第19章:白紙の日記

 寮の自室は、以前よりもずっと広く、そして氷のように冷たく感じられた。

 陽菜から投げつけられた「あんたのこと、もうわからないよ」という言葉が、鋭い氷の礫となって、私の胸の奥に突き刺さったままだ。

 幼い頃からの思い出、共に笑い合った放課後、将来の約束。

 そのすべてが、たった数分の出来事で、霧の向こう側へと消え去ってしまった。

 彼女の泣き顔。

 何よりも、あの怯えた瞳。

 それが、今の私が彼女にとって、正体不明の化け物か何かに見えるのだということを、残酷なまでに突きつけていた。

 私は机の前に座り、震える自分の両手を見つめた。

「……あは、は……」

 乾いた笑いが漏れる。

 朝よりもさらに、私の存在の透明度は増していた。

 指先の輪郭は朝靄のようにぼやけ、背景にある壁紙の、古ぼけた花柄の模様が透けて見える。

 まるで、誰かが私という人間のデッサンを、背後から大きな消しゴムで丁寧に、執拗に消し去ろうとしているかのようだった。

 私は私であることを、この世界がもう認めていない。

 物理的な重みを失い、私は単なる「概念」へと成り下がろうとしている。

 このまま誰からも認識されなくなれば、私はどうなるのだろう。

 空気中に溶けて、そのまま、この霧の一部になってしまうのだろうか。

「……まだ、大丈夫。私には、これがある」

 私は必死に恐怖を振り払い、机の引き出しの最下段に手をかけた。

 重い引き出しを引く感触さえも、どこか頼りない。

 奥に隠すようにしてしまってあった、一冊のノートを取り出した。

 学院指定の、何の変哲もない青い表紙のノートだ。

 けれどそれは、私にとっては何よりも大切な、たった一つの「記憶の防波堤」だった。

 美咲が消えた、あの「ホームルーム」の放課後から、私は毎日欠かさず、彼女にまつわるすべてをこの日記に綴ってきた。

 彼女がどんな風に、鈴の音のように笑ったか。

 昼休みに、どんな癖で髪を耳にかけたか。

 屋上で交わした、あの「絶対に忘れない」という指切りの約束のこと。

 私の体から存在感が消え、人々の記憶から彼女の痕跡が薄れても、文字にして紙に刻みつけておけば、それは客観的な「証拠」として残るはずだと信じていた。

「お願い……美咲、私を助けて」

 祈るような心地で、私は日記の表紙をめくった。

 昨日まで、そこには私の執念そのもののような、びっしりとした文字が並んでいた。

 彼女との思い出が、一滴のインクも無駄にせず、詳細に書き記されていたはずだった。

 けれど――。

 目に飛び込んできたのは、無機質な「白」だった。

「え……?」

 思考が、一瞬だけ停止した。

 何かの間違いだと思い、私は慌てて次のページをめくった。

 白。

 どこまでも、清潔で、残酷な白。

 その次も、その次のページも。

 文字がない。

 一文字も、残っていない。

 昨日まで、私の指をインクで汚しながら、心を込めて綴ったはずの彼女の記録が、そっくりそのまま消失している。

 まるで最初から何も書かれていなかったかのように、真っ新な紙の肌が、私の視界を真っ白に染め上げていた。

「どうして……なんで!? 消えるはずない、書いたんだよ、私は確かに!」

 必死でページを遡り、最初の方を確認する。

 すると、ある箇所で、私の指が止まった。

 そこには文字の代わりに、どろりとした黒いインクの染みが広がっていた。

 まるで巨大な毒花が、紙の上で汚らしく開花したかのような。

 あるいは、何者かの「口」が、そこに書かれていた言葉を食い破ったかのような、悍ましい跡。

 それは、美咲の名前を記していたはずの場所だった。

 黒い液体は、今もなお生きているかのように、紙の繊維をじわじわと侵食し続けていた。

 私が命を削って書いた「美咲」という言葉が、この黒い泥の中に溶け落ち、咀嚼され、なかったことにされてしまったのだと直感した。

「嘘だよ……こんなの、ひどすぎる……」

 私は震える手でシャープペンシルを掴んだ。

 まだ、私の頭の中には彼女がいる。

 記憶が残っているうちに、書き直せばいい。何度でも、この白紙を彼女の言葉で埋め尽くしてやる。

 そう思い、ペン先を力任せに紙に押し当てた。

『美咲』

 一文字目。

 ――書けない。

 芯は確かに紙に触れているはずなのに、黒い線が、紙の上に乗らない。

 まるで、分厚い油の膜を張ったガラスの上を滑っているような感覚。

 ペン先が虚しく空を掻き、カチカチという乾いた音だけが虚しく響く。

 何度力を込めても、紙は無垢な白さを保ったままだ。

「書いてよ……お願い、書かせてよ!」

 叫びながら、私は無理やりペンを走らせた。

 ようやく、紙の繊維が悲鳴を上げ、一本の細い筋が引けた。

 けれど、その喜びは一瞬で打ち砕かれた。

 書いた端から、その線が煙のように薄れていくのだ。

