第三話 狐、その尾を濡らす


「ここはコミケの会場か?」

「いえ、時期も場所もまったく違いますよ? コミケは毎年夏と冬、八月と十二月に東京のビックサイトで行われている祭りのことですよ? ここは東京ではなく横浜ですし、今はまだ四月の下旬です」

「……なんだか、頭が痛くなる話だな」

「え、嘘。そんなに難しかったですか⁉ 今の話のどこが⁉」

 伏見の不思議な姿を見て、ようやく俺の口から絞り出せたのがこのセリフだった。緊迫した空気を少しでも和らげようとした冗談のつもりだったのだが、彼女はとても真面目な顔をして、少しズレた答えを返してきた。

「そんなことより……なんだ、その珍妙な格好は?」

「珍妙な格好ってなんですかっ! ……とは言えませんね。私を見て戸惑うのは当然です。ですが、今はあの男をどうにかしなければ、落ち着いて話すこともできません!」

 そう言って、伏見は俺を庇うように男の前に立ちはだかった。

客観的にはかなり情けない絵面だったが、今はそんなことを言っていられない。

彼女は状況が落ち着いてから話すつもりのようだが、俺としては事件に巻き込まれた以上、できれば今すぐにでも彼女の持っている情報を共有してほしい。

「なあ、あいつって——」

「イノシシですね」

「……ああ、イノシシだったのか」

 言われてみれば、確かにそうだ。円盤型の鼻、荒々しい毛並み、そしてあの突進力。どれを取っても、イノシシ以外に該当する動物は思い浮かばない。男の変化があまりに人間離れしていたせいで、考えることすら放棄していたのかもしれない。となると、伏見は耳と尻尾、毛並みの色から判断してキツネだろうか?

「え、まさか、気付いてなかったんですか? あのブタ鼻とか、あからさまですよ?」

「いや、どこかで見たことあるとは思っていたけど……ってそうじゃなくて。お前とあいつの、その変身みたいなやつは何なんだ? それに、あいつはさっき俺のことを『部外者が』って言っていたけど、もしかしてお前の知り合いなのか?」

 俺は伏見に詰め寄るように、次々と質問をぶつけた。彼女は困ったかのように眉をひそめ、口を開こうとしたその瞬間——

「見つけたぞ! キツネ女! てめぇら、何をくっちゃべってやがるんだ!」

 男が目の色を変えて、イノシシのように頭から突っ込んできた。屈強な左足が地面を蹴り、頭部が床を擦るほど深く沈み込んだ次の瞬間、一気に加速した。

「ッ!」

「あっぶね!」

 伏見が俺の身体を思い切り押し飛ばした。

 バランスを崩して危うく転びそうになったが、それが功を奏した。彼女のおかげでちょうど左右に別れるように、突進してきたイノシシ男をギリギリで回避することができた。

 だが、一方。イノシシ男は突進の勢いを殺しきれなかったようだ。彼は、そのまま背後の食品サンプルを展示していたケースに激突した。凄まじい音を立てて粉砕する。ガラスの破片が四方八方に飛び散り、店舗と通路を隔てていた壁は、重々しい一撃で崩壊してしまった。もはや、壁としての役割を果たせていない。あれを正面から受けたらまずい。確実に、骨ごと身体が粉々になる。そう判断した俺は、まだ倒れている伏見に向かって駆け寄った。

「おい、無事か?」

「あいつがストーカー男です」

「え、な、なんて?」

「ここで相談したじゃないですか? 最近、毎日のように背後から視線を感じるって。たぶん、あいつが件のストーカー男です!」

 伏見はまるで宿敵を目絵にしたかのような剣幕だった。

 女性にとって、ストーカーという行為は最も身近で、最も許せないものだということは理解している。だが、何も証拠もないのに決めつけるのは危うい。……いや、待て。だけど、この店を破壊したのは間違いなく、あのイノシシ男だ。伏見の言葉が正しかろうと間違っていようと、今は、彼の身柄を取り押さえることが先決だ。これ以上、被害は出させない。それに、もし彼に余罪があるのなら、警察が後でじっくりと時間をかけて聞き出してくれるはずだ。だが、それにしても——

「どう見ても人間ができることじゃないな。やっていることはほとんど怪獣だぞ。それにイノシシだの、キツネだの……もう訳が分からない」

 俺は伏見の隣に立ち、破壊された喫茶『メルヘン』を見ながら、思わずそう呟いた。男一人では入りづらい雰囲気だったお洒落な店内は、見るも無残な姿に変わっていた。白とピンクを基調とした可愛らしい壁紙は剥がれ落ち、木の柱が剥き出しになっている。まだ食事中の客がいたのか、スプーンやフォークが床に散乱していて、皿は細かく割れている。神経質なまでに整えられていた机や椅子もひっくり返り、まるで大型トラックにでも突っ込まれたような惨状だった。

「おい、伏見。こうなったら、お前が隠している事情を詳しく聞かせてもらうぞ? 何か知っているんだろ? いや、その耳と尻尾……何も知らないとは言わせないぞ」

 俺は彼女に向かって、真っ直ぐにそう問いかけた。この状況で黙っているのはもはや許されない。無関係とは言わせない。あの異常なイノシシ男の存在、そして伏見のコスプレとは呼べない人間離れした特徴――すべてが繋がっているとしか思えなかった。彼女とイノシシ男が、無関係なわけがない。そう決めつけて、俺は厳しい口調で言い放った。だが、彼女は目を泳がせながら口ごもるだけだった。

「……いや、え、えっと……その、そうですね……」

「こんな時に迷ってる暇はないぞ?」

「わかっていますよ! そうですよね。こうなったら、もう迷っていても仕方がないですよね。私と、彼は、その……神様に選ばれたんですよ」

「……こんな時にふざけている暇もないぞ?」

 思わず、眉をひそめる。俺は無宗教だが、無信仰というわけではない。クリスマスはケーキを買ってきて家族と一緒に祝うし、年始には必ず近場の神社に初詣に行く。だが、いきなり『神様に選ばれたんです』と言われても、冗談にしか聞こえなかった。

「私はいつだって大真面目です! ほら、どうせ冷たい反応しか返ってこないって分かっていたから、話すのをためらっていたんですよ!」

「え、そんな理由だったのか⁉」

「そうですよ! そんな理由ですよ!」

 伏見は俺の顔を指差し、子供が地団駄を踏むように喚き散らした。ぷんすかと怒りを露わにする。その様子はどこか微笑ましくもあったが、時間がない。彼女の発作に近い怒りの発露もすぐに収まり、まるで自分に『落ち着け』と言い聞かせるように深く息を吐いた。そんな彼女を横目に、俺はさっきの会話を確認するために口を開いた。

「もう一度だけ聞くが、本当にふざけているわけじゃないんだな?」

「……もう一度いいますが、私はいつだって大真面目です」

 彼女の真剣な顔つきからして、どうやらふざけているわけではなさそうだ。吸い込まれそうなほど真っ直ぐな瞳が、『私は冗談なんて言ってない』と強く訴えかけてくる。

「……分かった。伏見のことを信じるよ。だけど、お前……どうやったらあそこまで人を怒らせることができるんだ? 今度は一体何をやらかしたんだ?」

「知りませんよ! 私が店員さんと楽しくおしゃべりしていたら、あの男が急に『見つけたぞ!』って叫びながら突っ込んできたんです! ……ん? というか待ってください。なんで私が何かをやらかした前提なんですか⁉」

 伏見は、俺に向かって再び、プンプンと擬音が聞こえてきそうな怒り方をしてきた。瓦礫の中から立ち上がってきたイノシシ男を視界の端に捉えると、先ほどまでの怒りをすっと引っ込め、冷静な声で語りかけてきた。

「……優斗さん。どこか身体に痛みはありますか?」

 彼女の声は、静かで落ち着いていた。けれど、その瞳の奥には、鋭い光を宿っている。闘争の光。彼女の意図を汲み取った俺は、ゆっくりとストレッチをするかのように、緩慢な動作で、じっくりと全身の筋肉を伸ばす。肩、腕、背中、脚——一つ一つの部位に意識を向け、身体に違和感がないかを確かめる。筋肉の強張り、関節の可動域など、少しでも違和感がないかと、細かく確認していく。一通りの確認を終えた俺は、最後に拳を軽く握り、開いた。その感触に、確かな力が宿っているのを感じる。力が漲っている。

「……ああ、大丈夫だ。動ける」

「そうですか。なら、一旦ここから逃げますよ! 担がないから、ちゃんとついて来て下さいね!」

「ッ、逃さねぇ……もう絶対に逃がさねぇ! だから、だから——てめぇらはここで絶対にぶっ殺してやる!」

「言葉遣いに品がないですね! 本当に、あなたが『神使』に選ばれたんですか?」

「うるせぇよ! もう、黙ってろ! ひねりつぶしてやるからよ!」

  睨み合う。睨み合う。睨み合う。瓦礫の中から立ち上がったイノシシ男と、俺たちは睨み合った。 一触即発の空気が、この場をじんわりと支配する。互いに、相手の動きをじっと見据える。威嚇しないように背を向けず一歩下がると、呼応するように男が一歩、距離を詰めてくる。一秒が長く感じた。この睨み合いは、どちらかが酸欠で倒れるまで続くとすら思えた。 

 だけど、次の瞬間——バキ、パキ、と骨が鳴った。

 じれったくなったイノシシ男が一気に距離を縮めようと右足を少し動かしたせいで、関節の骨が鳴ったみたいだ。骨の音。骨の音。何も不思議なことはない。

 だが、それが、俺たちの合図となった。

「『燃えてください!』」

 伏見の鈴を転がすような声が、空気を震わせるように響いた。

 すると、突如として空気が一変した。その声は、世界の法則を変えるほどの力を秘めていた。

 まるで、地の底から呼び起こされたかのように、炎が突如として現れた。

 それは、ただの炎ではなかった。赤、橙、黄と、色鮮やかに輝くその炎は、まるで意志を持っているかのように地面を這い、蛇のようにうねりながら、イノシシ男へと向かっていく。

「――グっ、アッ! 熱ぃ!」

 炎は足元から彼の身体を飲み込むように巻き上がり、瞬く間に彼の全身を包み込んだ。だが、それは彼の身体を焼き尽くす炎ではなかった。皮膚を焦がすことはない。目を蒸発させることはない。ただ、その炎は、彼のすべてを抱擁するかのように、執拗に、優しく、しかし容赦なく絡みつくだけだった。

 その様子は、まるで炎の蛇が獲物を見つけて歓喜しているかのようだった。

 彼女の炎に包まれたイノシシ男は地面に身体を押し付け、何度も、何度も、左右に転がって消化活動を試みていた。だが、炎が消えることはない。炎が消える気配はない。ゴウゴウと燃え盛る不快な音と、熱気がこっちまで届くほど激しく燃え続ける。熱気が肌を刺す。熱気が頬を撫でる。それなのに……そんな残酷な光景のはずなのに、伏見の目はとても冷静だった。表情が変わらない。

「おい、あれはさすがにヤバいんじゃないか⁉ 火傷は危険だぞ!」

「いえ、安心してください。あの炎では人は死にません!」

「だけど——」

「信じてください!」

「……ッ、ああ!」

 後ろ髪を引かれる思いだった。それでも、伏見の言葉を信じて、俺は足を動かした。信じるしかない。今はそれしかない。

 だけど、途中で心の奥で燻る不安が僅かに勝り、チラリと後ろを振り返る。イノシシ男の身体を飲み込むように、深紅の炎がメラメラと揺れ動き、燃え盛っていた。

 その炎は、ただ熱いだけではない。見ているだけで心がざわつく。心が焼かれるような感覚。まるで、何か大きな力が働いているかのような——神の裁きを見せつけられているかのような、そんな胸糞悪い感覚だ。

「……」

 ゴロゴロと地面を転がっているはずなのに、伏見の出した炎は一向に消える気配がない。必死に振り払おうとしているのに、一向に消える気配がない。むしろ、さらに火の手は勢いを増しているみたいだ。その残酷な光景に、罪人が火刑に処される光景を連想させられて、気分が悪くなってきた。胃の辺りがきゅっと締めつけられ、吐き気を覚える。やっぱり、彼も助けた方がいいんじゃないか?

