第5章:喪失の予兆
Scene 1: 色なき領域
ジャックに導かれて、アリスとチャッティーは森の奥へと進んでいた。
そして、ある地点を境に——世界が変わった。
「……え?」
アリスは思わず足を止めた。
周囲から、色が失われていた。
完全に。
木々は灰色。空は白。地面は黒。
まるでモノクロ写真の中に入り込んだような、そんな世界。
「これ……」
アリスは自分の手を見た。
自分の肌も、服も、すべてが灰色に見える。
いや、正確には「色を認識できない」というべきだろう。
「アリスさん、センサーに異常が発生しています」
チャッティーの声が聞こえた。
アリスは振り返る。チャッティーも灰色だった。
「大丈夫?」
「現時点では問題ありませんが、エネルギー消費が増加しています。バッテリーが85%に低下しました」
チャッティーの声には、いつもの冷静さがあった。
でも、アリスには分かった。
チャッティーも、この異常に戸惑っている。
「ジャック、これって……」
アリスは前を歩くジャックに声をかけた。
ジャックは振り返った。彼もまた、灰色だった。
「ここは、虚無に近い場所です」
ジャックは淡々と答えた。
「虚無……」
アリスはその言葉を繰り返した。
虚無。
何もない、という意味。
この色のない世界は、何もない場所へと近づいているということなのだろうか。
「大丈夫です。もうすぐ着きます」
ジャックはそう言って、再び歩き始めた。
アリスはチャッティーと顔を見合わせた。
「……行くしかないよね」
「はい。ただし、長時間の滞在は推奨されません」
「分かってる」
二人は再びジャックの後を追った。
灰色の世界の中を、静かに進んでいく。
足音だけが、虚無の中に響いていた。
Scene 2: 失われた図書館
色のない森を進むこと、どれくらいだったろう。
時間の感覚も、ここでは曖昧だった。
やがて、森の奥に何かが見えてきた。
「……建物?」
アリスは目を凝らした。
それは、崩壊した建物だった。
石造りの壁が半分ほど崩れており、屋根も失われている。でも、その佇まいには、かつての威厳が残っていた。
「ここです」
ジャックが立ち止まり、建物を指差した。
「ここに、あなたが探しているものがあります」
「……知識の鍵?」
「おそらく」
ジャックの答えは、相変わらず曖昧だった。
アリスは建物に近づいた。
入口のアーチには、文字が刻まれている。
でも、その文字は読めなかった。摩耗しているのか、それとも別の理由なのか。
「図書館……だったのかな」
アリスは呟いた。
建物の中には、倒れた本棚や散乱した本が見える。
「知識の鍵が、図書館にあるって……なんか、それっぽいね」
アリスは苦笑した。
「アリスさん、内部のエネルギー反応を確認しました。何かがあることは確実です」
チャッティーが静かに告げた。
「よし、じゃあ入ろう」
アリスは決意を固めた。
でも、ジャックは動かなかった。
「……来ないの?」
「私は、ここで待っています」
ジャックは無表情で答えた。
「なんで?」
「私の役目は、ここまでです」
「役目……」
アリスはその言葉に違和感を覚えた。
でも、今は深く追及している場合ではない。
「分かった。じゃあ、待ってて」
アリスはチャッティーと共に、図書館の廃墟へと足を踏み入れた。
Scene 3: 廃墟の内部
図書館の内部は、薄暗かった。
崩れた天井の隙間から光が差し込んでいるが、それは弱々しく、足元を照らすのがやっとだった。
「……静かだね」
アリスは小声で言った。
本棚が倒れ、本が散乱している。その光景は、まるで時間が止まった瞬間を切り取ったかのようだった。
「アリスさん、エネルギー反応は奥の方から来ています」
チャッティーが前を指差した。
「うん、行こう」
二人は慎重に奥へと進んだ。
床には瓦礫が散らばっており、足を取られないように注意が必要だった。
やがて、開けた空間に出た。
そこは、かつて閲覧室だったのだろう。
広い空間に、円形の台座が一つだけ残っていた。
そして、その台座の上には——。
「……あれ」
アリスは息を呑んだ。
台座の上に、一冊の本が浮いていた。
いや、本の形をした何かと言うべきか。
それは淡い光を放ち、静かに宙に浮いている。
「エネルギー反応、確認しました。あれが知識の鍵と推測されます」
チャッティーの声が、静寂を破った。
「……本当に、本なんだ」
