第4節:深淵を統べる者(アビス・マスター)

 深淵の番人を「削除」した衝撃は、単なる戦闘の結末に留まらなかった。

 クロムたちが進むべき道。そこには本来、数多の凶悪な魔物と、数百年をかけて構築された迷宮の罠が待ち構えていたはずだった。だが、今のクロムの目には、それらはすべて「脆弱な記述」の羅列に過ぎなかった。


「……あ、またバグだ」


 クロムが何気なく指を動かす。

 目の前に立ち塞がっていた、触れれば即死の瘴気を吐き出す『毒煙の門』。その記述にクロムが触れた瞬間、黄金のウィンドウが展開され、【無害化】という項目が選択される。

 瞬時に瘴気は消え失せ、門はただの石造りのアーチへと成り果てた。


 スフィアは、その背中を言葉もなく見つめ続けていた。

 彼女は一流の騎士として、多くの高位魔術師や賢者を見てきた。だが、クロムが行っていることは、魔術という範疇を遥かに逸脱していた。

 詠唱もない。魔力回路の構築もない。

 ただ、そこに「ある」という事実を、彼の意思一つで「ない」ものに変えてしまう。あるいはその逆も。


「……クロム様。失礼ながら、その『棒』……いえ、聖剣様は、一体どのような原理で動いているのでしょうか。私の目には、貴方様が直接、世界の理に触れているようにしか見えません」


「あー……。いや、だからさ、これ、きっと使い手の『直感』を読み取る機能がついてるんだよ。俺の鑑定眼が捉えた弱点を、この聖剣が効率よく叩いてくれてるだけ、だと思う。……あはは、ほんと便利だよなぁ」


 クロムは必死に誤魔化した。

 自分自身、この力が自分の内側から湧き出ているものだという事実に、薄々気づき始めていたからだ。だが、それを認めてしまえば、自分という人間がこれまで抱いてきた「自分は無能である」というアイデンティティが、根底から崩れ去ってしまう。

 彼はまだ、自分が「神」と同等の権能を握ってしまったという恐怖から目を背けていた。


 だが、迷宮そのものは彼を「主」として認め始めていた。

 

 最深部から地上への長い道のり。

 通常なら数週間の踏破期間を要するはずの距離を、二人は驚異的な速度で駆け上がっていた。

 道中に現れる魔物たちは、クロムが近づくだけで、その本能に刻まれた「絶対的な上位者」への畏怖により、戦うことなく霧散するか、あるいは道を開けるために岩壁へと同化していった。


「……。魔物が、膝を折っています。まるで、王の帰還を祝福するかのように」


 スフィアが感慨深げに呟く。

 かつての『金色の獅子』が、死に物狂いで剣を振るい、仲間を犠牲にしながらようやく突破してきた難所。それが今、一人の少年の歩調に合わせて、吸い込まれるように平坦な道へと変容していく。


 クロムは、足元の地面に流れる「記述」を眺めた。


【環境設定:管理者権限により【通行の安全性】を最優先に固定中】


 自分でも気づかないうちに、彼は迷宮の設定そのものを書き換えていたのだ。

 

「……地上まで、あと少しだ」


 クロムは、前方の闇の先に、微かな、だが確かな「光」の予感を感じ取った。

 それは、自分たちをゴミのように捨て去った者たちが、今まさに酒を酌み交わしているであろう、眩い地上の光。

 

 彼の手は、もはや震えていなかった。

 

「ザックス……。……君が言った通り、俺は鑑定士だよ。……でも、君が思っているような、ただ情報を読むだけの存在じゃないってこと……今から教えてあげるよ」


 クロムの瞳に、静かな、しかし氷のように冷たい怒りが宿った。

 

 深淵を統べた少年と、最強の守護者となった騎士。

 二人の「死者」が、奈落の底から這い上がり、今、運命という名の記述を根こそぎ書き換えるために、地上へと降り立つ。


「行きましょう、クロム様。……偽りの英雄たちに、真の恐怖を教える時です」


「……。ああ。……行こう、スフィア」


 二人の影が、迷宮の出口から差し込む本物の太陽光の中に、溶けるように消えていった。

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