第4話 不登校児との対話

 佐藤正治がその民家に辿り着いたのは、予定していた宿に断られた翌日のことだった。


 スマートフォンは相変わらず不安定で、地図アプリは現在地を正確に示さない。

 表示されるのは、広い緑色の空白と、意味のない点。


「……まるで白地図だな」


 呟いてみても、返事はない。


 通りがかった軽トラックを止め、事情を説明すると、運転席の初老の男性は眉を下げた。


「この辺、宿は少ないですよ。今の時期は、なおさら」


 そう言って、少し考え込み、


「知り合いの家なら……一部屋空いてたはずですが」


 それが、始まりだった。


 山のふもとにあるその家は、古く、静かで、どこか時間から取り残されたようだった。

 縁側には干し柿の名残が揺れ、庭には手入れされすぎていない草木が伸びている。


 出迎えたのは、五十代後半と思しき女性だった。


「急で申し訳ありません」


 佐藤が頭を下げると、女性は苦笑した。


「いえ……こちらも、正直、ちょっと手が足りなくて」


 家の中に案内される途中、佐藤は違和感を覚えた。


 生活音が、少ない。


 人が住んでいる気配はあるのに、

 どこか“閉じた”空気があった。


「実は……」


 お茶を出しながら、女性は言いにくそうに口を開いた。


「甥が、一緒に暮らしていまして」


 その言葉に、佐藤の背筋が自然と伸びる。


「学校に……行っていない子なんです」


 一瞬、時間が止まった。


 不登校。

 その言葉は、佐藤の中で即座に意味を持つ。


「問題行動は?」


 口に出してから、遅かったと気づいた。


 女性は少し驚いた顔をし、それから首を横に振った。


「暴れたりはしません。ただ……部屋から出てこないことが多くて」


 佐藤は、胸の奥で小さく頷いた。


 扱える。

 いや、扱うべきだ。


 そんな感覚が、無意識に湧いていた。


「私、教員をしておりまして」


 そう名乗ると、女性の表情がわずかに変わった。


「それなら……」


 期待と、不安が混じった目。


「無理に何かしていただかなくても構いません。ただ、大人の男性が家にいるだけでも、違うかもしれないと思って」


 佐藤は、その言葉を“任せられた”と受け取った。


 これまで、何度もそうしてきた。


 問題のある子どもがいて、

 周囲が困っていて、

 自分が前に出る。


 それが、役目だった。


「分かりました」


 自然に、そう答えていた。


 廊下の奥、閉じた襖の向こうに、気配がある。


 佐藤は、その方向を一瞬見つめた。


 まだ、顔も知らない少年。


 ——学校に行かない選択をした子ども。


 佐藤正治は、このときまだ知らなかった。


 この家が、

 この少年が、

 自分の“正しさ”を、静かに解体していく場所になることを。


 それでも彼は、

 教員としての癖で思っていた。


 自分なら、何とかできる。


 その思い込みこそが、

本当の始まりだった。


 年齢は、中学二年か三年。

 佐藤が声をかけたとき、少年は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を逸らした。


「……別に。学校、行ってないだけ」


 それだけ言って、イヤホンを耳に戻す。


 旅の途中、佐藤は世話になっている古い民家で、その少年と共同生活をすることになった。

 遠縁らしい家主が、困ったように言ったのを覚えている。


「無理にどうこうしなくていいですから。ただ、ここにいる間、放っておくわけにもいかなくて」


 放っておくわけにはいかない。

 その言葉に、佐藤の中で何かが反応した。


 放置は、怠慢だ。

 導くのが、大人の役目だ。


 そう、ずっと信じてきた。


「名前は?」


「……ユウ」


 それ以上、少年は何も話さなかった。


 翌朝。

 佐藤は、いつもの癖で早起きし、台所に立っていた。


「ユウ君。朝だ。生活リズムを整えるところから始めよう」


 返事はない。


 部屋を覗くと、布団の中でスマートフォンを見ている少年の姿があった。


「起きなさい。今は勉強しなくてもいいが、時間は——」


「うるさい」


 低く、しかしはっきりとした声。


 佐藤は、言葉に詰まった。


「……君の将来の話だ。今のままでは——」


「将来ってさ」


 少年は、ゆっくりと身体を起こした。

 その目は、怒っているというより、疲れ切っていた。


「将来の話する人って、みんな“今”の話しないよね」


 胸の奥が、ざわつく。


「学校行かないとダメ。勉強しないとダメ。普通じゃない。

 でもさ、普通って、誰の話?」


 佐藤は、反射的に答えていた。


「社会だ。集団だ。生きていくために必要な——」


「それ、先生の言葉だよね」


 少年は、静かに言った。


「俺のじゃない」


 その一言が、佐藤の中で重く落ちた。


 それでも、佐藤は引き下がらなかった。

 いや、引き下がれなかった。


 ここで折れたら、

 今までの自分が、全部否定される気がしたからだ。


「君は逃げている」


 言ってしまった瞬間、空気が凍った。


 少年の表情が、すっと消える。


「……やっぱり」


 呟きは、諦めに近かった。


「大人って、みんな同じだ」


 それ以上、少年は何も言わなかった。


 その夜。

 佐藤は、布団の中で目を閉じたまま、眠れずにいた。


 昼間のやり取りが、何度も頭を巡る。


 正論だったはずだ。

 間違ったことは、言っていない。