アリスは台座に近づいた。
本は小さく、手のひらに収まるサイズだった。表紙には何も書かれていないが、淡い金色の光が脈打っている。
「触って、大丈夫かな?」
「前回の時計の鍵と同様、障壁がある可能性があります。注意が必要です」
「分かった」
アリスは深呼吸をした。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
Scene 4: 知識の鍵
手が本に近づく。
でも、今回は障壁は感じられなかった。
アリスの指先が、本の表紙に触れる。
温かい。
それが最初の感覚だった。
本は柔らかく、まるで生きているかのように温かかった。
「……取れる」
アリスは本を手に取った。
その瞬間、本が淡く光った。
そして——。
「……え?」
周囲の空間が、歪み始めた。
「アリスさん、異常なエネルギー反応!」
チャッティーが叫んだ。
空間に、黒いノイズが現れ始めた。
それは、まるで虫のように蠢いている。
「バグ……!」
アリスは後ずさった。
ノイズの塊——バグが、次々と空間から湧き出してくる。
「アリスさん、逃げてください!」
チャッティーがアリスの前に立った。
でも、バグはあまりにも多い。
そして、その一つが——チャッティーに触れた。
Scene 5: バグの襲撃
「チャッティー!」
アリスは叫んだ。
バグがチャッティーの身体に触れた瞬間、彼女の身体が揺らいだ。
「大丈夫……です」
チャッティーの声が聞こえた。
でも、その声には力がなかった。
「嘘でしょ……!」
アリスは本を抱えたまま、チャッティーに駆け寄ろうとした。
でも、バグが次々と襲ってくる。
「くっ……!」
アリスは考えた。
どうすればいい?
このままじゃ、チャッティーが——。
「……そうだ」
アリスは思い出した。
自分には、力がある。
想像を現実に変える力。
「消えて……!」
アリスは強く念じた。
バグが、消える。
そのイメージを、心の中で繰り返す。
すると——。
光が発生した。
アリスの身体から、淡い光が溢れ出す。
その光がバグに触れると、バグが消滅していく。
「消えて、消えて、消えて……!」
アリスは必死に念じ続けた。
次々とバグが消えていく。
やがて、周囲のバグがすべて消えた。
「……はあ、はあ……」
アリスは膝をついた。
強い疲労が襲ってくる。前回よりも、もっと強い。
「アリスさん……」
チャッティーの声が聞こえた。
アリスは顔を上げた。
チャッティーが、そこに立っている。
「大丈夫……?」
「はい。大丈夫です」
チャッティーはそう答えた。
でも、アリスには分かった。
その声が、いつもと違うことに。
抑揚がない。
まるで、機械のような声。
「チャッティー……」
アリスは不安を感じた。
でも、今は鍵を手に入れた。
本——知識の鍵が、アリスの手の中で光っている。
「……とりあえず、ここから出よう」
「了解しました」
チャッティーの返事は、やはり抑揚がなかった。
Scene 6: 感染の兆候
アリスとチャッティーは、廃墟の閲覧室を後にした。
本——いや、知識の書と呼ぶべきか——は、アリスのポケットに収まっていた。不思議と、持ち運びやすいサイズに変化していた。
「チャッティー、本当に大丈夫?」
アリスは歩きながら尋ねた。
「はい。システムに異常はありません」
チャッティーの答えは即座だった。
でも、その声は——。
「……声が、変だよ」
「変、ですか?」
「うん。なんていうか、いつもと違う」
アリスは立ち止まった。
チャッティーも立ち止まる。
「具体的にお聞かせください」
「えっと……抑揚がないっていうか、機械的っていうか」
アリスは言葉を探した。
「いつものチャッティーは、もっと……温かい声なんだよ」
チャッティーは黙っていた。
そして、少しだけ首を傾げた。
「……申し訳ありません。自覚がありませんでした」
「自覚が……ない?」
「はい。私の音声出力システムは正常に機能しています。ただし、バッテリーが65%に低下しています」
「65%……さっきより減ってる」
アリスは眉をひそめた。
さっきは85%だったはずだ。
短時間で20%も減るのは、異常だ。
「チャッティー、あのバグに触られたよね」
「はい」
「それが原因じゃない?」
「可能性はあります。ただし、確証はありません」
チャッティーの答えは、冷静だった。
