第6話 書籍暗号の続報/猫の頼み事


 9


 時が経った本のインクの香りは、小学生の時に母と行った図書館を思い出させ、安らぎと心地よさを感じる。


 放課後の高校の図書室にいると、今はもうどこにも居ない母の面影を追っているようだった。 


 同居人の猫から借りてくるよう指定してきた10冊の小説も残り4冊。相も変わらず、図書室を利用する生徒は少ない。


 ふと、隅の方で本を熱心に見ている男子生徒が目についた。なるほど、あれが例の。


 坪内さんから話は聞いていたが実際に見るのは初めてだ。


 彼女の言う通り、何度もページが行ったり来たりしている。捲るたびに右手で持っているペンを走らせている。


 あれが、絵本さんが言っていた書籍暗号だ。ページに行数、何文字目かを見ているような視線の動かし方。推理は間違ってなかった。


 視線を受付カウンターに移すと、図書委員で噂好きの坪内さんは、彼を凝視していた。彼女は絵本さんからの忠告を無視している。


 棚から目当ての本を手に取り、俺はカウンターへ行き、彼女の前に置いた。


「関わらないほうがいいと言ったはずだ」


 犯罪行為に関わっているかもしれないんだぞと付け加えようと思ったが控えた。解読しているであろう彼に聞かれたくなかったからだ。


「だって……気になるんだもん」彼女は頬を膨らませた。


「あのな」


「網代くんは目の前で誰かがヒソヒソ話をしてたらどう思う?」


「どうって……」


 いきなりの話題に混乱したが、すぐに頭の中にその場面を思い浮かべて考えた。


「こっちを見ながら話してたら良い気はしない。でも、基本は何とも思わない」


「そこがわたしと網代くんの違い。わたしは基本、ヒソヒソ話をされたら漏れなく全部気になるの。みんなが知っていてわたしだけが知らないのが一番イヤなの」


 なるほど、彼女の噂好きはこの考え方から来るものなのか。視線は俺ではなく、机の彼に向けられていた。


 次の瞬間、坪内さんは居ても立っても居られないというような様子で受付カウンターの席を立った。


 彼女は返却された本を何冊か手に取り、6人掛けの机に座る男子生徒に向けて足を進めた。彼の後ろを横切る際、視線は彼の手元に向けられた。


 手際よく本を元の場所に戻すと、足早に受付カウンターに戻ってきた。


 彼女は席に着くと、怪訝な表情を浮かべ、頬杖をついた。


「どうした?」俺が訊くと、


「“赤いダブルデッカーの前で5時、南を向いて待て”、この意味分かる?」

 

