第2話:浸食の鼓動(パルス)

2325年12月29日。 覚醒からわずか数時間。対ウイルス用究極プログラム『MOMO』は、キビツに連れられてネオ・オカヤマの最下層、通称「スラム・ヤード」の空気を吸っていた。


空からは、重金属を含んだ粘りつくような雨が降り注いでいる。 街を埋め尽くすホログラム広告は、浸食されたバグのように不規則に点滅し、行き交う人々は剥き出しの義手や義足を軋ませながら、無機質な歩調で泥水を跳ね上げていた。


「世界は、ノイズに満ちているのですね」


MOMOが呟く。 彼の網膜ディスプレイには、現実の光景に重ねて膨大なデータがフローチャートのように流れている。 通行人のバイタル、違法な無線パケットの傍受、老朽化したインフラの設計図。 MOMOにとって、この世界は物理的な実体であると同時に、書き換え可能なコードの集合体に過ぎなかった。


「ああ、最悪のノイズだ。だが、このノイズこそが人間が生きてる証拠でもある」


キビツはトレンチコートの襟を立て、安物の合成タバコを深く吸い込んだ。 彼の視線は、前方の薄暗い路地の奥に固定されている。 そこには、明らかに異常な発光を放つ巨大な影がうごめいていた。


「キビツ、反応が来るわよ。準備はいい?」


通信用デバイスからクシロの鋭い声が響く。 彼女は今、安全な地下研究室から、MOMOの感覚データと同期し、戦況をモニターしていた。 彼女の手元には、かつて政府軍のラボで使われていた最高機密のデバッグ・コンソールが並んでいる。


「わかってる。……MOMO、実戦テストだ。あの『影』の出所を突き止めろ」


路地の奥から姿を現したのは、このセクターの治安維持を担当しているはずの、旧型警備ロボット『ボディーガード・零式』だった。 だが、その姿は異様だった。 強固なセラミック装甲は内側から強引に引き裂かれ、そこから赤黒い光を放つ「触手」のような電子回路が溢れ出している。 カメラアイは不規則に明滅し、スピーカーからは人語とは思えないノイズが漏れていた。


「大罪ウイルス『ONI』の初期型感染体を確認。……ターゲット、論理回路が100%浸食されています。救済は不可能」


MOMOの声が、戦闘モードへと切り替わる。 その瞬間、彼の細い体のラインが、脈打つような桃色の光を放ち始めた。


「ビルド・完了。タクティカル・プロトコル、フェーズ1」


警備ロボットが、その巨体に似合わない速度で突進してきた。 重量数トンの鋼鉄の拳が、MOMOの頭上から振り下ろされる。 直撃すれば、アンドロイドのフレームごと粉砕される一撃。


しかし、MOMOは動かない。 拳が彼の鼻先に触れる寸前、空間が歪んだ。


「――読み取り(リード)、完了」


MOMOが指先でロボットの装甲に触れる。 次の瞬間、警備ロボットの動きがピタリと止まった。 ロボットの内部OSに対し、MOMOが直接「一時停止(ポーズ)」の命令コードを流し込んだのだ。


「なっ……物理的な接触だけで、あの階層まで潜り込んだのか!?」


モニター越しに見ていたクシロが、驚愕の声を上げる。 通常、軍用のセキュリティを突破するには数分間のハッキングが必要だ。 だが、MOMOは一瞬で、それも物理干渉を介して敵のカーネル(核)に到達していた。


「無駄です。あなたのコードは、すでに私の管理下にあります」


MOMOが掌を広げる。 すると、警備ロボットの巨体が、内部から発生した桃色の発光によって内側から弾け飛んだ。 爆発ではない。データが「消去(デリート)」されたことによる、存在の崩壊だった。


飛び散った装甲の破片が、MOMOの頬をかすめて背後に突き刺さる。 少年の姿をした英雄は、返り血のようなオイルを拭うこともせず、ただ静かに戦果を分析していた。


「戦闘終了。ONIのコード断片を回収。……ですが、マスター。異変を感じます」


MOMOの視線の先。 破壊されたロボットの残骸から、目に見えないほど小さな赤い粒子が立ち上り、空へと消えていくのが見えた。


「ああ、俺も見てる。……マズいな」


キビツが端末を確認する。 彼の顔から余裕が消え、深い皺が刻まれた。


「今のはただの哨戒兵に過ぎない。ONIの本隊は、ネットワークのさらに深層……浮遊ラボ『鬼ヶ島』の防壁に守られた場所にいる。そこに行くには、今のMOMOの『処理能力』だけじゃ、扉を開けることすらできねえ」


「どういうこと、キビツ?」


クシロの問いに、キビツは苦渋に満ちた声を出す。


「鬼ヶ島の防壁は、三重の暗号化が施されている。一つは、物理的な圧倒的破壊力。一つは、電脳空間での無限の並列処理。そしてもう一つは、死角のない全方位の索敵能力だ。……MOMOは個体としては最強だが、あそこを突破するには『演算資源』が足りなすぎる」


MOMOは、自分の手を見つめた。 今、一瞬で敵を消去したその手。 しかし、彼の内部ログには、さらに巨大な絶望の壁がシミュレートされていた。


「マスター。私の予測演算でも、単独での到達確率は0.0001%まで低下しました」


「……だろうな。ONIは学習している。今の戦いも、連中にとってはただのサンプル回収だ。1月1日……あと二日足らずで、連中はこの街のすべてを書き換える準備を終えるだろう」


雨は激しさを増し、街のネオンを滲ませていく。 キビツは、コートのポケットから一枚のデータ・チップを取り出した。 そこには、かつて彼が共に戦った戦友たちの、現在は使われていない古い連絡先が記録されていた。


「MOMO。お前は強い。だが、お前には『牙』が必要だ。俺たちの言葉にできない想いを、物理的な暴力に変えてくれる牙が」


キビツの脳裏に、クシロの傍らで丸まっていた、あの老犬の姿が浮かぶ。 長年家族として過ごし、今は死の淵に立っている、あの忠実な友。


「クシロ、聞こえるか」


「ええ、わかってるわ。……シロのことね」


通信の向こうで、クシロの声がわずかに震えた。 彼女にとって、シロを機械に変えることは、愛する家族の「死」を否定するようで、耐え難いことだった。


「あいつの寿命は、もう持たない。……だが、シロの忠誠心と勇気があれば、MOMOの演算能力を支える最強の外部ユニットになれる。……クシロ、あいつの許可をとってくれ。強制はしない」


「……わかったわ。あの子なら、きっと喜んで尻尾を振るはずよ。大好きなあなたたちを守るためならね」


キビツは、雨空を見上げた。 2325年12月29日、午後11時。 世界が死に向かうカウントダウンは、無情にもその刻みを早めていく。


「MOMO。これから俺たちは、呪われた運命を書き換えに行く。……これは、ただの鬼退治じゃない。俺たちの命の証明だ」


「命の……証明。……理解しました、マスター。プロトコルを更新。……第2フェーズ:仲間(パーティ)の集結。これより移行します」


MOMOの瞳の中で、金色の回路図が激しく回転する。 それは、彼の中に「孤独なプログラム」ではない、新しい何かが芽生え始めた瞬間だった。


二人は、泥濘む路地を歩き出す。 背後では、破壊されたロボットの残骸が、冷たい雨に打たれながら静かに沈黙していた。


ネオ・オカヤマの夜はまだ長く、深い。 だが、その暗闇の中で、桃色の光はかつてないほど鋭く、明日を切り裂こうとしていた。


第2話「浸食の鼓動」 完

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