「優斗さん、早く!」

「……わかってるよ」

 伏見の声が背後から鋭く飛んできた。彼女の狙いは理解している。イノシシ男と正面から対峙するのは、あまりにも危険すぎる。

 だからこそ、まずはこの建物のどこかに身を隠し、体勢を立て直すべきだ。一度、伏見から事情を聞くべきだ。この炎が何なのか、伏見が何者なのか……それを知らなければ物語は始まらない。

 そう判断した俺は、イノシシ男から目を逸らした。男は皮膚を、肉を、骨を、炎で炙られる感覚をその身で味わっているのだろう。彼は、あらん限りの声を上げて絶叫していた。イノシシ男の悲鳴が、絶叫が、俺の背中を刺すように響いていた。

 まるで魂の底から絞り出しているかのような彼の慟哭が、俺の脳裏に焼き付いて離れてくれなかった。




 ※ ※ ※ ※ ※




「はぁ、はぁ、鬼ごっこは小学校で卒業しましたが、かくれんぼは大人になっても卒業できないみたいですね」

「……だな」

 伏見は息を切らしながら、冗談めかしてそんなことを言ってきた。

 その声には、疲労と緊張、そしてほんの少しの安堵が滲んでいた。

 俺たちは、なんとかイノシシ男から逃げ延び、キングスクエアの構造を利用し、身を隠しことに成功した。

 キングスクエアの内部には、様々なジャンルの店舗が立ち並び、迷宮のように入り組んでいる。まるで都市の中に、もう一つの町がるような場所だ。つまり、姿を隠すには打ってつけな場所というわけだ。

「伏見には、あのイノシシ男のことや、その変身のこと、他にも聞きたいことが山ほどある。でもまずは……俺の無茶に巻き込んですまなかった。それと、助けてくれてありがとう。あのとき、伏見がクッションになってくれなかったら、俺は怪我だけじゃあ済まなかったと思う。もしかしたら殺されていたかもしれない」

「……感謝なんて、しないでください」

 伏見は視線を落とし、かすかに眉をひそめていた。

「そもそも、これは私が巻き込んでしまったことです。優斗さんに責められるいわれはあっても、感謝される筋合いはありません」

「でも、あのまま姿を晒さなければ、伏見はイノシシ男から逃げ切れていたんだろ? それでも、俺を助けるために、危険を顧みず出てきてくれた。それには感謝するべきじゃないのか?」

「いえ、ですが——」

「お前は俺を、そして無関係な人たちを巻き込むつもりはなかったんだろ? 『メルヘン』での会話がようやく腑に落ちたよ。詳しい事情は話せないし、人が多い横浜駅からは一刻も早く逃げようとしたのは、あんな怪獣みたいなヤツが相手だったからだ。もし、あそこにいた全員がイノシシ男の突進に巻き込まれたら……そう考えるだけでゾッとする。伏見も、ずっと不安だったんだろ?」

 伏見は何も言わなかった。ただ唇をきゅっと強く結び、目を伏せたまま黙っている。だから俺は、言葉を選びながらゆっくりと続ける。

「結果だけじゃなくて、過程も見ないと。伏見は巻き込んでしまったから助けたんじゃなくて、助けようとしたけど巻き込んでしまったんだ。そこを一緒くたにしちゃいけない。俺は、伏見がなぜアイツに狙われているのかなんて分からない。事情もまだ知らない。だけど、伏見は俺を含め、多くの人を助けようと一人で頑張ったことだけは分かっている。……その頑張りをあのイノシシ男が台無しにしただけだ。それに俺は、俺を助けてくれようとした伏見に、ただ勝手に感謝をしているだけだ。これも伏見が気にすることではないだろ? 俺が勝手に感謝しているだけなんだからさ」

「……そう言っていただけると、心が軽くなりますね」

 そこでようやく伏見はふっと微笑んだ。微笑んでくれた。その笑顔を見ているだけで、何故かこちらが救われたような気がしてくるから不思議だ。

「だろ? 人間なんて、生きているだけで勝手に責められるし、勝手に感謝もされる。でも伏見の気分によって、欲しい言葉は変わるだろ? 褒められたいことあれば、逆に責められたいことだってある。俺は両方口にするから、聞きたいことだけ聞けばいい。もし、どっちも嫌だったら聞き流せばいいだけだ」

「ふふ、適当なことを言っていますね? 結局、優斗さんは私のことを褒めてばかりじゃないですか?」

「いや、ただの順番だよ。飴と鞭を交互に口にしていただけだ。その証拠に、次はこの世のものとは思えない罵詈雑言を浴びせるつもりだったからな」

「この世のものとは思えないって……そこまで言われると、逆に興味がありますね」

「それはまた今度、機会があればな」

 その一言を最後に、俺たちは自然と口を閉じた。

 冷たい壁に背を預け、乱れた呼吸を整えるためだ。

 よくもまあ、ここまでつらつらと喋れたものだと、自分でも驚いていた。

 気づかないうちに、俺も日吉のやつに影響されたのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えながら、そっと頭を出す。真っ白な壁を背に、首から上だけを器用に動かして、周囲の様子を伺った。すると——

「どこだ! どこにいる‼ 隠れてねぇで出てこいよ、卑怯者どもが!」

 イノシシ男が怒りの感情を爆発させ、俺たちのことを探して徘徊している。

 その声には、もはや理性の欠片も残されていなかった。完璧に冷静さを失っている。俺たちへの怒りと憎悪だけが、言葉の形を借りて吐き出されているだけだ。

 視野狭窄。イノシシ男は頭に血が上り、完璧に冷静さを失っているようだ。さっきから同じ場所を行ったり来たりしているのが、その証拠だ。怒りに囚われたせいで、視野が狭まり、周囲の情報を正確に把握できていないのだろう。この様子なら、しばらくは見つかる心配はなさそうだった。

「……かなり怒ってるな。いや、全身を火で燃やされて怒らない人間の方が少ないだろうけどさ。……そもそも、アイツは人間なのか?」

 伏見にも言えることだが、普通の人間があそこまで唐突に変貌するなんてありえない。動物のような耳と尻尾、茶褐色の獣毛、円盤型の鼻、漆を塗ったかのように黒く変色した爪。そして、刃物(ナイフ)のように鋭利で湾曲している鋭い牙。彼の外見的な特徴を挙げていけばいくほど、人間よりもイノシシの方がしっくりくる。箇条書きマジックではない。もはや怒りで我を失った彼の姿は、二足歩行をしているだけのイノシシだ。まるで、神様が遊び半分でイノシシと人間の遺伝子を混ぜてしまったかのような姿だった。生命に対する冒涜を感じる。見ているだけで、嫌悪感すら覚える。

 そんな異形の姿に変貌した男は、苛立ちをぶつけるかのように周囲の物に当たり散らしている。壁を殴り、本棚を薙ぎ倒し、マネキンの首を無造作にへし折る。猪突猛進。怒りを発散するために物に当たるなんて……もういい歳のはずなのに、情けない。

 呆れるほど、自制ができていないみたいだな。

 体格は恰幅がいいが、精神面は不安定で、未熟な子供とそう変わりない。

「……さっきまで火だるまだったのに、元気だな。火傷の痕もなさそうだし」

 伏見が出した炎に襲われていたはずのイノシシ男には、傷一つ見当たらない。

 皮膚が焼け爛れた様子も、水ぶくれもない。火傷が一切ないのだ。

 それに、肉が焦げたような嫌な臭いすらしなかった。さきほどのあの光景が、夢だったかと疑いたくなるほどだ。思い返せば、あの炎にはリアリティーがなかったな。現実味がなかったのだ。自分でも、もうよく分からないことばかり言っている。今日一日だけで、俺の常識が少しずつ崩れていくのを感じる。

「あれは私の『能力(ちから)』です。イノシシ男とは関係ありません」

 俺がイノシシ男の身体を観察して、気がついたことを口にすると隣にいた伏見がぽつりとそんなことを呟いた。

「はぁ? 能力? 急に何を言っているんだ?」

 あまりにも突飛な言葉の数々に、俺はまた思わず聞き返してしまった。突如現れた謎の炎に、変貌する人間、イノシシ男、キツネ耳の伏見美緒、そして能力という単語。次々と彼女の口から明かされる情報に頭が追いつかない。

「……そうですね。まずは私が誠意を見せないといけませんよね」

 伏見は静かに息を整えると、言葉を選らぶようにして話を切り出した。ついに、彼女自身の口からこの不可解な現状を説明してくれるみたいだ。

「私がこの戦いに巻き込まれたのは、今からちょうど二か月前のことです」

「……戦いって、あんなのと戦うつもりなのか? っていうか、お前たちは誰に命令されて戦わされているんだよ。知らないかもしれないけど、いや、知らなかったでは済まされないぞ。決闘罪も立派な犯罪だ。それを揉み消すなんて、どんな権力者にもできはしな——」

「神様です」

 あまりにも唐突なその言葉に、俺の思考が一瞬停止し、口を開いたまま固まった。空気が凍った。言葉を失った。というか、言葉が、上手く出てこない。喉の奥で絡まって出てこない。

「……神様? それってコードネームとかじゃなくて、あの『神様』?」

「はい、あの『神様』です」

「…………待て、待て、待て、待て、待ってくれ!」

「はい、待ちますよ」

「人間同士を争わせて楽しんでいるのが、よりにもよって神様だって? ……そりゃあ、笑えない冗談だな」

「……ずいぶんとあっさり受け入れますね。今度は私のこと、信じてくれるんですか?」

「…ッ、ああ。状況が状況だからな。悪の組織に改造されたって言われるより、まだ説得力がある気がする。いや、そっちの方が現実的なのか? まあ、正直もうどっちもどっちだなよな! ……っ、はぁ、はぁ……ようやく落ち着いたよ。黙ってるから、話を続けてくれ」

 俺は深く息と色々なものを吐き捨て、額に手を当てる。混乱し過ぎて、頭がぐらぐらとしてきた。それでも、ようやく少しだけ平静を取り戻せた。俺が落ち着いたのを確認した伏見は少しだけ表情を引き締めて、再び静かに語り出した。

「……そうですか。では、話を続けますね。これは私がまだギリギリ高校生だった頃の話です。高校卒業をして一人暮らしをすることが決まった私は、少しだけ不安になってしまって、父が神主をしている神社にお参りをしに行ったんです。不思議に思うかもしれませんが、私は子供の頃から誰にも言えない悩みがあると、父の神社にお参りしていたので、これはもう癖みたいなものですね。……いつも通りに参拝を終えて、帰ろうとしたときでした。誰もいなかったはずの境内で、声をかけられたんです。真っ白なキツネに……」

