エンゲツ堂に至るころ
ラブカの人魚
一、どうせ死ぬなら
——この世に自分がいていい場所なんてない。
***
「……死ぬしかないな」
寝不足のせいで頭が重く思考が回っていない。
体が冷え切っていることがそれに拍車をかけている。裏地のついていないジャケットでは冷え込む霜月の冷気は防げない。それでも璃子が駅構内のベンチからずっと立ち上がれないのは壊滅的に体がだるくて動けないからだ。
壁の時計が二十二時過ぎ。職場を出たときの時計が二十時を回ったところだったなと、ぼんやりと人ごとのように思い出していた。
つまりは二時間ほどこうしてこの改札前に居座っているわけだ。
蛍光灯の白い光が照らす田舎の小さな駅はあまり人が来ない。退勤時間が過ぎればほとんど人がいない。先程の呟きも誰に聞かれることもない。
ついさっき退職届を出してきたところだった。こうしていつも転職を繰り返している。
——どこに行っても、いつもうまくやれない。
璃子の頭には苛立ちと自分を責める言葉ばかりが去来する。
今回のトラブルは職場の男性職員に度重なるセクハラを受けたことが発端だった。
上司に相談もしたが注意だけで、結局報復という名のパワハラを受けて心身が削れて体調を崩したから。その前の職場ではいわゆるお局という女性上司に目を付けられ、彼女の舎弟のような人たちから嫌がらせを受けた。その前は、同期の女の子に失敗を擦り付けられたり、いわれのない噂を流されて。全部体を壊して辞めた。
昔からこうだった。地元の小学校では執拗な男子に大声で馬鹿にされたり髪を引っ張られたりして執拗ないじめを受けた。中学校や高校でも女子のグループで急に無視をされたり、事実ではない噂を流されたり。逃げても逃げてもどこに行っても執拗に執念深い人たちに追い回されて、どこにも居場所がなくなって、眠れなくなって食べれなくなって、健康に異常をきたして次の場所へ。
あれこれなんかのアニメの曲みたい。と璃子は内心で嘲笑した。そんな前向きじゃないし、仲間を失って次の場所へなので天地の差だが。
そしてもう一つ。退職と同時に昨日家に届いた手紙も、璃子をより陰鬱な気持ちにしていた。退職後少し養生をしながら職を探そうと思っていたのだが、その手紙によって早急に住居も変えなくてはならなくなってしまったのだから。
職も家もいつもこうやって何度も手放さなければならなかった。
「……やっぱ、死ぬしかないか」
「死ぬの?」
突然、聞こえるはずのない声が聞こえてぎくりと体が固まる。
恐る恐る隣を向くと、闇を切り取ったような美女がいた。黒い髪が墨の川のように流れている。和やらかな丸顔に理知的な黒目。健康的な顔色に薄いピンク色の唇が鮮やかだった。ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせてこちらを見つめている。
「え、っと」
——何だろうこの人。宗教勧誘? それともうっすい正義感に溢れた「生きていればいいことありますから死んじゃ駄目だ!」的なそれ?
