第6話
初めてのお座敷に上がってから二週間が経った朝。
瑠生は向かいに座る桔梗をチラリと見た。
──今日のお母さん、なんだか声をかけにくいな……
真っ直ぐな背筋に、藤色の着物とえんじの帯。ショートヘアのトップもふんわりして、身なりはいつも通り。
違うのは、難しい顔しながら箸を運んでいる姿だ。
庭で囀る鳥の声が爽やかな朝を演出しても、雨雲が頭上にあるように空気が重い。
もしかして、半玉が俺だってバレた──とか? ……それで機嫌悪い? いや、お母さんは怒ったりなんかしない。それに、バレてたらもっと早く大ごとになってるはず。
米粒をちびちびと口に移していたら、桔梗が口を開いた。
「瑠生。この前は助かったよ」
桔梗が湯呑みをそっと差し出し、目を合わせて言った。
湯気の向こうに見えたその顔は、いつもの桔梗だ。
胸のつかえがするりと取れると、急に食欲が湧いてくる。
「お、お礼なんていいよ。でも、バレなくてよかった」
二杯目をよそいながら、瑠生は緩んだ顔で笑った。
「ほんとだね。ま、私はバレないって自信はあったけど」
「え、そうなの!」
思わず声が裏返りそうになったとき、スマホが鳴った。
「ああ、私のだ。瑠生はゆっくり食べてなさい」
桔梗がスマホを手に取ると、ふすまをそっと開けて隣の和室へ消えた。
お椀を持って中の豆腐を摘んだとき、ふすま越しに桔梗の声が聞こえた。
珍しいな。お母さんの話し声が聞こえるのは。
いつもはふすま一枚挟んだだけでも、桔梗の声は静かだ。それなのに、隣の居間まで聞こえてくる。
会話はわからないけど、普段より感情的な声だ。
胸をざわつかせながら部屋に近づくと、ちょうど同じタイミングでふすまが開かれた。
「お、お母さん。何かあったの」
瑠生の声と同時に桔梗は小さくため息を吐くと、座布団に腰を下ろした。
どこか困ったような、でも懐かしむような目で瑠生を追っている。
「……瑠生。あんたはやっぱり蘭子の孫だね。ほんと、たまげたよ」
瑠生が首を傾げると、桔梗の手がそっと伸びてきた。
手のひらが髪をかき混ぜ、くしゃくしゃになるまで撫でまわす。理由もわからず、その温かさにされるがままで尋ねてみた。
「何のこと? ばあちゃんがどうしたのさ」
桔梗が肩でため息を吐くと、瑠生の頭をリズムよくポンッと叩いてくる。
「瑠生。あんたが出たお座敷のお客さんで、一番偉い人を覚えてるかい」
「一番偉い人?」
頭の中でお座敷の風景を思い出してみる。
舞台に近い席にいたのは——
「あ、ガタイのいい吉田っておじさんだ」
桔梗が苦笑をしながら、当たりだと言った。
「その人がどうかし——あ、俺が何かやらかした? え、どうしよう。でも、俺はあんまりその人とは話してないし……。どっちかっていうと、一番若い、沖って人と——」
狼狽えながら言うと、落ち着きなさいと笑われた。
「その吉田さんが、
「寄付って……あのおじさんがお金をくれるの?」
「そうだよ」と言って、桔梗がお茶を啜った。
「吉田さんは国際観光施設協会の会長だ。その人が瑠生の半玉を見て、花柳界に期待できるって寄付してくれたんだ。それと、沖って人だけど、あの人——」
桔梗の顔が徐々に曇り、続きの言葉を言い淀んでいる。さっきの困った方の顔になった。
「何、どうしたの」
「いや、これはもう断ろうと思ってるんだ、私は」
的を得ない言い方は桔梗らしくない。話してよ、と瑠生はせがんだ。
「沖って人が、瑠生をまた座敷に呼んでほしいって言ってるそうだ」
「えっ、俺を?」
思わず叫んだら、今度は渋い顔になって桔梗が頷いた。
「まだ半玉になったばかりだからって断ったんだけどね。また瑠生がお座敷に出てくれるなら、沖さんが見番の稽古場を修理してくれるんだとさ」
「本当に! それって、ラッキーじゃん」
瑠生の頭には、姐さんたちの喜ぶ顔が浮かんだ。
所々、軋む床や、足袋を履いてても畳表のほつれが気になる。
修理してくれるなら、もう一度お座敷にあがってもいいとまで思った。
男だとバレるのは怖いけど、稽古場がきれいになれば見番で働く人も喜んで一石二鳥だ。