「キ、キツネ?」

 どんどんと、彼女を取り巻く環境が明かされる。立場と過去と事情が明かされていく。それと同時に、新たな謎が次々と追加され続けるので、意味がない。謎が謎を呼ぶ、俺は今そんな状態だ。迷路に迷い込んだかのような気分だった。

「……『神使(しんし)』という言葉を聞いたことがありますか? 神使とは神様の眷属のことで、神様の意志を代行して現世にいる私たちと接触する動物たちのこと。いわゆる神の使いです」

「……神使、神の使い」

「はい、私の前に現れたその神使——キツネの姿をした神使が、こう言ったんです。『汝、自らの願いのためにこの戦いに参戦するか?』と」

 彼女の声が、少しだけ低くなった。そして、それに釣られるように彼女の明るかった表情も硬くなる。

「ここからは、そのキツネに聞いた話ですが……この戦いが始まったきっかけは、神様の暇つぶしのためのだそうです。神使たちが、八百万の神々を楽しませるために提案したただの遊戯。それが、この、優斗さんを巻き込んだ戦いの始まりでした。……私も、まさかここまで危険だとは思いませんでしたけどね」

「自らの願いのために、参戦? それって——」

 俺のその問いかけに、伏見は静かに頷いた。

「この戦いは、ゲームのようなものです。自分以外のすべては敵という状況下で、最後まで生き残った者が勝者とされる。そんな単純明快なバトルロイヤル形式です。舞台は日本全土。明確なルールは何一つ存在せず、ただ生き残ることだけが目的です。そして、このゲームに勝ち残った者には、神様が何でも一つだけ願いを叶えてくれる。神使からは、そう説明をされました」

 俺の目線から逃げるように伏見はわずかに視線を落として、顔を下げながらも、頑張って言葉を続ける。

「つまり、このゲームに参加している人たちは、そんなご褒美に目が眩んだ……愚かで欲深い、バカな人たちなんです。……私を含めて、ですけどね。だから、優斗さんに感謝されるいわれはないんですよ。助ける価値すらないんです。だって、私はこの戦いに参加したことを、微塵も後悔してないんですから」

「……伏見があのイノシシ男と揉めているのは、何か事件に巻き込まれたわけじゃなくて……自分から好き好んで、こんな馬鹿げた争いに参加したってことかよ。そんなゲーム感覚で。……自分の命を危険に晒してまで叶えたい願いなんて、あっていいわけがないだろ」

 思わず、声が少しだけ荒くなった。怒りよりも呆れと戸惑いの方が強かった。命よりも夢の方が大切だなんて、俺には理解できない感覚だったから。だから、怒りではなく戸惑いや呆れの方が強くなったのだと思う。まるで、大人が子供を叱るかのような口調だと自分でも思った。

「はい、正論ですね。でも、正論が常に正解とは限らないでしょう? 特に人の心なんて、感情だらけです。コントロールなんてできないんですよ。……例え不正解だったとしても、後悔しない選択をしたいと思うことだって、あるじゃないですか……」

 伏見は、蚊が鳴くような弱弱しい声でぽつりと呟いた。静かに言い返してきた。そして、ゆっくりと壁に背を預けたまま、身体を丸めてしゃがみ込んだ。頭を抱えて地面にへたり込むように蹲った伏見のその姿は、何もかもを拒絶したがっているかのように、俺には見えた。

 俺の知っている彼女らしくない。

 俺のことを振り回していた、あの彼女らしくない。

 こんな短い期間で、彼女の何が分かるんだと言われたらそれまでだが、彼女の態度はまるで別人のようになっていた。何かを、自分自身を押し殺しているように見えた。さすがに、心配が勝る。だから——

「……一応聞いておくが、命を懸けてまで叶えたいお前の願いって、何だ?」

 気がつくと、俺は伏見にそう問いかけていた。自分でも、何故、そんなことを聞いたのかは分からない。自分でも、彼女への質問の意図はよく分かっていない。

 それでも、今の伏見を見ていると、何故か口が勝手に動いてしまったのだ。聞かずにはいられなかった。

 無駄な行為だとは、頭で理解している。こんなことしている暇があるのなら、今すぐにでもキングスクエアから脱出する算段を立てる方がよほど有意義だろう。もっと言えば、数秒後にはキングスクエアの内部を暴れ回っているイノシシ男が、俺たちを見つけて襲ってくるかもしれない。一刻の猶予もない。休憩を終えた俺たちは、すぐにでも他の人と同じように建物の外へ避難するべきだ。だが、それでも、俺の身体はそんな理屈を無視して、伏見の次の言葉を聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませていた。彼女の言う通りだ。感情というのは、コントロールできるものじゃないらしい。

 命を懸けてまで叶えたい彼女の願いを、俺は知りたかった。

 俺の『何者かになりたい』『立派な大人りそうのじぶんになりたい』という、漠然とした悩み。その答えを、その鍵を、正反対の彼女なら持っている気がした。何故か、そんな気がしたのだ。



「…………私は夢が欲しかったんです」



 そのとき、さっきよりも小さくなった伏見の声が、俺の耳に届いた。耳を傾けていなければ、聞き逃していたかもしれないほどの声量だった。

俺は、思わず彼女の方に視線を向けた。本当に彼女の口から出た言葉なのかを確かめるように。彼女は、蹲って、ギュッと自分の腕を抱いていた。その姿は幼く、どこか壊れてしまいそうにも見えた。

 最初は、彼女が何を言いたいのか理解できなかった。頭の中でその言葉の意味を咀嚼し終えた瞬間、俺は思わず——この期に及んで彼女はまだ何かを隠し事をしているんじゃないか、と疑ってしまった。視線を僅かに下げて、彼女の様子を観察する。彼女の嘘を見抜くために彼女の表情を探った。

 けれど、前髪の隙間から覗く彼女の黒色の瞳は輝いていた。真っ直ぐに輝いていた。その瞳のおかげで俺は、さきほどの言葉は彼女の嘘偽りない本心だと理解できた。だから、つい疑問の声を上げてしまった。

「はぁ? 願いを叶えるために参加しているのに、伏見の命を懸けてまで叶えたい願いが『夢が欲しい』って……それ、おかしくないか?」

「……ダメですか?」

 思わず素直な疑問が口を突いてでた俺に、伏見は顔を上げずにぽつりとそんなことを言ってきた。不安と諦めが混ざった声。俺は、やりにくいな、と考えながら言葉を吐く。

「いや、ダメじゃないけどさ。この戦いってやつに勝利したら神様が何でも一つだけ願いを叶えてくれるんだろ? 何でも一つだけって言うくらいだから、もっと具体的な願いが伏見にはあるんだと思っていた」

「私は、そんな人間ではないですよ。私には夢がないんです。生きているうちにやりたいことはいっぱいあるはずなのに、将来の夢ってやつを持てたためしがないんですよ」

「……やりたいことをどんどん束ねていけば、いつか夢になるんじゃないのか?」

 俺の言葉を嘲るように伏見は小さく笑った。いや、その笑みは嘲笑ではなく、寂しさだった。この人は自分の言っていることを理解できないんだという嘲笑に近い寂しさ。

「優斗さん、それは『大人の意見』ですよ。それにやりたいことと夢って違うじゃないですか。一人暮らしをしてみたいや、コミケに参加してみたいとか——それは、確かにやりたいことではありますが、夢とはちょっと違うでしょう?」

 彼女は悲鳴を上げるように、言葉を選びながら話を続けた。彼女の表情は見えないが、泣いているんじゃないかと思った。だって、声が少しだけ震えていたから。

「辿り着いた先にあるものじゃなくて、行動すればすぐにできることなんですよ。ただの目標です。私にとって夢は実現するもので、目標は達成するものなんです」

 彼女は自身の価値観を吐き出すように言葉を続ける。俺のことを突き放すような響きが、今の彼女にはあった。

「……私って昔から何でも小器用にできたから、人生の全てを捧げてまで叶えたい夢っていうのが、なかったんですよ。だからこそ、夢を持っている人っていうのはそれだけでキラキラと輝いて見えて、カッコよくて……ずっと羨ましかったんです。私も、私だって、そうなってみたかったんです」

 まるで、自分のことを受け入れて欲しいと、理解して欲しいと泣き叫ぶように言葉を続ける彼女を、俺はじっと見つめる。自分を責めているようにも、開き直りのようにも、感じた。だけど、俺は――

「……それは、ちょっとだけ分かるよ。夢を見つけるってムズイよな」

「……本当にそうなんですよね」

 俺がそう言うと、伏見は小さく頷いた。彼女はずっと蹲って顔を伏せていたので、目で見たわけではないが……その声には、トーンには、表情には、少しだけ安堵の色が混じっていた気がした。彼女は本気だ。彼女の願いは、あまりにも素朴で、あまりにも切実だった。願いを叶えるために命を懸けた戦いに身を投じた理由が、それだというのが——あまりにも痛ましかった。

「……優斗さんには人生のすべてを捧げてまで叶えたい夢はありますか?」

 伏見は、少しだけ顔を上げ、俺の方を見ながらそう問いかけてきた。

 真っ直ぐこちらを見るその瞳は、曇ひとつない。空っぽな俺の嘘や、建前は、すぐに見抜いてしまうだろう。

「……ないよ。あったとしても、忘れてしまった。……だから、俺も、ずっと探しているよ。自分が何になりたかったのか」

 だから、正直に答えた。嘘を吐く理由なんてどこにもなかった。正反対だと思っていた彼女と、俺が同じような悩みを抱えていたことに、少しだけ驚いていた。

「ふふっ、案外と似ているんですかね? 私たちって……」

「……そうかもな」

 俺は伏見の言葉に頷きながら、心の中でそっと言葉を続ける。

 夢を持っている人間が偉いわけじゃない。

 夢を持っていない人間が劣っているわけじゃない。

 何なら犯罪に手を染めず、精一杯毎日を生きている時点で、誰だって偉いと、俺は本気でそう思っている。

 だが、それでも……俺は、俺たちは、夢が欲しかったんだ。夢が欲しいというのは、きっと今の自分では足りないと、満足できないと、心のどこかで思っている証拠なんだと思う。それは、俺も同じだからよく分かる。だけど——

「でも、これだけは言っておくけど。夢って、自分の力で見つけないと意味がないと思うんだ。ましてや神様に与えられたもので満足するのは、間違っているぞ」

「私だって、わかっていますよ。そんなこと。……でも、どうしても欲しかったんです」

 伏見の声には、強い決意とほんの少しの寂しさが滲んでいた。彼女の気持ちが痛いほど分かってしまうから、俺は、彼女にかける言葉を何も見つけられなかった。だけど、突然、立ち上がった伏見はふっと表情を緩めて、冗談めかしてこう言った。

「……まあ、一番良いのはこの戦いの途中に私の夢を見つけることですかね! もし夢が見つかったら……そうですねー、神様に叶えてもらえる願いが余ってしまいますから、いっそのことお金にでも変えてもらいましょうか! お金はありすぎて困ることはないですし。それにちょうど面白い漫画をたくさん発掘したので本棚に揃えたかったんですよ。実は私って漫画は紙で読みたい派でなんですよね!」

「……ああ、そっちの方がいいと思うよ」

 俺はそう答えながら、心の中で小さく苦笑した。さっきまで、伏見には『夢は自分で見つけないと意味はない』と言っておきながら、俺は彼女の願いを聞いて、どこかで参考にしようとしたのだ。模範解答を見て、楽をしようとしたのだ。