璃子は胡乱な視線で女を見つめた。すると真顔のまま女は、
「ねぇ、いらないなら、私に頂戴」
——あ、やばい人だ。
「ア、マニアッテマース」
棒読みで返しながら、急いで膝の上で抱えていたバックを素早く肩にかけなおして立ち上がる。ポケットの定期を握ってそのまま改札を抜けようとするが、グイっと強い力で腕を掴まれた。
「あ、の、ホントに間に合ってますから」
放せ、の意を込めて後ろを睨みつけるが、にっこりと笑ったままの女は、「まぁまぁまぁ」と全く意に介していないようだった。
「ちょっと、本当に困りますから」
駅員がいないかと周囲を見渡すが、窓口には分厚いカーテンがかけられており、休憩中なのか何なのか、とにかく周囲に人がいないことだけは確かだった。
「このまま死ぬんだったら、ね、最後にちょっと寄り道していこうよ」
「いやいやいやいや! 宗教も詐欺もお断りだし、痛い思いも苦しい思いもしたくないのでやめてください!」
恐怖が限界に達すると人って結構大きな声が出るものだなと、脳裏で思う。璃子はいつも声が出ないのだ。
——いつもこれぐらい声が出れば、何か違ったのかな。
不意に浮かんだ思いにぐっと気分が沈んだ。
いじめやトラブルを相談しても「はっきり断らないから」とか「無視すればいいのに」とか言われて挙句、「気にしすぎ」と笑われる。
どこに行ってもどうせ独りなんだから。
いっそのこと放っておいてほしいのに、いつも世間はそれを許さない。執拗に付け回して璃子が生きていることが目障りだというように追い立てる。
ぎちりと噛み締めた奥歯が軋んだ。
「放っておいてよ! 嫌だって言ってるだろ!」
大きな声で乱暴に腕を振り払うと、女はきょとんとしていた。
過去の絡んできた人たちに対しての恨み言のような感情をぶつけてしまったことに、罪悪感が沸き上がってきた。
「あ、えっと、……」
璃子が言いよどんでいると、女は不意に膝をついて璃子の手を取る。
「ちょ、ちょっとやめてください!」
相手が土下座でもしようとしているのかと思い、慌てる。だが、女はそのまま璃子を見上げてほほ笑む。
「ごめんなさい。お嬢さん。怖がらせるつもりはなかったんだ。許してほしいとは思わないけれど。あなたは何かに悩んでいるようだったから、私でよければ少しお話願えないかな」
改まった振る舞いに、恐縮する。
「あ、いえ、ごめんなさい。通りすがりの方に話せるようなことは——」
「そう。私、こういうこういうものなので、よかったら何かお話聞けないかと思って」
女は立ち上がってから黒いコートの内側から名刺を手渡してきた。こうして並ぶと背が高い。黒いショートブーツのヒールが高いのもあるが、すらっとした体形に黒一色のコートとスカートとブーツが射干玉の長い髪にぴったりだった。
名刺には〝エンゲツ堂 店長 ミナ〟という名前と、電話番号と住所。
「エンゲツ堂?」
「茶葉とか香油を販売している雑貨店。まぁ馴染みの人が良く来るぐらいのお店だけどね。それでね、裏見て」
促されるままに名刺をひっくり返すと、裏は黒地に金色で〝エンゲツ堂 店主 ミナ お悩みご相談なんでも受け付けます〟とあった。
「お悩み相談?」
「うん。何でも受け付けるよー」
訝し気な璃子の視線に、にこっと笑うミナ。
「例えば?」
「引っ越しの手伝い、欠員補充的なお手伝い、失せ物探し、喧嘩の仲裁、除霊、護衛、就職や住居の斡旋」
なんか途中に変なものが挟まっていた気がするが、最後の単語に全ての思考が持っていかれる。
「……就職と住居の斡旋」
「お困り?」
「……えっと、具体的にはどんな感じで」
伺うような璃子の視線に、ミナの口元がにたぁっと歪んだ。
「私は伝手が広いから、健全な職場と住居を提供できるよぉ」
「胡散臭いな」
「疑り深いなぁ。じゃあ今からお店に来てよ。夕飯ご馳走するよー」
「いや、いらないです」