 ——なのに。


 翌日、家主から聞かされた。


「ユウ、前の学校でね……クラスのLINEで、毎日名前が出てたらしいんです」


 佐藤は、息を呑んだ。


「先生に相談したら、“気にしすぎだ”って言われたって」


 言葉が、喉に詰まる。


「それで……もう、行けなくなった」


 沈黙が、部屋に落ちた。


 佐藤は、思い出していた。


 自分が、かつて何度言ったか分からない言葉を。


 ——気にするな。

 ——強くなれ。

 ——みんな同じだ。


 その夜、佐藤は少年の部屋の前に立った。


 ノックしようとして、手が止まる。


 何を言えばいいのか、分からなかった。


 正解の言葉が、どこにもなかった。


「……」


 結局、何も言えずに、その場を離れた。


 翌朝。


 佐藤は、少年に何も言わなかった。

 勉強の話もしない。

 学校の話もしない。


 ただ、朝食を用意し、

 黙って隣に座った。


 少年は、不思議そうに佐藤を見たが、何も言わなかった。


 しばらくして、ぽつりと呟く。


「……先生、今日は怒らないんだ」


 佐藤は、少し考えてから答えた。


「……怒る資格が、ない気がしてな」


 少年は、驚いたように目を見開いた。


 佐藤は、その反応を見て、はっきりと理解した。


 自分の「正論」は、

 誰かを導くためのものではなく、

 黙らせるためのものだったのだと。


 その事実が、胸の奥で、静かに崩れ落ちていった。


 佐藤正治は、初めて知った。


 教える前に、

 正す前に、

 聴かなければならない声があることを。


 そして、自分はずっと、それを無視してきたのだと。


 沈黙が、二人の間に落ちた。


 気まずさではない。

 急に言葉が、軽くなってしまったような、不思議な静けさだった。


 ユウは、箸を止めたまま、しばらく俯いていた。

 その指先が、わずかに震えている。


「……先生さ」


 ぽつりと、声が落ちる。


「俺が学校行かないの、ズルいって思う?」


 佐藤は、すぐには答えなかった。


 頭の中に、昔の自分の声が浮かぶ。

 ——逃げるな。

 ——耐えろ。

 ——皆そうしている。


 だが、その言葉を、今は選ばなかった。


「正直に言うと」


 佐藤は、息を整えてから口を開いた。


「……昔の私なら、そう言ったかもしれない」


 ユウの肩が、ぴくりと動く。


「でも、今は……分からない」


 ユウは顔を上げた。

 責められると思っていた目が、少しだけ揺れる。


「分からない?」


「ああ」


 佐藤は、自分の手のひらを見つめた。


「私も今、仕事から離れていてな。

 行く場所がなくて、何をしていいかも分からない」


 ユウは、目を瞬かせた。


「先生なのに?」


「先生だから、かもしれん」


 自嘲気味に笑う。


「ずっと、答える側だった。

 正しいことを言う立場だと、思い込んでいた」


 佐藤は、少し言葉を探した。


「でも……今は、何も分からないまま歩いてる」


 ユウは、しばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。


「……俺もさ」


 声は低く、慎重だった。


「学校行ってないって言うと、

 みんな“何が嫌なの?”って聞くんだ」


 佐藤は、黙って頷く。


「でも、嫌なこと一個じゃないし、

 説明しようとすると、“それくらい”って言われる」


 ユウは、ぎゅっと箸を握った。


「それで……話すの、やめた」


 佐藤の胸が、きしんだ。


 ——それくらい。


 何度、使ってきた言葉だろう。


「先生さ」


 ユウは、少しだけ視線を逸らして言った。


「怒らないなら……聞いてくれる?」


「……ああ」


 即答だった。


 ユウは、断片的に話した。

 教室の空気。

 画面の向こうの言葉。

 誰にも見えないのに、確かに刺さる視線。


 佐藤は、途中で遮らなかった。

 正そうともしなかった。


 ただ、聴いた。


 話し終えたユウは、肩の力を抜いた。


「……言ったら、ちょっと楽になった」


 佐藤は、その言葉を胸に刻んだ。


「私もだ」


 ユウが、不思議そうに見る。


「旅に出てな。

 私は、“変わろう”と思って歩き始めた」


 佐藤は、ゆっくりと言った。


「でも実際は、

 何が間違ってたのか、まだ途中だ」


 ユウは、少し考えてから言った。


「……途中って、悪くない気がする」


 その言葉に、佐藤は驚いた。


「終わってないってことでしょ」


 ユウは、少しだけ笑った。


「俺も、まだ途中だし」


 夕方の光が、部屋に差し込む。

 影が、二人の足元で重なった。


 答えは、なかった。

 解決も、していない。


 だが、ヒントは確かにあった。


 ——一人で決めなくてもいい。

 ——話しても、壊れない。


 翌朝。


 ユウは、靴を履きながら言った。


「……今日は、ちょっと外、出てみる」


 佐藤は、頷いた。


「私は、もう少し先へ行く」


 玄関先で、二人は立ち止まる。


「また、どこかで会えるかな」


 ユウの問いに、佐藤は微笑んだ。


「途中なら、きっとな」


 別々の道。

 だが、同じ速度で。


 学校へ向かう一歩と、

 旅を続ける一歩が、

 同時に踏み出された。


 それは、再出発と呼ぶには、あまりに静かな朝だった。

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