 俺はその下心を隠すように、そっと彼女から目を逸らした。

 それにしても、伏見が俺と同じような悩みを持っていることが意外だった。

 俺の勝手なイメージでは、伏見はもっと自由気ままというか、他人や物事に縛られずにのびのびと自分の気が向くままに行動しているように見えた。いや、それも彼女の一面なのは確かだろう。そんな彼女と俺が、たまたま同じようなことに悩んでいただけだ。

 それに、将来についてじっくりと考えて、思いを馳せるのは若者の特権でもある。

 だから、俺たちが夢を欲していることは、そこまで不思議なことじゃない。

 俺がばんやりとそんなことを考えていると、伏見は「よーし」と可愛らしい声を上げて立ち上がった。まるで、新しい一歩を踏み出すように、彼女はしっかりと自分の足で立ち上がった。

「……もう大丈夫か?」

 俺がそう尋ねると、伏見は少しだけ考えるように首を傾げて、次の瞬間には、ぱっと満面の笑顔を咲かせて答えた。

「はい、弱音を吐いたので、あとはひたすら頑張るだけです!」

「強いな。まあ、こっちとしては助かるけどさ……それで、さっき伏見が言っていた能力って、何なんだよ?」

 彼女はさっきまで沈んだ表情が嘘のように明るくて、思わずこっちが元気がでてきた。だが、問題は何も解決してない。俺が再び話を戻すと、彼女は言葉を選ぶように慎重に……いや、困ったような表情を浮かべながら首を傾げた。さっきよりも深く首を傾げている。

「……能力というのは、神使に授けられた……えーっと、参加者に与えられる、『必然的な現象を引き起こせる特殊な力』とでも言えばいいのでしょうか?」

「『必然的な現象を引き起こす』って……ずいぶん、難しい表現をするんだな」

「仕方がないじゃないですか! あのキツネ、ほとんど何も説明しくれなかったんですよ! 白い毛並みはフワフワで、顔は可愛いのに、話し方がとっても嫌味だったんです。意地悪キツネだったんですよ! 突然能力を渡してきたくせに、説明は一切なしです。 ありえますか? 私だって手探りでここまで頑張ったんです。さっきの説明だって、一から全部、自分で考えて言語化したんですよ! この大変さ、優斗さんに分りますか⁉」

 伏見はぷくっと頬を膨らませ、怒りを込めてまくし立ててくる。白いキツネへの怒りを思い出しているみたいだ。まあ、俺にはまったく関係ないことだから、彼女がしていることは、ただの八つ当たりなんだけど。

「意地悪キツネって……なんだよそれ。まあ、いいか。つまり、イノシシ男も伏見も、この馬鹿げたゲームに参加した連中は、みんな変な『能力』を持ってるってことだな。で、伏見の能力の詳細は? 燃えない炎を出すとか、そんなところか?」

「それでどうやって勝てばいいんですか!」

 俺の言葉に伏見は思わず声を張り上げ、すぐに肩を落とした。

「……はぁ、もう疲れましたね。優斗さん、キツネは化かすって聞いたことはありませんか? 私の能力は、それです」

「……あれ、それってタヌキの方じゃなかったか?」

「タヌキは化けるです! キツネは化かす! ここ、とっても重要ですから覚えておいてください!」

 伏見は真剣な顔で指を立てて、力強くそう言い切った。その勢いに思わず「はい」と返事しそうになった。

「……私の能力は、自分の頭でイメージした現象を実際に起こせるってものだと思います。あー、幻影を見せるって言った方が分かりやすいでしょうか? たぶん、ですけどね」

「たぶん、って……」

「あ、私を責めないでくださいよ! 何も教えてくれないあのキツネのせいなんですから! 説明責任を果たさなかったキツネが悪いんです。普通ならクーリングオフですよ、クーリングオフ!」

「誰も責めてないって……あー、すまない。やっぱり、聞いただけだとピンとこないな。だから、もっと詳しく教えてくれると助かる」

 あまりに曖昧な説明に、思わず眉をひそめてしまった。すると彼女は、「うーん」と唸りながら、腕を組んで考え込んでいた。

「……あー、はい、そうですね。もっと詳しく、ですか……やっぱり口で説明するのは難しいみたいです。あ、そうだ! 優斗さんが、私の能力を実際に体験すればいいじゃないですか! それがいいですよ!」

「た、体験?」

「はい、その方が手っ取り早いと思いますし! 私の下手な説明より、ずっと理解しやすいじゃないですか。……では、いきますよ!

 伏見はこちらに一歩近づき、両手の胸の前で組むと、まるで魔法の呪文でも唱えるかのように静かに言葉を紡いだ。

「優斗さん、『貴方は今水の中にいます』」

「おい、ちょっと待——」

 ろくでもないことが起こる。そんな予感がした。だから、俺は伏見を止めようと右手を動かし、彼女の口を塞ごうとした。


 ——その瞬間、水の音が聞こえた。


 すべての音が濁って聞こえる。耳に綿でも詰まっているかのような、重たい閉塞感。いや、音だけじゃない。視界も滲んで、世界がぼやけている。彼女の声で、世界の常識が一変した。

 気がつくと、キングスクエア全体が水没していた。

 不思議な感覚だ。プールの中にいるような加重感と浮遊感が、同時に身体を包み込む。なのに、伏見は何も変わらず、にこやかに笑っていた。苦しい。彼女も俺と同じく水の中にいるはずなのにまるで何も起きていないかのように。苦しい。その笑顔が、逆に不自然だった。口の端から漏れた酸素が泡になって消えていく。このまま息ができないと死んでしまう。


苦しい。見上げると、一面ガラス張りの天井から温かな太陽の光が差し込んでいた。

苦しい。俺はその光を目指して、一心不乱に両手をバタつかせる。

苦しい。だけど、足が地面から離れてくれない。浮かばない。

苦しい。重力が身体を引っ張ってくるせいで、浮かぶことができない。

苦しい。口と鼻穴に水が迫ってくる。俺は今、水に侵されている。

苦しい。息ができない。息ができない。息ができない。息ができない。息が——


「優斗さん、ゆっくりと呼吸してください。私を信じて」


 水に阻まれているはずなのに、伏見の鈴を転がすような声だけは、とてもクリアに聞こえた。彼女は、バタバタと溺れないように動かしている俺の両手をそっと包み込んできた。温かい。何故か、とても安心する。今も、彼女の瞳は真っ直ぐで、綺麗な色をしていたからだ。信用して欲しい。彼女はきっと、そう言っているのだろう。


「……ッ……ふ、…フー…ふっー……」


 だから、俺は水の中で呼吸を試みた。

 大きく口を開けて、しっかりと息を吸う。

 水が呼吸器官に流れ込んでくるのを気にしてはいけない。まるで口内に流れ込む水をすべて飲み干すかのように、俺は何度も息を吸った。

「大丈夫でしたか?」

「あ、ああ。不思議なことに……大丈夫だった」

「はい、そういう『能力』ですから!」

 彼女は誇らしげに胸を張って、にっこりと笑った。

 水の中にいるはずなのに呼吸ができる。声も出せる。その違和感に気づいた瞬間、俺はもといた空間に戻っていた。異常は何もない。強いて言うなら、溺れまいと必死に抵抗していた俺の行動が、一番の異常だったのだろう。

 これがもしドッキリだとしたら、大成功だ。海外のドッキリ動画でも、ここまで大規模な仕掛けを見たことがない。なにせ、キングスクエアの建物全体を隙間なく埋め尽くすほどの水が、あっという間になくなってしまったのだから。風呂桶から水を抜くのとは、規模が違う。神様から与えられた能力——そう聞いたときは、正直、こいつは何を言っているんだと思った。だが、どうやら彼女の言うことは、大言壮語というわけではなかったらしい。

「やるなら先に言ってくれよ……だけど、面白いな。炎と違って、溺れそうなほどリアルだったぞ。だけど、服は濡れているわけではない。これってどういうことなんだ?」

「えーっと、それは……私がプールの授業で溺れかけたことがあるからだと思います」

 伏見は少し恥ずかしそうに、指先で髪をいじりながら答えた。その仕草は、彼女の中にある過去の嫌な記憶をそっと引き出すような、繊細な動きだった。

「あー、なるほど。ようやく腑に落ちた。伏見が言っていた『イメージできない』とって、そういうことか……」

「はい。私の能力は、ちゃんとイメージできないとダメなんです。火が熱いって漠然としたイメージはあるんですが、私は火傷をしたことも、誰かが火傷するのを見たことないくて。だから、イノシシ男に外傷を負わせることができなかったんだと思います」

 伏見は悔しそうに唇を噛み、視線を足元へと落とした。

「……クオリティというか、私の炎に対する解像度が低かったから、結果として、あの程度のダメージしか出せなかったのかと……」

「つまり、伏見の持っている『能力』ってヤツは、伏見の『イメージを相手と共有して、押し付けている』みたいなものなのか。そして、伏見のイメージが鮮明であればあるほど、相手に与えるダメージが大きくなると……おい、ちょっと待って。なんでそこまで分かっているのに、わざわざ俺に体験させたんだよ。無駄に苦しい思いをしたんだけど……」

 俺は自分で言ったことを忘れないように何度も頭の中で反芻して、刻みつけるように覚えていると、ふとそんなことに気が付いてしまった。だが、当の本人は悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている。

「いやいや、実際、これが一番手っ取り早かったじゃないですか。それに、私もこの能力を授かった時に、使い方がなんとなくわかっただけなんですって。あー、ほら、手足の動かし方は感覚として分かっていても、どうやって動かしているかと聞かれたら困るじゃないですか? それと同じです。……まあ、でも、優斗さんの苦しんだ経験は無駄にしませんよ。その表現をいただきました。今度からは『私のイメージを共有させて、押し付ける』能力だって説明しますね!」

「……はぁ。まったく調子がいいやつだま」

 俺は呆れたように溜息を吐きながら、どこか安心していた。彼女がイノシシ男を火だるまにしたときはどちらが『正しい』のか分からなかったからだ。

「いや、まあ、伏見の言いたいことは分かるんだけどさ。……それにしても、なんだか使いづらそうな能力だよな。炎は熱いのに火傷しない。水の中にいるはずなのに呼吸はできる。……まさに、キツネは『化かす』って感じか。……まあ、だけど。正直、俺はけっこう好きだぞ。平和的でさ」

「いや、これから私はこの能力を駆使して戦わなければいけないっていうのに、平和的だと困るだけなんですけど……」

「ハハ、それもそうだな。でも、なるべく傷つけずに、相手を倒せるなんて、伏見の能力にピッタリだと思ったぞ? ……まあ、それはそれとして。伏見、お前はこれからどうしたいんだ? 俺はお前の判断に合わせるつもりだ」