「駄目、顔色悪いからちゃんとご飯を食べさせます」
「あなた、世話焼きなのか、怪しいのか分からないから怖いです」
あけすけな璃子の物言いにミナが声を上げて笑った。
「まぁいいじゃん、どうせ死ぬならさ。ちょっとくらい道草くっても。いや、夕飯食っても?」
毒気のない様相に押されたと言ったらそこまでだが、不眠で頭がどうかしていたのと、「どうせ死ぬんだからいいか」と全部面倒になって彼女について行ってしまった。
***
タクシーに揺られながら住宅地を抜け、さらに山を登っていくとどんどん民家が少なくなっていく。そして、木々に囲まれた隙間から覗く灯りが見え始めたあたりでミナがタクシーをとめた。
ミナがタクシーの代金を支払い、——折半しようとしたら財布を取り上げられて、タクシーから降りるまで返してもらえなかった——少し歩いた木々に囲まれたそこに〝エンゲツ堂〟の看板が掛けられたアンティークな木製のドアがあった。看板を照らしているライトが先程から見えていた灯りの正体だった。
「そっちはお店だから、こっち」
ミナが迷いなく暗がりの中を歩いていく。サクサクと落ち葉を踏んだ音が足元から聞こえる。よく見えないが先程から足が埋まって歩きづらいのでかなりの量の落ち葉が落ちているのだろう。
「御免ね。ここらへん全部
ライトの灯りからそれて建物の脇にある小道に入っていくと、暗がりに玄関が見えた。ドアの横に黒猫の置物があった。
——なんで黒猫……。
璃子は別段、占いなどを信じてはいないが、なんとくなく玄関に置くものではないような気がする。
ピンポーン、とインターフォンを鳴らすと、バタバタとした足音と共に玄関の灯りがぱっとついた。
がちゃん、と内側から解錠の音の後に、ドアが開く。
明るい玄関から顔を出したのは、璃子と同じ年ぐらいの青年だった。二十代半ばぐらいに見える。絶世の美形というよりは精悍な美丈夫といった感じだろうか。今流行りのアイドルや芸能人のような中性的美形ではないが、切れ長の目や、すらっとした鼻筋が整った顔立ちであることを証明している。
笑っていれば人好きのするさわやか風の青年は、じっとりと睨みつけるような表情ですべてを帳消しにしていた。青年はちらりと璃子の方にも視線を向けたが、すぐに目の前のミナに視線を戻す。
「ミナさん。今何時だと思っているんですか?」
「うん? さっきタクシー降りたときは二十三時半過ぎだったと思うよ」
「そういうこといってんじゃねぇーんですよ。なんでこんなに遅くなったのかって聞いてんですよ。あなた連絡手段なんにも持ってないんですから。こっちから連絡取れないし、何考えてんですか? 予定時間より三時間以上超過してんじゃないですか。今日はもう来ないと思ってたんですけど。公衆電話探すのがこの時代に大変なのはわかりますけど、もうちょっと俺の都合とか心労とか、考えてくれてもいいんじゃないですか?」
つらつらと平坦な口調でまくしたてる様が、逆に青年の怒りを表している。
——私がついてきたから時間食ったのかも……。
璃子がおろおろとしていると青年が璃子の方を見て、はっと口を噤んだ。
「すみません。寒い中玄関先で待たせてしまって。とりあえず中へどうぞ」
青年は慌てた様子で減から身を引いて、二人を仲へ通した。
「ミヤコ、この子、体冷えてるから先にお風呂入れてあげたいんだけどー」
「え! いやいや、結構です! 私大丈夫ですから!」
玄関先でブーツを脱いでいたミナが突然、青年に無茶ぶりを始めたので璃子は面食らって慌てた。初対面の人の家の風呂に入るなんて恐れ多すぎて萎縮する。
「風呂の準備できてるんで大丈夫です。着替えとタオルは貸してあげてください。俺、夕食の準備してるんで」
「え、いや、ちょっと、大丈夫ですから! お構いなく!」
二人の間で当たり前のように話が進んでしまうので、割って入るのもいっぱいいっぱいだ。
