンが、低いバイブレーション音と共に点灯した。父からの、いつもの定時連絡。父は、私が外と繋がることを恐れ、夜間も一定間隔で連絡を入れるルールを作っていた。その無機質な光が、暗い部屋の中で、唯一の灯台の光のように見えた。
『大丈夫か? 今夜は嵐だ。アンテナは固定しておけ。無理はするなよ』
無理は、するな。
そうだ。私はずっと、無理をしないできた。兄を失った後、私は世界に対して一切の「無理」を拒否した。傷つかないように、関わらないように、この安全な独房に閉じこもって、秩序を保ってきた。
しかし、今、この信号の主は。
嵐の海の真ん中で、たった一人で、最後の「無理」をしている。生存への執着、人間としての本能的な叫び。その叫びは、私の安全な壁を打ち破っていた。
かつて兄が言った言葉が、雷鳴のように頭の中で響いた。兄の瞳の輝きが、暗闇の中で蘇る。
『俺とお前だけの、秘密のコールサインを探すんだ』
違う。私が探すべきだったのは、秘密の信号なんかじゃない。
ただ、助けを求める、たった一つの声だったんだ。その声が、私の耳に届いた。この偶然と技術的な奇跡。その事実にこそ、私が再び「存在」する意味があった。
あの頃、太陽の下で笑っていた私なら、きっと、迷わなかった。方位磁石を握りしめて、声のする方角を、必死で探したはずだ。
私は、衝動的に、一度も使ったことのないトランシーバーのマイクを、両手で握りしめた。
ひやりとしたプラスチックの感触が、汗ばんだ手に馴染む。それは、私が拒絶してきた、現実世界の「手触り」だった。手のひらを通して、現実世界と繋がってしまう。覚悟を決める。
震える親指で、送信ボタン(PTTスイッチ)を押した。マイクに内蔵された小さなスピーカーから、カチリ、と音がした。それは、古い独房の扉の鍵が、解錠される音だったのかもしれない。沈黙は、ここで終わった。
何を伝えればいい? 相手はモールスもまともに打てないほど衰弱している。理論的な説明など無意味だ。感情的な呼びかけも、私の最も避けてきたものだ。
パニックに陥る頭の中で、ただ一つだけ、脳裏に焼き付いて離れない符号があった。
それは、父が書斎で、時々、無意識に指でなぞっていた文字列。兄に昔尋た時、「お父さんのお守りみたいなものだよ」と、少し寂しそうに教えてくれた、古いコールサイン。父がかつてアマチュア無線をしていた時代の、彼の存在を証明する符丁。
私は、無心で叫んでいた。救いのための言葉。
数年ぶりに喉から絞り出した声は、掠れて、少女のものとは思えないほど低く、硬かった。まるで、長い間使われなかった楽器が、無理やり鳴らされたかのように、私の肺を震わせた。
「CQ、CQ、CQ! こちらJQ1YUME!」
(これは私のコールサイン。私は、ここにいる!)
「ブラボー・エコー・セブン・ゼロ! ブラボー・エコー・セブン・ゼロ!」
(これは、あなたを救うための、共通の合言葉だ!)
「貴局の信号を受信した! 応答願います! どうぞ!」
嵐の海にいる見知らぬ誰かと、そして、海のどこかにいるはずの父に届くことを祈って。
私の初めての本当のコールサインが、嵐の夜の電波の海へと、小さな舟のように放たれた。
静寂の部屋に、荒い呼吸だけが残る。私の心臓は、モニターの心拍波形と同じように、激しく、不規則に脈打っていた。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
やはり、無駄だったのか。私の声は、誰にも届かなかったのか。私がマイクを置こうとした、その時。
『――ザザッ…! …YUME…か…? こちら…BE70…。…よく、見つけた…』
ノイズの向こうから、途切れ途切れの、しかし確かな応答があった。
それは、父の声ではなかった。
知らない男の声。だが、その声には、極度の疲労と、そして信じられないといった響きを帯びた、確かな安堵の色が滲んでいた。それは、彼が絶望の淵から引き上げられた、命の音だった。
私の世界の、重く閉ざされていた扉が、ギシリ、と音を立ててこじ開けられた。
私は、もう、ただのリスナーではいられない。私は、今、誰かを救うという、現実の世界の責任を、兄が遺した希望の翼で背負ってしまった。
モニターに映る心拍の波形が、まるで、私自身の運命の鼓動のように、大きく、大きく、波打ち始めた。夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
(第1話 了)
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