「……すいません、優斗さん。これからって、どういう意味ですか?」

 伏見は戸惑ったように首を傾げる。本当に何が言いたいのか分からないって顔をしている。

「決まっているだろ。あの男から。逃げるのか。それとも、戦うのかだ」

 だから、戸惑ったかのように首を傾げる伏見に、俺は一歩、踏み込んだ。

 彼女の目を見て、しっかりと視線を合わせる。彼女の目を見て、真剣に問いかける。この先、どうするか。それは、彼女自身が決めるべきことだ。

 ここが岐路だ。俺と伏見、二人にとってのターニングポイント。

 この選択が——彼女の選択が、これからの行動のすべてを決める。

 俺一人では、イノシシ男の暴挙を止めることはできない。

 いや、事実として。俺一人では止めることができなかった。だからこそ、これは、同じ能力を持っている伏見にしか、決められないことなんだ。

「伏見がどっちを選んでも、絶対に否定しない。どっちを選んだとしても、俺が手伝ってみせる。だから……だから、自分の感情のままに選んでみせろ」

 俺はもう、とっくに覚悟を決めていた。

 伏見を助けると。そう、心の底から——覚悟を固めていた。

 だからこそ、彼女が迷っているなら、背中を押したい。

 どんな選択でも、彼女の心に寄り添って、助けたい。

「……私は、あのイノシシ男と戦いたいです」

 伏見はポツリとそう呟いた。願いを口にするという行為自体に緊張しているのか、自分の鼓動の速さを確かめるように、胸元に手を当てている。そして静かに、だが力強く、誓いを立てるかのように彼女は言葉を続けた。

「もちろん、この戦いに勝って願いを叶えたいという思いはあります。だけど……でも、それだけじゃなくて……私は、無関係な人たちを巻き込んだイノシシ男のことが、純粋に許せないです!」

 その言葉には、怒りと悲しみ、そして彼女が持つ強い正義感が込められていた。

 伏見はただ願いを叶えたいだけではない。彼女はイノシシ男と違って、自分たちの戦いに誰かを巻き込むことを恐れている。嫌がっている。むしろ、彼女は自分の力で誰かを守ろうと立ち回っている。俺を庇ってくれたように。だから、俺も助けたいと思ったんだ。

「ああ、そうか。なら、手伝うよ。伏見のことは、俺が守ってみせる」

 不安そうに胸を押さえている伏見の手を、俺はそっと、しかし力強く握った。

言葉だけでは足りない気がして、態度でもはっきりと示したかったから。俺は彼女の手を取った。さすがの伏見も驚いたような、困惑したような、何とも言えない表情を浮かべていた。

 いや、どちらかと言えば――困惑の色が濃いな。握られた手をじっと見つめたまま、微動だにしていないし……あれ、俺は何かを間違ったかもしれない。

 あまり意識はしていなかったが、いきなり男に手を触られるのは、誰だって嫌だろう。

 もしかして、俺は伏見を怒らせてしまったのではないか?

 そんな不安を抱きながら、彼女の顔をそっと盗み見る。怒っていないか、不快にさせてはいないか、と恐る恐る視線を彼女の顔に合わせる。すると、俺の心配をよそに、彼女はニヒルに笑って、こちらを挑発するかのように口を開いた。

「……そこまで自信があるってことは、もしかして何か武術の経験でもあるんですか? 先に言っておきますが、生半可な戦力では足を引っ張るだけですので……他の人たちと同じように、大人しく避難した方がいいですよ」

「空手と剣道。それに弓道もしていた。戦力としてはきっと役に立てると思う!」

「普通に……というか本当にスゴイですね! 侍にでもなるつもりだったんですか?」

「いや、侍になりたいなんて思ったことはないな。それに、スゴイのは俺じゃなくて伏見の方だろ。そんな恰好でよく走り回れるな。巫女装束だと走るだけでも一苦労だろ?」

「あー、優斗さんは何もわかってないですね! 巫女服はメイド服と同じぐらい万能なんですよ?」

「……そういうものなのか?」

「はい! それに、イノシシ男を見ていて気付きませんでしたか? どうやらこのケモミミモードに変身すると身体能力が格段に上がるみたいなんですよね、ほら!」

 そう言うと伏見は軽く助走をつけて、勢い良くジャンプした。掛け声と共にジャンプした伏見は、そのまま三メートルほど跳び上がる。

 天井まで手どころか、頭がぶつかりそうな勢いだ。

 その動きは、まるで重力を無視しているかのように軽やかだった。

「ふーん、どうですか? スゴイでしょう!」

 彼女はそのまま綺麗に着地すると、胸を張って自慢げにそんなことを言ってきた。

 黄金色の耳と尻尾をブンブンと可愛らしく動かして、こちらを見上がてくる。どう見ても、褒めてほしそうだ。いや、確かにすごい。軽々とした動きだ。少なくとも俺には絶対に真似できない。

 そのはずなのに、イノシシ男を見た後だと、どうしても拍子抜けに感じてしまう。

 あいつの動きは、まるで獣そのものだった。荒々しく、重く、そして圧倒的だった。伏見のジャンプも確かに見事だが……迫力が違う。少なくとも彼女がコンクリートの壁に、素手で、黄金色の獣毛に覆われたその小さな拳で、穴を開ける姿が想像できない。本能で動く怪物と、理性で跳ねる少女。その差が、今はやけに大きく感じる。

「……」

「うん、どうしたんですか? そんなに難しそうな顔をして?」

「いや、ちょっとな……」

 だけど、素直にこの感想を口にしたら、伏見はたぶん不機嫌になるよな。きっと機嫌を損ねてしまう。

 板挟みだ。この会話の流れで何も感想を言わないのは不自然だし、かといって感情が伴っていなければ、それこそ彼女の機嫌を損ねてしまうだろう。

 頭をフルで回転させて、伏見のこれまでの言動を思い返す。

 決して不自然じゃなく、彼女の機嫌も損ねない——そんな神の一手はないものかと。必死に頭を捻り、思考を巡らせ、ようやく彼女の満足しそうな回答を導き出した。まるで天啓を得たような気分だ。そう、俺にはもう、伏見の巫女服に対する執念とも言うべきこだわりを褒めるしかない!

「……あー、なるほど。伏見はキツネだったから巫女服を着ていたのか。ただのコスプレかと思っていたけど、キツネ耳に巫女服は王道ってやつだもんな」

「おー、優斗さんにしては、よく理解かっているじゃないですか! まあ、キツネだから巫女服って言われると、意識しているみたいでちょっと恥ずかしですけど……それと、見てください! 少し邪道ですが、スニーカーを履いているんですよ」

「……それは似合わないな」

 嬉しそうに目を細めていた彼女だったが、俺のその一言で態度が一変してしまった。じっとした冷たい目で俺のことを見てくる。どうやら俺は、余計なことを言ってしまったようだ。

「……そんなことわかっていますよ。だから、邪道って言ったじゃないですか。……っもう、さっきからなんなんですか! もしかして優斗さんはノンデリってやつなんですか? ちょっと邪険に接した方が女の子にモテるとか思ってる勘違い男なんですか? もしそうなら、しばきますよ?」

「す、すまない……そんなつもりはなかったんだけど……」

 俺は伏見の勢いに負けて、反射的に謝った。

 彼女の怒りは本気ではないにしても、彼女の言葉の端々には、確かな鋭さがあった。

「……はぁ、もういいです。優斗さんに一つだけ、これからの人生で役に立つアドバイスしてあげます。女の子に『どっちがいい?』って聞かれたら、まず両方とも褒めてから自分の意見を言うものですよ。これが女の子にモテる秘訣です。基本、女の子って否定じゃなくて、肯定してほしい生き物なんですからね!」

「そうなのか……次からは気をつけよう」

 伏見は肩を竦めながら、呆れるようにそんなことを言ってきた。

 巫女服を褒めるのは正解だったが、その会話の中で地雷を踏んでしまったみたいだ。

 やっぱり、人の感情を読むって難しいな。

 伏見のように感情を素直に表に出してくれる人でも、俺は接し方を間違えてしまった。

 再思三省。これは反省しないといけない。

「……なぁ、ところで。いきなり話は変わるけどさ。アイツ、イノシシ男はどうやって伏見の居場所を突き止めたんだろうな?」

 話題を切り替えると、伏見は少しだけ真剣に考えるように視線を泳がせた。

「それは……やっぱり、私の後をつけてきたんじゃないですか? 横浜駅から、ここまでコソコソって感じで?」

「……今のアイツに、そこまでの理性が残っているとは思えないんだけど……」

 俺は伏見から視線を外し、再びイノシシ男がいるフロアの奥へと目を向けた。

 そういえば、響き渡っていた破砕音も怒声も、今はまったく聞こえない。フロア全体の空気がどこかおかしい。

 さっきまでのイノシシ男の暴れっぷりが嘘のように、妙に静まり返っている。

 まるで、嵐の前のような、不気味な静けさだった。

 この短時間で、あの怒り狂ったイノシシ男が正気を取り戻したとはとても思えない。

 怒りに取り憑かれた人間は、その怒りを止める術を知らない。だから、他人がどうしようと関係ない。自分のせいで迷惑を被っている人がいるなんて、考えもしない。自分が満足するまで暴れ回ることしか考えられていない。

「……スマホ? 誰かと連絡を取ってるのか?」

 ふと、視界の端に動くものが映った。イノシシ男だ。イノシシ男が、ポケットからスマホを取り出していた。彼は分厚い指で、不器用に、操作しながら、じっと画面を見つめていた。その視線の動きから察するに、画面に表示された文字を何度も、何度も、読み返しているのだろう。彼の姿は、まるで何かを確認しているかのようだった。藁にも縋るような、必死な形相で、イノシシ男はしきりにスマホに目を落としている。スマホ画面に映る何かを見ている。

 まさか、誰かと連絡を取り合っているのか?

 ということは、敵は一人じゃないってことか?

 いや、もしかして……黒幕は他にいるのかもしれない。

 伏見の居場所をイノシシ男に伝えて、命令を出している存在が、どこかに潜んでいる。そんな疑念が頭の中でじわじわと膨らんでいく。そのとき。イノシシ男がこちらを向き、顔を歪めた。気づかれた。

 目は血走り、鼻息は荒く、全身の毛を逆立てている。俺たちの姿を見つけると同時に、イノシシ男の本能が、血に飢えた獣の本能が、再び暴走を始めてしまったみたいだ。

「おい、伏見。ヤバいぞ。イノシシ男がこっちに——」

 俺の声が伏見に届くよりも早く、視界の端に異変が映った。

 全身を奮い立たせているイノシシ男と俺たちの直線上に――涙を流す子供の姿があった。どこかのチームの野球帽子を深くかぶり、体育座りで物陰に隠れている。

 少年の、その小さな肩が、恐怖で震えているのが見えた。

 はっきりとこの目に映った。だから、走った。

「優斗さん⁉」

 伏見の声が、焦りと驚きを含んで響いた。

 恐怖で震える少年の姿が視界の端に映った瞬間、身体が反射的に動いていた。俺は直感的に、地面を思い切り蹴って、少年のもとへと駆け出していた。

 だが、イノシシ男も俺の動きに強く反応した。枝分かれした獣毛を逆立てて、力強く、風を纏いながら、突進してきた。咆哮とともに、男の巨体が爆発的な加速を見せる。地面が爆ぜた。世界が軋む。そのせいで、空気が、重力が一瞬だけ狂ったような錯覚すら覚える。

 イノシシ男は、力ですべてをねじ伏せるつもりのようだ。地面を抉り、空気を押し潰し、突進の軌道上にあるものをすべて薙ぎ払おうとしている。

 その姿は、まるで獣……いや、イノシシそのものだった。

 理性を失った暴力の塊は、声を殺して泣いている子供の存在に気づいていない。無垢な命を、俺の命を、彼は自分の意志で踏み潰そうとしている。危険だ。先に見つかれば、少年に何をするか分からない。