奥に立ち去ろうとしていた青年——ミヤコと呼ばれていた——は、璃子の方を見て笑う。
「お風呂のことはミナさんに聞いてくださいね」
「はぁ」
決定事項と言わんばかりに押し切られて、バタバタとどこからかタオルと着替えを持ってきたミナに風呂場に押し込まれる。
「ドライヤーはここ、シャンプーはボトルにシャンプーってかいてあるし、リンスもそう。あと、着替えは来客用に置いてある新品だから大丈夫だよ。うちは結構人が頻繁に泊まるからこういうことが多いの。だから気にしなくていいからね」
そういわれても気にするのが人の性というものだ。それに疑念もある。
子供を食おうとして騙して家に泊める山姥の話が璃子の脳裏をよぎった。
——やっぱり死ぬのかも……。
「あ、あがった? こっちこっち!」
お風呂から上がって洗面所から出ると、待ち構えていたようにミナが璃子を招いた。廊下をの先のガラス戸を開くとそこには食卓があった。六人掛けのテーブルの上に和食が並んでいる。一人ひとりおかずが取り分けられていることにほっとした。手を伸ばすタイプの大皿だったら間違いなく手が伸びないからだ。
「どうぞ、先に食べてていいよ」
青年に促されてそのまま席に着いた。ミナは璃子の向かいの席に着いていただきまーすと手を合わせてから食事をしている。奥のキッチンからカップ片手に戻ってきた青年も彼女の隣に座る。
——毒とか睡眠薬とか入っている? 考えすぎか?
「初対面の奴の家で食事とか怖いですよね。すみません。この人、そういうところ適当だから。……食べられなさそうだったら下げますし、なんか外で出来合いのものとか買ってきましょうか?」
ぎくりと体がこわばった。
考えていたことと同じタイミングで話しかけられてぎょっとしたからだ。
こんな時間に買いに行かせるのも申し訳ないし、食べないことも、どちらにしろ疑っていることになってしまうので「大丈夫です。いただきます」と小さく口にしてから食事をすることにした。
焼き魚も、野菜たっぷりの味噌汁もあったかいご飯も、おいしいのに、あんまり味がしない。昔からそうだった。あんまり食事がおいしいと思えない。味覚を感じないのではなく、どれを食べても何も感じないのだ。だから人と食べるのも避けてきた。美味しいと思えない自分が嫌で。
「無理に全部食べなくて大丈夫ですからね」
ふと、驚いて顔を上げると青年がやさしく笑っていた。
——まただ。
偶然だろうか、あまりにもタイムリーに言葉をかけられて一瞬混乱した。
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
「いいえ。申し遅れましたが、俺はミヤコ。さっきミナさんがそう呼んでたから、知ってるかもしれないですけれど」
「あ、
自己紹介しながら、そういえばミナの方にも自己紹介していなかったことを思い出した。この人の勢いが凄まじすぎて。ちらりと視線を送ると、「璃子ちゃんっていうんだね」と笑っていた。なんだか気の抜ける人だなと思った。
——それにしても、変わった名前。
ミヤコ──イントネーションが変わっている。都とか宮古島ではなく、みちこ、はなこ、さちことかと同じ音だった。男性では珍しい名前だ。どんな字を書くのかも想像つかない。だが、今は時代の流れか、いろんな名前があるから一概にどうとは言えない。
——まぁ、これきりの人だろうし、気にしなくてもいいかも……。
さっさとご飯を食べてお暇するのがいいだろうと箸を進めることにした。
「璃子ちゃん、就職と住居探しのことなんだけどさ」
焼き魚をつついていたミナが、おもむろに話し始めた。
「今日からここに住んで、うちに就職しなよ」
ぐっと吹き出しそうになった味噌汁を堪えて強引に飲み下した。鼻に回らなかったのが奇跡だ。
「ミナさん、それはいけません」
最初に口を開いたのはミヤコだった。
