第2話 「あくまで」賢者が囁く夜に

情事めいた耳かきの時間が終わり、母が政務のために離宮を去ると、そこには耐え難いほどの静寂が残された。


私は逃げるように自室を抜け出し、離宮の最奥にある図書室へと足を運ぶ。


埃と古紙の匂い。


ここだけが、母の甘い香水から逃れられる唯一の場所だった。


私は震える手で、初歩的な魔導書を開く。


「……灯火よイグニス


呪文を唱え、指先に意識を集中する。


しかし、何も起こらない。


熱も、光も、微かな火花さえも生じない。


私の体内にある魔力回路は、生まれた時から寸断されているのだ。


何度繰り返しても結果は同じだというのに、私は縋るようにページをめくる。


母の愛玩動物で終わる未来への恐怖が、私を突き動かしていた。


「無駄なことじゃよ、アルヴィス殿下」


不意に、しわがれた声が静寂を破った。


心臓が早鐘を打ち、私は弾かれたように振り返る。


書架の影から現れたのは、深紅のローブを纏った小柄な老人だった。


白く長い髭、鷲のような鋭い眼光。


宮廷魔導師団の長、賢者バルタザール。


帝国最高峰の知識人が、なぜこのような忘れられた離宮にいるのか。


「貴方は……なぜ、ここに」


「皇妃陛下より、殿下の教育係を仰せつかりましてな。まあ、表向きは『無能な皇子の監視』といったところですが」


バルタザールは好々爺のような笑みを浮かべ、私の手元にある初歩の魔導書を杖で小突いた。


「器に穴が開いておるのに、水を溜めようとしても徒労に終わるだけ。殿下の才能は、そこにはありませぬ」


「……私を嘲笑いに来たのですか」


「滅相もない。私はただ、惜しいと思うておるのです。その稀有な『空虚』さを」


老賢者は杖を振り上げ、空中に複雑な幾何学模様を描いた。


音もなく結界が張られ、周囲の空気がピンと張り詰める。


彼は声を潜め、悪魔の囁きのように言った。


「殿下。貴方は魔力を生み出せぬが、他者のそれを我が物として貪ることはできる。……皇妃陛下の魔力を受けている時、全能感を感じるのでは?」


図星を指され、私は言葉を詰まらせた。


あの背徳的な快楽と力の奔流を見透かされているようで、背筋が粟立つ。


「それは恥ずべきことではない。むしろ、天賦の才です」


バルタザールは懐から一冊の本を取り出した。


装丁は黒革で、不気味な脈動を繰り返しているように見える。


「生み出すのではなく、奪い、共鳴し、支配する。かつて歴史から抹消された『共鳴魔術』の真髄がここにあります」


「共鳴……」


「ええ。皇妃陛下の愛に溺れ、飼い殺されるか。それとも、その愛さえも利用し、帝国の全てを掌中に収めるか。……選ぶのは殿下です」


彼はその黒い本を、私の胸元へと押し付けた。


本からは、母の抱擁とは異なる、冷たく鋭利な魔力の気配が漂っている。


私は拒絶すべきだと理解していた。


だが、私の指先は意志に反して、その黒革の表紙を強く握りしめていた。


この無力な現状を打破できるなら、悪魔の手でも借りたい。


その渇望が、理性を凌駕したのだ。


「良い目をしておられる。……ただし、お気をつけて。その力は劇薬。使いすぎれば、貴方自身が『無』に還るやもしれぬ」


バルタザールの警告は、どこか楽しげな響きを含んでいた。


その時、廊下の方から騒がしい足音が聞こえてくる。


「バルタザール! そこで何をしているの!」


ヒステリックな金切り声。


結界がガラスのように砕け散り、母エレノアが姿を現した。


その美しい顔は悪魔のように歪み、黄金の瞳は怒りに燃え上がっている。


「私のアルヴィスに、余計な知恵を吹き込まないでと言ったはずよ」


母の背後で、空間がぐにゃりと歪む。


彼女の感情に呼応して、膨大な魔力が具現化し、黒い茨のような形をとってバルタザールへと襲いかかった。


それは明確な殺意だった。


帝国の重鎮であろうと、自分の「人形」に触れる者は許さないという、暴君の振る舞い。


「おっと、これは手厳しい」


バルタザールは軽やかに身を翻し、一礼した。


「本日はご挨拶まで。……殿下、その本は差し上げます。夜伽の暇つぶしにでも」


老賢者は煙のように姿を消した。


残されたのは、怒り狂う母と、禁忌の書を手にした私だけ。


「アルヴィス! 汚らわしい! 今すぐその耳をすすぎましょうね」


母が私に駆け寄り、強く抱きしめる。


彼女の爪が背中に食い込み、痛みと同時に、またあの甘ったるい魔力が流れ込んでくる。


「貴方は何も知らなくていいの。私の腕の中だけで生きていればいいのよ」


母の言葉は呪いのように響く。


だが、私の胸元には、バルタザールが残した黒い本が熱を帯びて存在していた。


私は母の背中越しに、虚空を睨む。


もう、ただの人形には戻れない。


この歪んだ愛の檻を内側から食い破るための牙を、私は手に入れたのだから。


たとえそれが、世界を滅ぼす毒牙だとしても。

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