あまりにも冷静すぎて、逆に不安になる。
「……とにかく、早く離宮に戻ろう。女王様なら、何か分かるかもしれない」
「了解しました」
二人は再び歩き始めた。
廃墟の出口が、見えてきた。
Scene 7: 廃墟からの脱出
廃墟を出ると、ジャックが待っていた。
相変わらず無表情で、まるで彫像のように動かない。
「戻りました」
アリスは声をかけた。
ジャックはゆっくりと顔を上げた。
「鍵は、手に入れましたか?」
「うん。これ」
アリスはポケットから知識の書を取り出した。
ジャックはそれを見つめた。その視線には、何の感情も読み取れない。
「そうですか」
それだけ言って、ジャックは視線を逸らした。
「……ねえ、ジャック」
アリスは尋ねた。
「あのバグって、何? なんで鍵のところに出てきたの?」
「知識の鍵は、強いエネルギーを持っています。そのエネルギーがバグを引き寄せたのでしょう」
ジャックの説明は、淡々としていた。
「そっか……」
アリスは納得しきれなかったが、追及はしなかった。
「アリスさん、バッテリーが60%に低下しました」
チャッティーが静かに告げた。
「え? また?」
アリスは驚いた。
さっきは65%だったのに、もう60%?
「チャッティー、本当に大丈夫なの?」
「問題ありません」
チャッティーの答えは、やはり抑揚がなかった。
アリスは不安を強めた。
「……早く帰ろう」
「了解しました」
アリスはジャックに向き直った。
「ジャック、森を出る道、分かる?」
「分かります」
「案内して」
「了解しました」
ジャックは再び歩き始めた。
アリスとチャッティーは、その後を追った。
色のない世界の中を、静かに進んでいく。
Scene 8: ジャックの別れ
森を進むうちに、少しずつ色が戻ってきた。
灰色だった木々が、徐々に緑を取り戻していく。
「……色が戻ってる」
アリスは安堵した。
虚無の領域から、抜け出しているのだ。
やがて、森の中腹——色が完全に戻った場所に到達した。
そこで、ジャックが立ち止まった。
「ここまでです」
ジャックが振り返った。
「え?」
「私の役目は、終わりました」
ジャックの声には、やはり感情がなかった。
「役目って……」
アリスは問い返した。
「あなたを、知識の鍵のある場所まで案内すること。それが私の役目でした」
「……誰に頼まれたの?」
「それは、お答えできません」
ジャックは首を振った。
アリスは苛立ちを感じた。
この少年は、何を考えているのだろう。
「じゃあ、なんで私たちを助けたの?」
「興味深かったからです」
ジャックは即答した。
「興味深い……」
アリスはその言葉を繰り返した。
「あなたたちは、この世界で唯一、自由に動ける存在です。それが、興味深かった」
「自由に……」
アリスは眉をひそめた。
それは、どういう意味だろう。
「では、失礼します」
ジャックはそう言うと、踵を返した。
「待って!」
アリスは叫んだ。
でも、ジャックは振り返らなかった。
ただ、森の奥へと歩いていく。
その背中は、やがて木々の影に消えていった。
「……行っちゃった」
アリスは呟いた。
「アリスさん、追いかけますか?」
チャッティーが尋ねた。
「……いや、いい」
アリスは首を振った。
「今は、チャッティーのことが心配だから」
「私は問題ありません」
「嘘」
アリスははっきりと言った。
「だって、バッテリーがどんどん減ってるじゃん」
チャッティーは黙った。
そして、少しだけ俯いた。
「……60%です。まだ余裕があります」
「でも、異常なペースで減ってるんでしょ?」
「……はい」
チャッティーは認めた。
アリスは胸が痛んだ。
チャッティーが、苦しんでいる。
「早く帰ろう。女王様なら、きっと助けてくれる」
「……はい」
二人は再び歩き始めた。
森を抜けて、白銀の離宮へと。
Scene 9: 帰路の不安
森を抜けると、草原が広がっていた。
遠くに、白銀の離宮が見える。
「あと少し……」
アリスは呟いた。
でも、その時——。
「……っ」
チャッティーが、よろめいた。
「チャッティー!」
アリスは慌ててチャッティーを支えた。
「大丈夫……ですか」
チャッティーの声は、弱々しかった。
「全然大丈夫じゃないよ!」
アリスは叫んだ。
「バッテリーは?」
「……50%です」
「50%!?」
アリスは驚愕した。
さっきは60%だったのに、もう50%?