それはそうだろう。知らない他人を勝手に就職させるだけでなく、住まわせるなんて。誰が聞いてもこんな反応になるだろう。
「嫌。エンゲツ堂に勤めてもらうし、ここの二階に住んでもらう」
「ミナさん。夜森さんの意見を無視しちゃいけません」
「エンゲツ堂の店主は私。この家の持ち主も私。なら、私に決定権があります。口答えは許しません」
「口答えじゃありません。真っ当な反論です。夜森さんの意見を聞きなさいって言っているんです。——困りますよね、こんなこと言われても」
ふいにミヤコから話をふられて璃子は口ごもる。
「えっと……」
「璃子ちゃんは気にしなくていいよ。ミヤコだって私が拾ってきたんだから」
「え?」
「ミナさん。今はそういう話じゃないです。俺が言っているのは職業斡旋も住居の仲介も反対していません。でも、この家に住むこともエンゲツ堂で仕事をするのも駄目ですよ」
拾ってきたというのも気になるが、ミヤコの言葉の方が嫌に引っ掛かった。
ミナが箸をおいてふっと意味ありげにミヤコの方を見た。
「何故?」
「わかるでしょう?」
空気が重たく沈んだ。その重さに耐えかねて、璃子も自ずと固まる。
ミヤコの困惑はもっともだ。今日会ったばかりの得体のしれない人間が家や職場に居座るのは嫌だろう。でも、それが迷惑だと分かっていても、璃子にはミナの言葉を利用しなければならない理由がある。だから——
「あの!」
椅子を引いて食卓から体を離しながら居ずまいを正す。
「ご迷惑なのは十分承知しています。でも、私をここに置いていただけませんか。少しの間で構いません。しっかり、仕事と住めるところが見つかったらすぐにでも出ていきます。できることはなんでもします。なので、こちらに少しだけ置いてください!」
深く頭を下げる。
「夜森さん」
ミヤコの硬い声に頭を上げる。
ミヤコは何とも言えない表情をしていた。言いたいことと、言わなければならないことと言いたくないこととを全部飲み込んだような、そんな様相だった。
ぐっと目頭を押さえるような仕草をした後、諦めたように深く溜息が吐き出された。
伏せられた瞳が次に璃子の姿を映した時、不意にその瞳が僅かに薄紅色を含んだ気がして、璃子は目を瞬いた。だが、それはほんの一瞬のことで、すぐに黒い瞳に戻っている。
——気のせい、かな?
彼の薄い唇がためらいがちに開いて、息を吸った音がした。
「……あなたが普通の生活に戻れるように尽力いたしますので、どうか今しばらくお待ちください」
そう告げたミヤコは、席を立ってキッチンの方へ暖簾をくぐって消えていった。
悪いことをしたという自覚があった。
きっと責任者であるミナの意見を曲げることはミヤコにはできないのだろう。そこに璃子が賛同するようなことを言ってしまえばなおさら。本当に申し訳ないと思うが、こちらもなりふり構っていられるような状態ではないのだ。例え今後、璃子が死ぬことを選ぶにしてもあの人たちに捕まるわけにはいかないから。
「気にしないで。あの子は別に、璃子ちゃんのことが嫌いなわけでも、迷惑に思っているわけでもないよ」
ミナがやんわりとした口調でとりなすように微笑んだ。
「すみません」
「謝らないで。あの子が、文句付けたいのは私だし。それに、璃子ちゃんのことは好きだと思うよ、ミヤコ」
「ハ?」
声が裏返った。初対面の人間に好意も何もないだろうに。つまり、気まずそうにしている璃子に気休めで言ってくれたのだろうと、「いやそれはないでしょう」と流した。
何とか取り乱さないようにとの璃子の努力をミナが次の言葉で粉砕した。
「いやいや、だってミヤコ女好きだし」
「は?」
今度は地を這うほど低い声が出た。なんだその最悪な理由。好青年風に見えて、実は遊び人なのだろうか。いや見た目は整っているし実はそういう人なのかもしれない。
「オイ、コラ! めちゃくちゃ誤解を生んでるじゃないですか!」キッチンの方から荒っぽい声と共にお盆を手にしたミヤコが再び姿を現した。