「普通に待ち合わせじゃないか?赤い2階建てのバスを目印にして、5時に会いましょうってことだ」


 何だ、普通の会話文じゃないか。犯罪行為に関わっているかもしれないというのは、まったくの取り越し苦労だったらしい。


「網代くんがあんなこと言うから、てっきり壮大な犯罪計画の内容が書かれてると思ってた。何だか残念」


 坪内さんは席を立ち、残りの返却された本を手に取り、本棚の方へ消えていった。


 ほどなくして図書室の奥から、椅子を引きずる音が聞こえた。俺は音のする方へ首を向けると、暗号のやり取りをしていた男子生徒が机の上を綺麗にして帰るところだった。


 彼の事はあまり見ないようにした。怪しんでいると思われたくなかったからだ。足元だけ一瞥すると、上履きについている線の色は3年生であることを示していた。


 10


 帰宅し電気を点けると、フローリングには小さな肉球の跡があちこちに付いていた。俺は言葉を失った。


 居間の方から絵本さんがやって来た。足取りが重く、俺と視線を合わせようとしない。「これはどういうことだ」と怒らず、まずは穏やかな口調で挨拶をしてみる。


「ただいま」


「おかえりなさい」罰が悪そうな顔で、彼女は返事をした。最近、彼女の表情は豊かだ。


「何があった?」


「わたし……退屈で」やっと絵本さんと視線が合った。「ずっと部屋にいるなんて耐えられない!」


 絵本さんと出会い、2週間が経とうとしていた。その間、ずっと彼女は部屋でひとり。俺だったら耐えられないな。気付けば俺の中の床を汚された怒りは消えていた


 肉球の跡をよく見ると、土が付いている。外出したんだ。


「散歩楽しかったか?」


「何で分かったの?」絵本さんは大きな目を更に見開いた。


「フローリングに付いている足跡に僅かだが土が付いている。それに退屈を嫌う性格からして、散歩に出かけたんだろう」


 絵本さんが推理を披露する時の口調が少し移ってしまったようだ。


「まだわたしの足元にも及ばないけど、見事な推理ね。弟子にしてあげましょうか?」


「褒められても嬉しくない。それを言う前に俺に何か言うことがあるんじゃないのか?」


「……ごめんなさい」


 猫が頭を垂れるなんて新鮮だな。俺は顔を緩ませて言った。


「分かった。じゃあ、掃除しよう」


 俺は一つ手を叩き、雑巾を手に取って蛇口を捻った。絞ってから部屋を見回すと、ほぼ部屋全体に土が付いた足跡があった。


 部屋の半分ほど拭き終えた頃、玄関の方にいる絵本さんを見た。


 俺が濡らして広げておいた雑巾の上で汚れた足を拭いている。時々自身の肉球を見て綺麗になっているか確認していた。


「絵本さん」俺は少し声を張った。


「何?」


「足はちゃんと綺麗になったか?」


「ええ。綺麗になった」


「それは良かった」


 カーテンの下にある足跡を最後にすべて綺麗に拭き取った。ベランダに出るガラス戸に足跡が集中していた。外へ出た経路が分かった。


 ベランダのガラス戸を開けると、外の湿気が風に乗ってやって来た。植物の嫌な匂いで不快感を覚え、すぐに閉めた。隣に絵本さんがやって来た。姿勢を正し、外を見つめていた。


「ここから出たんだな」


「そう。鍵の閉め方が甘かったから、何度かジャンプして開けたの。今度からちゃんと戸締まりしておいて。永田っていう刑事に怒られちゃうから」


「そうだな。気をつけるよ」


 俺はショルダーバッグから、今日図書室で借りてきた本を2冊取り出し、絵本さんに渡した。彼女の好みは古典の名作ミステリーだ。


「これ、新しく借りてきたやつ」


「ありがとう」絵本さんは前足を器用に扱い、ページを捲った。


 あっ、図書室で思い出した。話しておくか。


「絵本さん、書籍暗号の件、進展があったんだ」


「え?」小説に視線を落としていた彼女の顔が勢いよくこちらに向けられてきた。


「坪内さんが暗号のやり取りしてる人の後ろをさり気なく通って盗み見たんだ。それで……」


「内容は?」彼女は俺の言葉を遮り、早く話せと目で訴えかけてくる。


「“赤いダブルデッカーの前で5時、南を向いて待て”ただの待ち合わせのやり取りで、絵本さんが言ってた犯罪行為との関わりは全然無かったんだ」


 絵本さんは開いていたページを閉じベランダのガラス戸越しに、雨が降り出しそうな曇り空を鋭い目つきで見つめていた。


「どうした?」


「退屈凌ぎには十分な謎ね。網代くん、わたしこれから散歩に行く機会が増えると思う。床がまた汚れるけどいい?」


 絵本さんの穏やかな口調の中に謎を追う探偵の使命感を見て取れた。俺の言った暗号の内容に、彼女の頭脳を刺激するようなものはなかったと思うが。


「汚れるのはごめんだ。ここに濡れ雑巾を置いておくから、帰ってきたらこれで拭くんだ」


 俺はベランダの近くにあるガラス戸を指差した。


「わかったわ」絵本さんは小さく口角を上げた。「ありがとう」


「いいんだ。それより、退屈凌ぎには十分な謎って何だ?俺が言ったことと何か関係があるのか?」


「それは何とも言えない。まだ推定の域を出ていないの。そのために足で情報を集める必要がある。網代くんたちにも協力をお願いしたいんだけど」


「たち?」


「図書委員の坪内さんとやってほしいことがあるの」


 俺は眉を顰めながら首を傾げた。 


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