「『吹き飛べっ!』」

 伏見が俺を庇うように『能力』を使ってくれた。

 彼女の鈴を転がすような声が、周囲の空気を一変させ、俺の常識を塗り替えた。

 彼女が発した言葉が、風の圧が、透明な壁となって、イノシシ男を殴りつけるかのように襲いかかった。爆風のような衝撃が、イノシシ男の突進を阻む。まるで、重力が反転したかのように彼の身体が宙に浮いた。一瞬、静止した。そして、イノシシ男は透明な壁に激突し、押し出され、後方へ吹き飛ばされるかと思われた。だが——

「もう、きかねぇよ! 『言霊使い』っ!」

 イノシシ男が咆哮し、右手を突き出した。

 荒々しい獣毛に覆われた太い腕が、伏見の『能力』で生み出された透明な壁に触れた瞬間、すべてが霧散した。風の圧も、透明な壁も、爆風のような衝撃も……まるで幻だったかのように跡形もなく、霧散した。まるで花びらを散らすかのように。まるでガラスを砕いたかのように。『世界の常識が元に戻った』かのようだった。伏見が『能力』で乱した秩序を、彼は元通りにした。

 それは、『否定する力』だった。伏見の能力が、幻を、可能性を『生み出す』ものだとすれば――彼の能力は、まさに対極。生み出されたものを根本から否定する。夢を、幻影を、世界のバグを修正する力。だから、伏見の能力では、彼の突進を止めることはできなかった。

 俺とイノシシ男、二人の距離が急速に縮まっていく。縮まって、縮まって——眼前に迫ったその瞬間、イノシシ男がギュッと両目を瞑っているのが見えた。隙。一瞬の隙。それを逃さず、俺はスライディングの要領で地面を滑り込む。スピードが減速しないように、地面との接地面積を最小限に抑え、身体を地面に擦り付けるようにして、イノシシ男の横をすり抜けた。

「あ、っぶね!」

 イノシシ男の背後に抜ける。湾曲した鋭い牙が、獣のように膨張した筋肉が、眼前を通り過ぎた。ギリギリだった。だが、回避に成功したという事実に喜んでいる暇はない。振り返っている暇もない。俺はそのまま、泣いている少年を抱きかかえた。

「優斗さん、大丈夫ですか⁉ 怪我は!」

「ああ、安心しろ。この子に怪我はない」

「いや、それは確かに喜ばしいことなんですけど……」

 俺の腕の中で、少年は小さく震えていた。青色の帽子を深く被ったこの少年は五、六歳くらいだろう。小学生低学年くらいの年頃だ。

 そんな少年が、小さな子が、一人で泣くのを我慢していたんだ。

「もう大丈夫だぞ。俺がいるからな」

 だから、俺は少年の頭を撫でながら、強く抱きしめた。

 大人(おれたち)の姿を見て安心したのか、少年は涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになった顔を、俺の胸元に押し付けてきた。彼の小さな身体は、まるで壊れそうなほど震えている。よほど怖かったんだろう。少年のその震えが、大粒の涙が、ぐちゃぐちゃになった泣き顔が、彼の中に渦巻いていた恐怖の深さを物語っていた。

「私が囮になります! 優斗さんはその子を連れてここから避難してください!」

 伏見の声は、決意に満ちていた。

 背後を振り向くと、彼女はイノシシ男を睨みつけ、真っ正面から対峙していた。

「いいのか。俺たちはイノシシ男を挟んでいるぞ! このまま二人で——」

「その子はどうするんですか! 早く、安全な場所に連れて行ってあげてください!」

「……いや、だけど……」

 俺は、伏見と泣いている少年の姿を交互に見た。確かにそうだ。彼女の言う通りだ。だが、どちらも守りたい。どちらも守らないといけない。しかし、彼女のその言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。

 二者択一。伏見を守るためにこの場に残れな、少年をこのまま放置することになる。逆に、少年を安全な場所に送り届ければ、伏見に加勢することができない。どちらかは選べる。だが、どちらかは選ぶことができない。俺が最も苦手とする選択だった。

 そんな俺の迷いを見透かしたように、伏見は優しく言葉を続けた。さっきの鋭さが嘘のように、柔らかく、穏やかな声だった。

「そもそもこれは私の戦いです。無関係な優斗さんを巻き込んでしまったことも、本来は想定外なんですよ。……ですが、戦う勇気をくれたことは感謝しています。私も覚悟を決めました。だから、もう充分です。ここは私に任せて下さい!」

「……ああ、この子を安全な場所に避難させてから絶対に助けに戻る。だから、伏見は俺が戻るまで無茶はするなよ!」

「ふふ、はい。もとより負けるつもりはありません。あ、これだと負けフラグみたいになっちゃいましたね」

 俺は無茶をするなと釘を刺したつもりだったが、どこまで伝わっているかは分からない。だが、信じるしかなかった。彼女と対峙しているイノシシ男は、もう俺の存在に興味を示していない。彼の視線は、完全に伏見に向けられている。

 その事実が、二人にとって俺はただの部外者なのだと突きつけてくる。

 だから、俺は黙って少年の手を引いた。

 この少年の命を守るために、安全な場所に送り届けるために、そして……必ず伏見を助けに戻るために、再び、俺は駆け出した。




※ ※ ※ ※ ※



伏見と別れてから、キングスクエアの一階、広々とした入口付近を目指して走り続けた。

 少年を二人の戦いに巻き込ませないために、一度も立ち止まらずに走ったせいで、少年の息はすっかり上がっていた。これは、俺が少年の歩幅や体力を考慮せずに全力疾走したせいだ。少年の顔は真っ赤に染まり、肩を上下させながら新鮮な酸素を取り込もうとしている。とても苦しそうだ。このままでは倒れてしまう。

そう判断した俺は足を止めて、少年に優しく声を掛けた。

「はぁ、はぁ……」

「よく頑張ったな。ここまで来れば、もう大丈夫だ!」

「うん、ボク、頑張った、よ……」

「ああ、本当によく頑張った! えーっと、名前は?」

「はぁ、はぁ……こ、こういちだよ」

「そうか。とてもカッコいい名前だな。……ねぇ、コウイチ君。君のお母さんやお父さんはあそこにいるかい?」

 コウイチ君に質問すると、俺はキングスクエアの入口付近でたむろしている集団に向かって指を差した。

「分かんないけど。お父さんが、あの中の、どこかにいると思う……ボクのことを、きっと探しているはずだから……」

 コウイチ君と一緒に、シャッター前でたむろしている人々の顔を順に確認していく。

 右端一人ずつ、コウイチ君のお父さんらしき人物を探している途中、ふと違和感を抱いた。よく見ると、その集団は男女関係なく、ヘルメットやゴルフクラブなどで武装しているのだ。中にはスキー用のゴーグルをつけている者もいれば、即席の盾を作っている者もいる。服装もバラバラで、避難者というよりも、何かしらの脅威に備えている雰囲気だった。それに、イノシシ男が暴れ始めから、もうかなり時間が経っている。

 だから、避難はとっくに完了しているものだと思っていたんだけど……もしかして、何かトラブルでもあったのだろうか?

「コウイチ!」

「お父さん!」

 すると突然、武装している集団から一人の男性が飛び出してきた。

 金属製のバッドを持った中年の男性だ。コウイチ君がお父さんと呼んだ男性だ。

 彼は手に持っていた金属製のバットを投げ捨てて、転びそうになりながらも、コウイチ君のもとへと駆け寄ってきた。

「コウイチ、どこに行っていたんだ! 探したんだぞ!」

「……ぅ、お父さんがボクを、置いていったのに」

「あー、ごめん。ごめんな。コウイチ、泣かないでくれ。コウイチから目を離してしまったお父さんが悪かったから……」

 二人はそのまま、互いの無事を確かめ合うように熱い抱擁を交わした。父と子。家族の愛情溢れる、映画のワンシーンのような光景だった。俺は少し離れた場所から、その再会を温かい目で見守っていると、背後から声を掛けられた。

「よかったよな、兄ちゃん。そいつ、ずっと『息子を探しに行かないと』『息子が心配だ』って煩かったんだよ。まあ、気持ちは痛いほど分かるけどなぁ……」

「……アナタは、ずいぶんと冷静なんですね」

「おい、兄ちゃんだけには言われたくねぇぞ? こんな状況でニコニコしやがって! 仮面でもつけてやがるのか?」

「これが地顔ですよ?」

「ッ……はぁ、いい歳こいたおっさんが、兄ちゃんみてぇななガキに苛立ちをぶつけるのはダセェよな。ただ、兄ちゃんも言い方には気をつけろよ。癪に障る」

「はい、善処します。……ところで、これは一体どういう状況なんでしょうか? イノシシ男が暴れ始めて、もう三十分は経っているはずなのに、なぜまだこんな場所に?」

 振り返ると、気さくそうな初老の男性が立っていた。

 年長者なだけあってとても落ち着いていて、目には怯えの色がない。

 だから、彼に詳しい事情を説明してもらうことにした。俺のその問いに、初老の男性は少しだけ目を細める。その表情には、どこか事情を知っている者の余裕があった。

「イノシシ男か……まあいい。防災用のシャッターが誤作動を起こして、閉まったみてぇでなぁ。俺たちはここから外に出られなくなっちまったんだ」

「出られない? つまり、俺たちは閉じ込められているってことですか?」

「ああ、そうだな。シャッターを開けるために管理室に向かった連中が、まだ戻ってこなくてよぉ。どうしようもねぇから、そこら辺で拾った丈夫そうなもんで、このシャッターをこじ開けようとしているところだ」

「……防火用のシャッターって言っていましたよね? 開きそうなんですか?」

「まったくダメだ。分厚すぎる。つーか、管理室に向かった若い奴らが道具をほとんど持って行ってしまってなぁ。残されたのは女子供と、こんな初老のジジイだけだ」

 カンッ、カンッ——と、金属同士がぶつかる音が響く。

 キングスクエアの入口付近では、男たちがシャッターをサンドバッグ代わりに叩いていた。だが、防火用のシャッターは予想以上に分厚く、ほとんど変化はない。

 表面に傷はついているが、こじ開けるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 金属を叩いた反動が手に来ているのか、男たちは苦悶の表情を浮かべている。交代でシャッターの破壊を試みてはいるが、諦めている人も少なくなさそうだ。

「これだと、外からの救援を待った方が早そうですね」

「ああ、わかってはいるけどな。……無駄かもしれねぇけど、何かしねぇと不安で押しつぶされちまうよ。それに、こうも暗いと雰囲気まで沈んじまう」

 コウイチ君を連れて来るときに気づいていたが、一階部分は全体的に薄暗い。

誰かが意図的に電気が止めているのか、とても昼間とは思えないほどだ。

「……管理室って、どこにあるんですか?」

「ん? 管理室に行くつもりなのか? 建物内になんか危険な奴がいるって話、聞いていないのかよ? 俺はやめておいた方がいいと思うぜ」

「……」

「あぶねぇことはするもんじゃねぇぞ。管理室に行った連中がどうなったのかは知らねぇけどよ。ここに帰って来てねぇことだけは確かなんだ。電気もつかねぇし。そんなことよりも……なぁ、兄ちゃん、よかったら手を貸してくれないか?」 

 初老の男性は真剣な表情で俺を見つめてきた。たぶん彼はとてもいい人なのだろう。年長者だけあって周りの空気が読めて、親しみやすい雰囲気を持っている。

 俺を引き留めているのだって、人手が欲しいというよりも、若者を危ない場所に近づけさせないための方便みたいなものだ。伏見がイノシシ男の意識を引いてくれている今、ここにいれば少なくとも身体の安全は保障されたようなものだ。だけど——