 数秒後には、跡形もなく消え去り、元の白紙へと戻ってしまう。

 世界そのものが、私の「記録」を拒絶している。

 記憶を保存するための物理的な器さえも、影喰らいの力によって、根こそぎ破壊されていた。

 私は日記を投げ捨て、頭を抱えて座り込んだ。

 自分自身が消えていくだけではない。

 彼女を守るための術が、一つ、また一つと奪われていく。

 忘却という名の激流が、私の足元からすべてを掬い去り、真っ暗な奈落へと引きずり込んでいく。

「……図書室。月島先輩……」

 喘ぐように彼女の名前を呼び、私は部屋を飛び出した。

 もう、自分一人では、この恐怖に立ち向かえない。

 廊下を走る足音は、もはや羽音のように軽すぎて、自分が地面を蹴っている感覚さえおぼつかない。

 学院を覆う霧は、ついに建物の中にまで侵入し、視界を乳白色に濁らせていた。

 すれ違う生徒たちは、誰も私を見ない。

 隣を通っても、風が吹いたとさえ感じないのかもしれない。

 私はすでに、彼女たちが生きる「日常」のレイヤーから、完全に切り離された「死者」と同じ存在になりつつあった。

 図書室の重い扉を、ありったけの力を込めて押し開けた。

 いつもの沈黙。古い本の匂い。

 迷宮のような書架を抜け、最奥の、あの窓際の席へと走る。

 彼女は、そこにいた。

 月島圭先輩。

 この狂った世界で唯一、私の姿を捉え、私と言葉を交わしてくれる、最後の共犯者。

「先輩……! 先輩、助けて!」

 私の声は、ひどく掠れて、泣き声のようだった。

 先輩はゆっくりと本から顔を上げ、私をじっと見つめた。

 彼女の氷のような瞳に映る私は、きっともう、輪郭さえ定かではない陽炎のような姿なのだろう。

「斎藤さん。……落ち着きなさい」

 先輩の静かな声が、凍りついた私の心に、わずかな熱を灯した。

 私は無言で、持ってきた日記を彼女の前に突き出した。

「文字が……消えちゃったんです。私が書いた美咲との思い出が、全部、白紙になっちゃった。書き直そうとしても、ペンが通らないんです。世界が、美咲を消すだけじゃ足りなくて、私の『記録』まで食べちゃったみたいで……!」

 先輩は細い指先で日記を手に取り、その白紙のページと、ページの中央に広がる黒いインクの染みを、食い入るように見つめた。

 その横顔には、いつになく険しい色が浮かんでいる。

「……加速しているわね。影喰らいの消化スピードが、こちらの想定を遥かに上回っている」

「どういう、ことですか?」

「これは単なる受動的な忘却ではないわ。積極的な『抹消』よ。あなたが彼女を繋ぎ止めようとする執念が強ければ強いほど、システムはそれを致命的なエラーとして認識し、反作用を強める。……この日記はもう、情報の器としての機能を失っているわ。ここにはもう、何一つとして定着させることはできない」

 先輩は、黒い染みにそっと触れた。

 すると、その染みから微かな黒い煙のようなものが立ち上がり、彼女の指先を避けるようにして蠢いた。

「そんな……じゃあ、私はどうすればいいんですか? 記録が残せないなら、私が消えたら、美咲のいた証拠はどこにも残らない。私の中の美咲まで、この日記みたいに、真っ白になっちゃう……」

 膝から力が抜け、私はその場にへなへなと崩れ落ちた。

 陽菜に拒絶され、日記を奪われ。

 私の世界は、今、完全に包囲されている。

「斎藤さん、立ちなさい。絶望している暇はないわ」

 先輩の声が、頭上から鋭く降ってきた。

 彼女は立ち上がり、窓の外の、渦を巻くような深い霧を見つめた。

「紙に書けないのなら、魂に刻むしかないわ。物理的な記録(ログ)が消されたということは、影喰らいがあなたという存在を、この平穏を脅かす最も危険な『バグ』として特定したということ。……次は、あなた自身の意識が、その黒い染みに飲み込まれる番よ」

「私が……?」

「そう。存在の強度が限界に来ている。あなたはもう、自分自身の名前さえ、いつ忘れてもおかしくない場所に立っているの」

 私は自分の胸を、強く、強く押さえた。

 そこには、まだ、美咲の笑顔がある。

 彼女の鈴の音のような声、屋上で交わした指切りの感触。

 けれど、その大切な記憶の端々が、今この瞬間も、冷たい霧に削り取られ、黒い泥の中に溶け出していくのが、はっきりと分かった。

「……嫌だ。忘れない。絶対に、忘れたりしない」

 自分自身に呪いをかけるように、私は何度も繰り返した。

 けれど、私の声は、図書室の底知れない沈黙の中に、吸い込まれるようにして消えていった。

 目の前にある、真っ白な日記。

 それは、私が世界から決定的に切り離され、透明な死へと向かっていることの、残酷な宣告だった。

 窓の外では、霧が生き物のように窓ガラスを撫で、音もなく嘲笑っていた。


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