ヴァレンティア記
@Haruuika
第1話 魔術
王都セレスティアの外縁部、カージスの街の一画。
リリアの勤める小さな工房は、朝の陽光が差し込み、今日も術式インクの匂いが満ちていた。
「今日か、フォン・エーゼン邸は。もう何年ぐらいだ?」
親方のハンスが朝食のバケットを片手に道具箱を覗き込みながら言った。60手前のベテランでいつも皮肉屋だ。
「8年ぶり。私が初めて描いた陣だもん、よく覚えているわ」
「もうそんなたつか。そういやぁあの頃はまだ殊勝らしくあれこれ俺に確認してきたっけ。診断には行ってあったな?」
「ええ、一応今日自分でもやるけど。線の薄化に魔導石の枯渇、塗料剥離もひどかったわ。結界陣もだけど、空調陣も弱ってるから夏は暑くて冬は寒いって伯爵がしょっちゅうぼやいてるんですって」
若い見習いのトラビスが笑った。
「金持ちのぼやきってやつですか。俺らの結界がなきゃ、あんな郊外の邸なんて魔物に襲われてぼやく暇もねえのに。空調もだなんて贅沢言ってますなあ。はいよ、図面」
トラビスからの図面を鞄に詰めると、リリアは笑った。
「贅沢な空調陣でも、金払いはいいんだから文句は言わないの」
ハンスが鼻を鳴らす。
「違ぇねぇ。行ってこい。返ったら酒を奢れよ」
リリアは苦笑いして工房を出た。
馬車を走らせて貴族街を抜け、一時間程長閑な郊外の街道を走ると、フォン・エーゼン邸に着く。
馬車を停め降りると、執事が出迎えていた。
「ようこそおいで下さりました。時間ぴったりでございますね」
「魔術工房連盟所属、ハンス工房の魔術師リリア・シュトライスでございます。本日はよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします。さぁ、どうぞこちらへ」
執事が敷地内へと案内し、リリアが続いた。
荷物を運ぶと申し出てくれたが、丁重にお断りしておいた。
「伯爵もご高齢で、やれ
「もう少し早く伺いたかったのですが、なにぶん人手不足で、申し訳ございません」
「いいえ、主も言いたいだけで、お忙しいのは存じておりますので」
邸宅は壮麗だったが、地下の術式室に降りると、埃と古いインクと魔力の匂いがした。にわかにリリアは自身の気分が上向いてくるのを感じる。
「専門外の我々が下手に掃除しすぎるわけにもいかず、軽い掃き掃除程度で」
「8年たてばこうなるものです。十分綺麗な方ですよ」
「左様でございますか、ありがとうございます。それでは一旦私はこれで。何かありましたら一階におりますので」
リリアは階段を降りきって、地下室の床面中央の魔術陣を眺めた。
これが結界陣で、正面の壁に書かれているのが空調陣だ。
「さてと、まずは診断から」
リリアは一呼吸おくと、簡易の探知魔法を唱えた。
「γδιιξ…φΛζζ…」
青い光が二つの緻密で複雑な術式を這い、空調陣の方は途切れた箇所でぷつりときれる。
「空調が弱いのはあそこね。そりゃ効きが悪いはずだわ」
図面と見比べながら、さらに同じ作業を経路を変えながら複数回繰り返した。
「だいたい、診断報告通りね。ちょっと薄化が進んでるかな」
リリアは道具を広げながら工程を整理した。
午前中の間に剥離した塗料の研磨と、下地の塗り直しまで済ませよう。
午後は空調陣の線一本書き直しとその他の修正、虚銀微粉の塗り直しをして、それから全体を仕上げ、魔導石を交換すれば完了だ。
頭の中でそう算段を整えると、リリアは作業に取り掛かった。
リリアは術式を組んでいく設計よりも、このシンプルで地味だが根気のいる手作業の方に心地よさを感じる。時間を忘れ、作業に没頭している間はどこか別の世界にいるような、そんな気がして心地が良かった。
予定よりはやく、2時間ほどで研磨と下地を終えると、まずは空調陣の線の引き直しにとりかかる。
銀インクで書き直しとなった箇所に一本一本線と文字を書き入れていく。
少しでも線がずれたり形状を間違えれば、それだけで悪さをする。曲線や直線はコンパスと定規で正確に測り、細部も、全体も、バランス良く完璧に。
集中したリリアの筆先には一切の揺らぎもなかった。
丁度書き直しが終了したところで正午を迎えたらしく、執事が昼食の準備をしたからと庭へ案内してくれた。
暖かい陽に照らされながらの優雅な食事は性にあわないと思っていたが、存外悪いものではなかった。
執事が食後のお茶を出す。
「最近お仕事道具の値段は安定しておりますか?」
今回用の魔導石が3〜5%ほど値を上げていたのを思い出した。
「そうですね、すこーし値上がりしましたかね」
「左様でございますか。何でも南部にまた迷宮が出現して、相変わらず騒がしいようで」
「エルドラドですか。商連がまた儲けてるんでしょう」
「ええ、若い領民の少なからずが南部の自由都市に移動してしまうそうで、主が難儀しておりますよ」
「夢がありますからねー、あそこは」
リリアには危険を冒して迷宮などという意味不明なものに踏み込んでいけるのが昔から信じられなかった。そこから産出される数々の魔具を使用している分、感謝もしているのだが。
「主人の悩みの種でもありますが、界溢も増加傾向にあるし、王家も一波乱ありそうで、何かと落ち着かない世の中でございますね」
「我々としては、どうあろうと魔術を描いていくだけですけど、魔物と戦ったり政に関わる方々は大変ですよね」
リリアがそう言うと、執事は小さく笑った。
「全く同感です。私もこうしてお茶を淹れていくだけですから」
夕方には全ての作業が終わった。
術式が静かに美しい輝きを取り戻す。
魔力の流れが滑らかに巡り始め、室内にほのかな暖気が漂いはじめた。
「これで魔除けは万全、空調も快適になります。また7、8年は大丈夫ですよ」
わざわざ地下室まで様子を見たいとおりてきた伯爵が礼を述べる。
「ありがとう。これでぐっすり眠れるわい」
リリアは邸宅を出ると、王都の夕暮れを見上げた。
遠くで教会の鐘が鳴る。
誰かが取ってきてくれたこの道具を使い、自分の描いた魔術によって、誰かが安心して眠れるようになる。
リリアには複雑な世界において、ただそれだけで十分だった。
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