「……すいません。俺は友達を助けに戻らないといけないので……」

「そうか、残念だ。体力のある人材が欲しかったんだけどなぁ……まあ、オレたちはここで頑張ってるからよ。その友達を助けたら、戻ってこいや」

「……はい、ありがとうございます」

追い払うみたいに手を振った初老の男性に向かって、俺は軽く頭を下げる。

 約束を守るために、助けになるために、俺は伏見のもとへ戻らなければならない。

 ここにいる人たちの手助けをできないのは心苦しいが、今はイノシシ男を倒すことが先決だ。管理室には、その後で向かえばいい。

 そう自分に言い聞かせながら、足を踏み出そうとしたその時――

「あの……すいません」

「あ、えーっと、コウイチ君のお父さんですよね?」

 そんなことを考えていると、コウイチ君のお父さんが話しかけてきた。

 黒縁のメガネが特徴的な、とても優しそうな目をした人だ。

「そうです。うちの息子を助けてくれて、ありがとうございました」

「いや、当たり前のことをしただけです。……それに、コウイチ君を助けることができたのは俺だけの力じゃないですから」

「……人が人を助けることは当たり前じゃないですよ。それに、こんな状況ならなおさらです。……だから、助けてもらったなら、感謝を伝えないといけないんです。……本当に、ありがとうございました。うちの息子を助けてくれて……」

「……そうですか。なら、よかったです」

 コウイチ君のお父さんは深々と頭を下げてきた。

黒縁のメガネがずれるのも気にせずに、地面にめり込みそうなほど深く頭を下げる。

 お父さんのその姿を、コウイチ君は不安そうに見つめていた。小さな手がぎゅっと彼のシャツの裾を握っている。だから、その不安を少しでも和らげるたくて、俺はコウイチ君と視線を合わせるように、地面に膝をついた。

「コウイチ君。もうお父さんから目を離したらダメだよ?」

「うん。……お兄ちゃんはこれからどうするの?」

「あー、俺は伏見……いや、キツネ耳のお姉ちゃんを助けに行ってくるよ」

「そうなんだね……」

「そんな不安そうな顔をしたらダメだよ。コウイチ君には、こんなに立派なお父さんが付いているじゃないか」

「うん、そうだけど……お兄ちゃんがいてくれたら、もっと心強いよ?」

「それは……まあ、そうだよな。人数が多い方が安心するよな。……よし! なら、約束しようか!」

「約束?」

「そう、約束だ。俺はあのお姉ちゃんを助けて、イノシシ男を倒して、必ずここに戻ってくる。だから、コウイチ君はそれまで泣いたらダメだよ?」

「なら、それまでボクはどうすればいいの?」

「コウイチ君は……笑おう。これはさ、まだ俺だけしか知らないことだと思うんだけどね。笑顔になると笑っているように見えるんだよ? 知ってた?」

「フフ、なにそれ。……こう?」

 そういうとコウイチ君は不器用な笑顔を浮かべた。だから——

「ふへぇ?」

 俺はコウイチ君の柔らかい頬をつねるように引っ張った。餅のように伸びるその頬を見ていると、和やかな気分になって、つい笑ってしまう。

「なぁに、するのぉ? おにぃちゃん?」

「その可愛らしい笑顔のまま、お父さんのそばにいてあげて。どうやら、コウイチ君の笑顔には人の心を和ませる力があるみたいだ」

「いたぁい、よ」

「おっと、すまない。痛かったのか……」

 パッと彼の頬から手を離す。

すると、そこには蚊に刺されたかのような赤い痕が残っていた。

「それじゃあ、俺はもう行くけどさ。まだ不安か?」

「ううん。……お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、二人ともカッコよかったよ」

「ああ、そうか。そんなにカッコよかったか?」

「うん、ヒーローみたい!」

「………ヒーロー、か……」

 コウイチ君の、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

ヒーローという単語を聞いてから、俺の心がざわざわとして落ち着かない。

心が熱くなるのに、頭だけは冷静で、冴えて渡っている。

 朝、目が覚めたときのようにすべてがクリアになるが感覚。

 頭の中に、自分の行動を俯瞰しているもう一人の自分がいるような感覚だ。

 とても不思議だった。まるで、誰かに魔法をかけられたように、身体の奥底から力が湧いてくる。俺にだって、理由は分からない。だけど、その言葉がなぜか胸にスッと染み込んできた。いや、そうだ。思い出した。俺は——

「……うん、何の音だ?」

店 内放送だ。スピーカー越しに不安を煽るような不快な音楽が流れてきた。それは、音楽と呼ぶにはあまりにも不安定で、耳に刺さるような旋律だった。高音が不規則に跳ねまわり、金属同士を擦れ合わせるような軋みが混ざっている。まるで、誰かの悲鳴を機械で加工したような、そんな不気味さがあった。

「この音……お父さんが変になっちゃった音だ!」

「……っえ?」

 鼓膜を切り裂くような高音。耳をつんざくような高音。俺はスピーカーから発せられたその異様な音に気を取られて、コウイチ君の言葉の意味を理解するのが遅れてしまった。今、彼は『お父さんが変になっちゃった音だ』と言った。

 それは、一体どういう意味ことなんだ?

 そういえば、コウイチ君は開口一番、「置いていかれた」と恨み言をこぼしていたな。

 何だか嫌な予感がする。得体の知れない違和感が頭の片隅にじわじわと広がっていく。

 思い返してみれば……人情味に溢れるあの父親が、コウイチ君を抱きしめて涙を流していたあの父親が、自分の子供を置いて逃げるとは思えない。それは、不自然だ。

 俺の中にある疑問が確信になった瞬間、反射的に背後を振り返った。すると——そこには、バットを振り上げているコウイチ君のお父さんの姿があった。

フラフラと、まるで酒に酔ったかのような足取りだ。振り上げたバットの重さに振り回されながら、口から涎を垂らし、白目を剥いている。さっきまで理性的だった彼の面影は、どこにもない。その姿は、まるで映画に出てくるゾンビのようだった。完全に理性を失っているその瞳を見て、俺は直感的に理解した。


——敵は、イノシシ男だけじゃない。


 アイツと協力関係を結んだ人物が、この建物のどこかに潜んでいる。

 神使の能力ってやつを使って、コウイチ君のお父さんを操っている人物がいる。

 恐らく、監視カメラか何かを使って、俺たちの行動を見ていたのだろう。

 そういえば、初老の男性が「管理室に向かった人たちが戻ってこない」と言っていたな。なら、敵は恐らく管理室にいる。そこで俺たちを監視して、タイミングを見計らっていたんだ。ずっと。そうじゃなければ、このタイミングで俺に攻撃を仕掛けることができない。

 このことを伏見に伝えないと——そう思った、次の瞬間。

「お父さん⁉」

「ッ!」

 コウイチ君のお父さんが持っている金属性のバットが、俺たちに向かって振り下ろされた。俺の背後にはコウイチ君がいる。なのに、その事実を無視するかのように、容赦なく振り下ろされた。その一撃には、父親としての愛も、息子への情も、微塵も感じられなかった。ただ、目の前の『敵』を排除するための動き。俺は咄嗟にコウイチ君を抱き寄せ、身を挺して庇う。そして、そのままコウイチ君のお父さんが振り下ろしたバットによる強力な一撃を、背中で受けた。




 ※ ※ ※ ※ ※




 同時刻。鹿島優斗がキングスクエアの入口付近に到着した直後。

 伏見美結とイノシシ男、人間離れした身体能力を持つ二人の戦闘は、すでに苛烈を極めていた。キングスクエアの三階、四階を舞台に、伏見美結は縦横無尽に駆け回っている。

 一方、イノシシ男も彼女の背を追い、容赦なく攻撃を繰り出していた。拳や肘を振るうたびに、彼の目に映るものは次々と破壊されていく。彼の一撃が分厚い壁を砕き、タイル張りの床に穴を開けるたびに、無機質な建物は悲鳴を上げるように崩れていく。二人の激戦の影響で、最近オープンしたばかりのキングスクエアは、すでに壊滅的なダメージを受けていた。

「もう、しつこいですね!」

「てめぇがちょろちょろと逃げるからだろが! さっさとくたばれ!」

「いやですよ。当たったら痛いじゃないですか!」

「たりめぇだろ! 祈る(プレイ)者(ヤ―)だったら覚悟を決めとけ!」

「ん、祈る(プレイ)者(ヤ―)って何ですか?」

「……わざわざ、オレが答える義理はねぇだろがぁ!」

「あなたが先に言ったんじゃないですか。……はぁ、もういいです。はいはい、鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

「ッ、待てや! クソが!」

 イノシシ男は言葉を切ると、私へと太い腕を伸ばしてきた。そこには駆け引きなんて存在しない。彼は思考することを止め、筋肉質でがっしりとした体格に物を言わせながら、突っ込んできているだけだ。けれど、その単純さこそが、私にとって最も厄介だった。彼に搦手はない。ただ一撃の重さが桁違いだからこそ、少しの油断も許されない。気が抜けない。神経を使う。この戦いは、常に緊張の糸を張り詰めたまま続けないといけない。

「『止まってください!』」

「バカが、効かねぇよ!」

「もう、なんでですかっ!」

 イノシシ男は嘲笑するかのようにそう言い放ち、拳を握り直す。

 神使から授かった私の能力は、どうやらイノシシ男には通じないらしい。

突破口がない。ジリ貧です。このままでは千日手で、私の体力負けです。

 これは、キツネから授かった能力を私がまだ完全に把握できているわけじゃないからでしょう。私の能力は、頭の中のイメージを言葉にすることで、現象を起こしている——いや、起こしているように『見せている』だけ。

案外わかりやすいけど、何ができて何ができないのか、まだ試しきれていない。能力を得てから、まだ二か月。そんな短期間で、この能力でできることと、できないことをすべて把握するのは、さすがに無理がある。そんな中でイノシシ男と遭遇したのが、やはり痛手でした。この能力は、タネが割れてしまったら終わり。ただの幻。何もできなくなってしまう。要するに手詰まりですね。ですが——

「あ、ひょっとしてそれがあなたの能力ですか?」

「はっ、ようやく気が付いたのかよ! オレの能力は『猪突(ちょとつ)。無敵の能力なんだよ。最強だ。なんたって、触れただけで、あらゆる攻撃を無効にできるんだからなぁ!」

