第5話 ニーチェ ─神の墓碑を立てた者─

カントが凍らせた哲学の墓に、もう誰も祈りに来ない。

瓦礫は冷えきっていた。

この場所は2000年の哲人たちの終焉の地。


しかしただ一人。

まるで高熱に浮かされたように、割れそうな頭を抱えて、よろよろと歩いてきた男がいた。


彼の名は、フリードリヒ・ニーチェ。



生まれつき体が弱く、頭が軋む音を立てるほどの頭痛に苦しみ続けてきた彼は、今まさに死にかけていた。


彼はかすれた視界の中、カントが閉じた棺桶を蹴り飛ばした。



蓋が開くと、中から何かが転がり落ちた。

それはかつて「神」と呼ばれたものと、
カントが砕いた哲学2000年のバトンの欠片だった。



──ああ。


ニーチェは、冷たくなったその瞼に、そっと指を這わせた。


そして……静かに閉じた。



コペルニクスが地を奪い、
ガリレオが天を奪い、
ダーウィンが血を奪い、
ヴォルテールが舌を奪った。


その最後の息の根を、今、俺が止めた。


──俺たちが殺した。


神は死んだ。



 *        *        *



これは私、フリードリヒ・ニーチェの遺書である──。


神が生きていた時代、

人はこう考えていた。




強いことは善い。


弱いことは悪い。


獅子は美しく、羊は醜い。


それが自然で、まっすぐな価値だった。


ところが、弱者どもが群れをなして叫んだ。


「暴力はいけない」「憎しみはいけない」「謙虚であれ、慈悲であれ」


そして、愛と純粋さをもって生きた一人の男を、彼らは正義の名の下に十字架にかけた。



「自分を愛せよ」「敵を愛せよ」「抵抗するな」


彼はそう言いながら、誰にも屈せず、誰も憎まず、十字架にかけられても呪わなかった。

人々が後に「弱者の象徴」と呼んだその男は、実際には誰よりも自由で、自分の意思に忠実で、誰にも支配されない生を生き抜いた強人だった。




「殺された強者」の名を借りて、「殺させた強者」に罪を着せ、自分たち弱者は「赦す側」に立った。

これは弱者の、人類史上最も狡猾で最も完璧な復讐だった。


こうして、価値観は永遠にひっくり返った。

強い者は憎まれ、弱さが美徳と呼ばれるようになった。

それは弱者のための世界だった。


しかし、弱者を守ってくれた神はもう死んだ。


──俺だって弱い。



孤独だ。


誰にも愛されない。



それでも毎朝、頭痛と嘔吐を押して原稿用紙に向かってきた。


なぜだ。


痛くても、愛されなくても、誰にも理解されなくても、
それでも『もっと強くなりたい』『もっと書きたい』『もっと生きたい』という、この胸の奥で燃える小さな炎が、死にかけた今も消えない。


これこそが、人間が最後に残した唯一の本物の衝動だからだ。



その炎を自覚し、目を背けず、
ただひたすらに強さを目指して生きる者。


──超人。

神という絶対的な審判者が消えた今、超人は堕落しない。


自分自身で価値を作り、自分自身で肯定し、虚無の大地に自分で勝利を刻みつけて生きていく。


逆に、「ただ穏やかに生きたい」「健康で、長生きできればそれでいい」「争いは嫌だ、眠れれば十分だ」と、熱も欲も失い、ぬるく生きてぬるく死ぬ者たち。


──末人。

何も欲さず、何も生み出さず、ただ「幸せでした」と呟いて終わる、最も軽蔑すべき存在。


俺は、そうはなりたくないんだ。


なりたくなかったんだ。



だから殺した。

お前らの代わりに俺が殺してやった。

血反吐を吐いて、神を殺した。



──俺はもう死ぬ。


だから、誰か。

俺の代わりに超人になってくれ。


俺は神を殺し、墓標を立てた。

人類がよってたかって殺してきた神のとどめは、俺が刺した。


神が死んだ世界だからこそ人間は舞える。


蛾のように踊れ。

虚無の上で、血を吐きながらでも、笑いながらでも、踊り続けろ。

それが人間に残された、唯一の尊厳だ。


俺たち人間は、神が死んだ世界で、まだ舞える。

1889年1月3日 トリノにて




 *        *        *




ニーチェは砕けたバトンの欠片を握りしめた。
手に血が滲み、遺書に染み込んだ。




──いい署名代わりになった。


そう言い、彼は遺書を投げ捨てた。

その代わりに、手に血が滲んだまま、カントが叩き割ったバトンの欠片をさらに強く握りしめた。


哲人たちが命をかけて繋いできたバトン。

その砕けた断片には、まだ光が残っている。



──頼む。


ニーチェは血の味を噛みしめながら、握りしめていたバトンの欠片を天に放り投げた。


ニーチェの投げたバトンは無数に砕け、鋭く光を放ちながら、遠く、天へと消え、

彼は倒れた。


血と涙と笑みを撒き散らして、彼が立てた神の墓標の下で。


1889年1月のことだった。



 *        *        *



無数に分かれたバトンの一本は、そのわずか、8ヶ月後。

1889年9月26日。

生まれたばかりの、未来の哲学者のもとに、静かに落ちた。


赤ん坊は、まるで新しいおもちゃを得たように笑顔になった。


切っ先が赤ん坊の指を切る。

それでも赤ん坊は泣かずにその鋭い光を握りしめた。


カントが終わらせた哲学を、「もう一度、ゼロから」始めた男。


──マルティン・ハイデッガー。


その人だった。


ニーチェが付けた火種は、確かに燃え上がろうとしていた。

黒い煙を上げて。



(続く)

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