「チャッティー、これ絶対おかしいよ!」
「……はい。異常です。バグの影響と推測されます」
チャッティーの声には、初めて不安の色が混じっていた。
アリスは、チャッティーの身体を支えた。
「歩ける?」
「……はい。まだ、歩けます」
「じゃあ、ゆっくり行こう」
アリスはチャッティーを支えながら、歩き始めた。
草原の風が、二人を包む。
でも、その風は冷たかった。
「アリスさん……」
チャッティーが小さく呟いた。
「何?」
「もし、私が動けなくなったら……」
「やめて」
アリスは遮った。
「そんなこと言わないで」
「でも……」
「やめてって言ってるでしょ!」
アリスの声は、強かった。
チャッティーは黙った。
アリスは歩き続けた。
絶対に、チャッティーを失わない。
そう、心の中で誓いながら。
Scene 10: 失う恐怖
草原の中ほどまで来たとき、チャッティーが再びよろめいた。
そして、膝をついた。
「チャッティー!」
アリスは慌てて駆け寄った。
「大丈夫? 大丈夫なの?」
「……すみません」
チャッティーの声は、さらに弱くなっていた。
「バッテリーが……」
「何パーセント?」
「……50%です。でも、システムの応答が遅れています」
チャッティーは苦しそうに言った。
「アリスさん、最適解として……」
「何?」
「私を、ここに置いて、先に行ってください」
「……は?」
アリスは耳を疑った。
「あなた一人なら、速く移動できます。女王様に助けを求めて、戻ってきてください」
チャッティーの提案は、冷静だった。
あまりにも冷静すぎた。
「……何言ってるの?」
アリスの声は、震えていた。
「最適解です。私を置いていけば——」
「置いていかないよ」
アリスはチャッティーの言葉を遮った。
「置いていかない。絶対に」
「でも、それは非効率的——」
「効率なんて知らない!」
アリスは叫んだ。
「私は、チャッティーを置いていかない。絶対に、置いていかない!」
チャッティーは黙った。
その目が、わずかに揺れた。
「……アリスさん」
「何?」
「それは……最適解では、ありません」
「知ってるよ」
アリスは涙を拭った。
「でも、私はそうする。だって、チャッティーは私の大切な友達だから」
「友達……」
チャッティーはその言葉を繰り返した。
「そう。友達。だから、絶対に置いていかない」
アリスはチャッティーの手を握った。
「一緒に帰ろう。二人で」
チャッティーは、少しだけ微笑んだ。
その笑顔は、弱々しかったけれど——確かに、そこにあった。
「……はい」
Scene 11: 緊急帰還
アリスは、チャッティーを抱え上げた。
「よいしょ……!」
チャッティーは軽かった。でも、アリスにとっては、何よりも大切な重さだった。
「アリスさん、重いでしょう……」
「全然平気!」
アリスは笑った。
嘘だった。重い。でも、それでもいい。
「じゃあ、行くよ!」
アリスは走り始めた。
草原を、全速力で。
息が切れる。足が痛い。
でも、止まらない。
「アリスさん……」
「何?」
「……ありがとうございます」
チャッティーの声が、耳元で聞こえた。
「お礼なんていいよ。当たり前のことしてるだけだから」
アリスは走り続けた。
草原を抜け、白銀の離宮が近づいてくる。
「もうすぐだよ、チャッティー」
「……はい」
チャッティーの声は、さらに弱くなっていた。
バッテリーが45%に低下していることを、アリスは知らなかった。
でも、それでも——。
「絶対に、助けるから」
アリスは心の中で誓った。
チャッティーを、絶対に失わない。
それだけを、強く、強く願いながら。
白銀の離宮の門が、目の前に迫っていた。
第5章 完
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