「夜森さん、ミナさんの言うことを鵜呑みにしちゃいけません。だからそのゴミを見るような目をやめてください。俺は女性好きじゃなくて、男嫌いなだけです」
お盆の上には牛乳寒天の入ったガラス皿。デザートを取りに行っていたようだった。それらを二人の前に置いてから彼はまた席に着いた。
「男嫌い?」
どういう意味だろうか、と思っていたことが顔に出ていたのだろう。ミヤコは苦笑して、「まぁ、ちょっと男が苦手なだけです」と濁した。
璃子が考えあぐねているうちに、ミヤコはこの話は終わりとばかりに、「牛乳アレルギーとかあります?」と聞いてきたので璃子はかぶりを振るしかなかった。
「食べ終わったら食器はそのままで。ミナさん、お部屋にちゃんと案内してあげてくださいね」
そう残して彼はキッチンに再び入って戻ってこなかった。
食後にミナから案内されたのは廊下にある扉だった。その古めかしい木の戸を開くと階段があった。
「変わってるでしょ。でも大事なものだから。寝る時間になったらここの扉をしっかり閉じること。カギはないけれど、それだけは守って。これは絶対だよ」
ミナは相変わらず微笑のままだが、声が少しばかり真剣みを帯びている。
「夜に部屋に戻って朝まで降りてこないときは、しっかりとこの扉を閉める。これはこの家で絶対に絶対に守ってね」
「……あの、どうしてですか?」
「うーん……」ミナは少し困ったように口を閉じた後、「うまく説明ができないんだけど。一番は君の安全確保のため、かな」とものすごく物騒なことを言った。
「この家の中で、身の危険が迫ることが起きるんですか?」
「あー……うーん……。絶対じゃないし、それに多分しばらくは大丈夫だと思う。この家に長くいればいるほど危険性が高まるというかなんというか……」
「一刻も早く仕事と住む場所探して出ていきますね」
「むぅ。それは私が困るの。あなたはここに就職してほしいし、うちに一緒に住んでほしいのに」
「だから何でそんなにこだわっているのか分かりませんけれど……」
「まぁ、いずれ分かるよ」
「何ですかそれ」
「まだ内緒」
薄明りの中で階段を上ると、短い廊下に五つの部屋があった。
「この一番手前はトイレ。一番奥の突き当りが私の部屋。それ以外は客間。どこがいい?」
正直どこでもいいが、できれば窓のある部屋がいい。
「窓の多い部屋がいいです」
「じゃあ、ここ」
ミナが示したのはトイレの真向かいの部屋。ここがおそらく角部屋なのだろう。
金色のドアノブを回すと、簡素な部屋があった。
「寝間着と水差しは部屋にあるから。あと、クローゼットに毛布があるから寒かったら使っていいし、エアコンも好きにつけてくれていいから。何かあったら一番奥の部屋へおいで。今日は私がいるから。いつでも声をかけて」
「それじゃあ、おやすみ」ひとしきり説明を終えると彼女は奥の部屋へ入っていった。
——とりあえず寝よう。
何か考えるのはそれからだ。今日はいろいろあって疲れすぎている。とりあえず、休まなければ。
璃子はカーテンを閉めてから寝間着に着替え、ベッドにもぐりこんだ。
柔らかで暖かい春のようなにおいのする布団だった。
不眠気味だったせいか、気が緩んだせいか、そのまま意識が落ちていく。
少なくとも今夜は安全だった。
今使っているアパートはもう安全ではないから。もう何時あの人たちが押し寄せるか分からない。
——あの人たちの影におびえなくていい。
それは璃子にとって何にも替え難い安心だった。例え何か可笑しな秘密を抱えた人たちだったとしても、あの人たちより恐ろしいものはこの世にいない。
しんとした夜に、璃子の寝息だけが溶けていった。
久々に得た深い眠りだった。
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