「今回、瑠生に半玉を頼んだのは、あくまでも寄付の話があったからだ。吉田さんは今の花柳界の現状を知りたいと言っていた。今の芸者の行く末を心配してね」
食べて飲んで、芸者を嬉しそうに見ていた吉田の顔を思い出す。けれど、わからないのは沖という若い男だ。
縁もゆかりもない稽古場の修理代を出してまで、半玉に会いたのだろうか。
修理するのに百万はいるって聞いた。
着ていたスーツは高そうだったけれど、そんな大金を半玉を呼ぶためだけに出すなんて信じられない。
沖さんって——どんな人なんだろう。
よく知らない男性のことを考えていると、胸の奥が少しざわつくのが自分でもわかった。
「また呼ばれる……のかな」
期待と、少しの不安。どちらもが入り混じって、心臓の奥で小さく波打つ。ふと、頭に手をやると、桔梗の手の温もりがまだ残っていて、その感覚に安心した。
「しかし、沖さんはどこから稽古場の修理が必要だって知ったんだろうね。気になるけど、瑠生の件ははっきり断るつもりだ。何度も電話してこられちゃ迷惑だしね」
「別にいいのに」
「……人数が足りない芸者を瑠生は補ってくれた、それだけで十分だ。学校に行く前に悪かったね。洗い物はいいから早く支度しなさい」
「あ、もうこんな時間か」
時計を見上げたとき、玄関から聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
「ほら、お迎えが来たよ」
食器を流しに置くと、「じゃ、行ってきます」と言って瑠生は玄関に向かった。
「るーい。遅いっ」
上がり
まん丸な黒目にふっくらした唇の、ひとつ年上の幼馴染が頬を膨らましている。
長い髪を二つに分けて結んだその毛先を、指で絡ませていた。
普通の男子なら、この可愛さに鼻の下を伸ばすのかも知れない。でもゲイを自覚する瑠生には、ただ可愛いと思うだけだ。
「ほっぺた膨らませてると、名前みたいに丸くなるぞ、小桃」
「もー、また源氏名で呼ぶ。せめて制服着てるときは本名で呼んでよね」
ぷうぅと一段と頬を膨らませながら立ち上がると、咲希が下から掬うように瑠生を睨んできた。
「ごめん、ごめん。小桃の方が言い慣れてるからさ」
「早く一人前の芸者になって瑠生をこき使ってやるからね。あ、そういえば瑠生に聞きたいことあったんだ」
「聞きたいこと?」
靴を履きながら聞き返すと、玄関に飾ってある写真を眺めながら咲希が言う。
「
「さあな。俺も会ってないし。一人暮らしするようになってからは、置屋にもあまり顔を出さなくなったな。あ、でも見番には行ってるっぽい。梅ちえ姐さんが言ってたから」
「茉莉花姉さんって、ふく里では一番の古株でしょ。置屋にも長い間住んでたみたいだけど、芸者やめちゃうのかな。お座敷にあんまり呼ばれなくなったみたいだし」
そういえば、見番を通さずに仕事してるって噂もあったっけな。
瑠生がふく里に住むようになったころには、茉莉花はすでに置屋を出ていた。
勝手気ままな性格のせいで、他の姐さんたちとは合わなかったらしい。
「辞めちゃうのかな。あの人、性格はイマイチだけど、色っぽいからもったいないよね」
咲希の言葉に、瑠生も心の中で頷いた。
毎日稽古をして、お客に顔を覚えてもらい、お座敷に呼んでもらえる。そこまで積み上げた時間を捨てるなんて、もったいない。
お母さんたちが茉莉花姐さんのことに触れないのは、何か理由があるのかもしれない。
気にはなるけど、誰にも聞けなかった。
自分は男で、芸者でもない。首を突っ込むのはやめておいた方がいい。
そんなことを考えているうちに、咲希はいつの間にか前を歩いていた。
瑠生は大股で追いつき、彼女の少し高い肩を見上げた。
咲希より小さいなんて、情けない。
早く大人になりたい。
大人の男になったらたくさん稼いで、見番の修理だってなんだってやれる。
そうすれば、みんなをちゃんと守れる。
瑠生はもう一度、咲希を見上げながらこっそり呟いた。
とりあえず、今は早く背が伸びてほしい。
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