「……わざわざ言わなければいいのに……」

「う、うるせぇよ! それと、てめぇは正面切って戦うタイプじゃねぇだろ、言霊使い⁉ 典型的なサポート型だっ!」

「……さっきから、わからない言葉ばかり使いますよね。何ですか、言霊使いって。専門用語ばかりで会話するのは、モテないですよ!」

「ッ、モテるわ! モテモテだわ! ただオレが、女なんかに興味がないだけだ!」

「女って、その言い方がもうダメなんですよ! 減点対象です! 興味がないって……できないことはできないって、正直に言いましょうよ」

「うるっせぇんだよ、さっきから! 軽口すら叩けないように、ぶっ殺してやる!」

「逆上、短気。ゼロ点です!」

イノシシ男は再度拳を振るう。私はフットワークを駆使して、ギリギリでそれを回避した。だが、彼の苛立ちが込められた一撃が、私が立っている床を砕いた。

「うおっと!」

 バランスを崩した私を見て、イノシシ男はチャンスと判断したのか、身体を捻じ込むように距離を詰めてくる。追撃だ。大きな拳が、眼前に迫る。

 けれど私は慌てず、思い切って二、三歩後ろに踏み込んで、その拳を躱した。

 イノシシ男から小さな舌打ちが聞こえてきた。目を剥いて驚いている彼の顔を見て、たぶん私は少しだけいい気になっていたのかもしれない。

 自分でも驚くほどキレのある良い動きができたことで、調子に乗っていた。だから、足元が崩れているということを、すっかり忘れていました。

「え、嘘——」

 瓦礫に足を取られ、ずるりと滑った。いえ、それだけならまだ良かったのですが、崩れた態勢を立て直そうと咄嗟に掴んだ手摺が、外れてしまったのです。

 支えを失った私の身体は、手擦りから外に投げ出されてしまいました。

「——ッ、痛っ!」

 私は、四階から一階へと勢い良く落下した。

 ガシャン、と音を立てて、机の脚がクッション代わりに砕け散った。

 突き刺すような激痛が背中を襲った。しばらくの間、私は全身を大きく動かすこともできず、悶えるしかできなくなった。肺が圧迫されているような感覚に襲われて、呼吸すらもままならない。息がまともにできない。それぐらい、痛いです。

「……この尻尾が無ければ即死でしたね。危なかったです」

 軽口を叩きながら、背中をさすった。

 最初は、まともに息ができないほど痛かった。息をするだけでも背中に痛みが走るほどでしたが、時間が経つにつれて、少しずつその痛みにも慣れてしまいました。

 キツネのフカフカした尻尾は、個人的にはとても気に入っている。

 ですが、もし私に九つの尻尾があったなら、落下の衝撃を感じなかったかもしれない。そう思うと、ちょっとだけこの尻尾が恨めしくなった。

 まあ、でも。神使の能力で身体能力が動物のように高まっていなかったら、私はさっきのしくじりで死んでいた可能性が高いのも事実ですね。背中の痛みも、ようやく薄れてきた。なので、さっさと頭を切り替えてしまいましょう。

「……見下ろしていますね。腹立たしいです……」

 見上げると、先ほど私が足を滑らせた場所の近くで、大きな影が動いていた。

 イノシシ男だ。彼は、まるですべてを見下すようにそこに立っていた。

 どこか唖然とした表情で、立ち尽くしていた。

 彼はキョロキョロと不安そうに視線を彷徨わせている。

 手を震わせて、額にはうっすらと汗が滲んでいた。とても動揺している。

 だが、私が起き上がったのを確認すると、彼は目を合わせることもなく、エスカレーターがある方へと駆け出してしまった。なので、四階から一階までは、すぐに降りてくるだろう。

 っていうか、自分からカフェでくつろいでいた私を襲ってきておいて、そんな表情をするのは止めてくださいよ。そこで不安の表情を浮かべるのは……ズルいじゃないですか。

 せめて、私が理解できない化け物のままで、悪役のままでいてくださいよ。今、傷つけ合っているのが同じ人間だなんて、そんな事実には気付きたくはなかったです。

「……さすがに身を隠さないと、ヤバいですかね?」

 自問自答をするように弱音を吐きながら、私は立ち上がった。

 ダメージが回復するまで、どこかに身を隠さないと。

 そう思いながら、痛む体を無理やり動かして私が歩き出した。そのとき——

「……え、館内放送? なんで今更。それに、なんだか不気味な音ですね……」

 私の耳に届いたのは、黒板を爪で引っ掻いたかのようなゾッとする音だった。

 近くのスピーカーから流れてくるその音には、砂嵐のようなノイズが混ざっていて、ただでさえ不快な音が、さらに耳障りになっている気がします。鼓膜が震え、頭の中がザラっとした。まるで、音そのものが『侵入してくる』ような気味の悪さだった。私は思わず耳を塞ぐ。何故か、その場からは動けなかった。音に縛られているかのような、そんな錯覚すら覚える。そして、十数秒後。ようやく不快な音を垂れ流していた放送が終わった。それは、まるでゲーム機の電源を突然引き抜いたかのように、唐突に途切れた。耳に残る嫌な余韻。心をざわつかせるような、異様な音の残響。そして、それが完全に消えた瞬間——私がいる一階フロア全体に、不気味な静寂が訪れた。空調の音も、イノシシ男の足音も、私の心臓の音も、何もかも止まってしまったかのような感覚。それは、まるで時間の流れが一瞬だけ止まったかのような、奇妙な出来事だった。

「な、何だったんですか? 今の?」

 しばらく私は、イノシシ男から身を隠すという目的すらも忘れていた。人間の不安を煽るかのような不快な音に、あの館内放送に、気を取られてしまったせいだ。何かがおかしい。ただのノイズじゃない。あの音には、意図があった。誰かが何かを知らせようとしているような、合図を出したような、そんな気がする。

「……えっ、ん?」

 人の気配を感じて、私はゆっくりと視線を正面に向けた。すると、近くの有名ブランドの店舗から、一人の女性がゆらゆらと現れた。まだ着替え途中だったのか、下着姿のまま、ふらふらとこちらへ歩いてきた。彼女は、ドレスやお城の装飾がイメージしてある上品で華やかな刺繍が施された下着をつけた……スレンダーな女性です。彼女のその破廉恥な姿を目にした私は、同じ女性として、驚きのあまり言葉を失ってしまいました。

「え、まだ避難してなかったんですか⁉ そ、それとなんて恰好してるんですか!」

 女性はまるで酔っているかのような千鳥足で、こちらへ近づいてくる。その異様な行動を前にして、私はきっと動揺していたのでしょう。下着姿のまま歩いてくる彼女を、人の目から隠すように、あわあわと両手を広げて、戸惑いながらも声をかけた。

「もしかして酔ってるんですか? ここはとても危険なので、離れた方が……というか、早く服を着てください!」

 あまりにも衝撃的な光景に、言葉の方が追いつかない。

 もし普通に羞恥心があったなら、こんな格好で大型ショッピングモールを出歩こうなんて思わないはずだ。それも、こんな……綺麗になろうと努力していそうな女性がです。

 これは、私が能力で生み出した夢幻(ゆめまぼろし)だと言われた方が、まだ納得できます。けれど、どれだけ時間が経っても、目の前の光景が変わってくれません。私の声に、彼女はピクリとも反応してもくれません。不安に駆られた私が女性の手を取ると、冷たくなった指先の温度がしっかりと伝わってきた。生々しい感触です。情報量が増えたせいで、一気に現実味を増し、これは夢ではなく現実なのだと理解できた。いえ、理解できてしまいました。

 だから私は、自分の心を落ち着かせるように、震える声で彼女に語りかけました。

「えーっと。……と、とりあえず。私と一緒にどこかへ身を隠しませんか? この際、着替えは後でもいいです。ヤバい男が迫ってきているんですよ。危険なんです。だから、巻き込まれる前に、早く……」

「……」

 彼女は何も答えてくれなかった。まるで、私の声が聞こえていないかのように、視線を下に向けたままだ。じっと動かない。明らかに無視されています。緊急事態なのに無視をされた私は、ついに痺れを切らしてしまった。少しだけ語気を強めて再び声をかける。

「え、聞こえていますか? 大丈夫——って、うわっ!」

 白い歯が見えた。女性が突然、身体ごと倒れこむように噛みついてきたからです。

驚いた私は、奇行に走ったその女性の細い肩を突き飛ばし、距離を取りました。

 彼女は三、四メートルほど吹き飛んで、まるで死体のように力なく倒れこんだ。

 白目を剥いて、口を開けたまま、ピクリとも動きません。

しまった。今の私は、イノシシ男と同じように、身体能力が普段よりも格段に上がっていたことを、すっかり失念していました。もしかして、力加減を誤って……私は、彼女を殺してしまったのかもしれません。そんな不安が胸をよぎりましたが、それはすぐに杞憂に終わりました。彼女が天井から糸で吊るされた人形のように、ゆらりと音もなく立ち上がったからです。

「ぞ、ゾンビ⁉」

「ヴぅ、ッ、ヴ……」

 彼女のその姿を見た瞬間、私の頭に浮かんだのはその単語だった。

 低い呻き声を上げながら、噛みつこうと迫ってくるなんて、ゾンビ以外には思いつかない。ふらつきながらこちらに歩み寄ってくる彼女。その姿は、死体が歩き回っているという表現がピッタリです。それに、とても言いづらいのですが……汗や涎で化粧が崩れて、大変なことになっています。

 きっと彼女はナチュラルメイクを意識していたのでしょう。だけど、今の状態を見ていると、自然な仕上がりなどとは、口が裂けても言えません。化粧が落ちたせいで、彼女の不気味さがさらに際立ってしまったのは間違いないからです。

「『こ、転びなさい!』」

 とりあえず、私は近づいてくる彼女を転ばせて、時間を稼ぐことにした。


 ——まず、これは一体どういうことなのでしょうか?


 女性が恐怖のあまり奇行に走ったと考えるのは簡単です。でも、さすがの私もそこまで楽観的にはなれません。十中八九、これは何かの能力でしょう。

 イノシシ男が私をこの場から逃がさないためにあの女性を操った。そう考えるのが妥当なはずです。ただ、彼は『あらゆる攻撃を無効にする』と言っていましたね。

 もちろん、嘘を吐いている可能性はありますが……それでは、整合性が取れません。神使から与えられた能力は、基本的には一人一つのはずです。

 他の候補者、彼の言葉を借りるなら『祈る者プレイヤー』と呼ぶのでしょうか?

 祈る者について、私はまだ何も知りません。ですが、自分が持っている情報の整理は済ませています。まあ、実際は、あの意地悪キツネが何も教えてくれなかったせいで、自分の力でどうにかするしか選択肢がなかっただけなんですけどね。……イノシシ男が他人を操る力まで持っている可能性は極めて低いでしょう。

 次に、嘘を吐いている可能性ですが……私には彼が嘘を吐けるほど冷静とは思えません。それに彼の手が私の能力に触れた瞬間、炎が、風の壁が、光の粒になって霧散したのを見ました。確かに、この目で見たはずです。

 つまり、彼が言っていた通り、私の能力を無効にしているのは間違いなさそうです。

 ——なら、私の解釈が間違っているのではないでしょうか?

 私が不意打ちで出した炎は効いていたみたいですし、そこにカラクリがありそうですね。

 あの女性の奇行から考えるに、他人を操るみたいな能力だと思います。

 他人を操る、他人も操る……なら、自分自身のことも操れるのではないでしょうか?

 そう考えると私の『吹き飛べ』や『止まれ』など相手の身体に干渉する命令が、私の能力の一部が無効にされたことや、不意打ちで出した炎が効いたことも説明がつきます。でも、待ってください。ゾンビのようになった彼女を、私は転ばせることができましたよね。ということは、操られている人間には、私の能力が効いているということではないしょうか。なら、イノシシ男が与えられたのは他人を操る能力じゃない?

 それとも、他人を操っている最中は私の能力で干渉できるけど、彼自身へ直接的な命令は通じないってことなんでしょうか?

 あー、もう。考えすぎて、なんだか頭がこんがらがってきました。

「……ゾンビってリアルにいたら本当に怖いんですね。やっぱり映画で見るくらいの距離感が一番ちょうどいいみたいです。まあ、私はパニックホラー系の映画はあまり見ないんですけど……こんなことになるなら、もう少しちゃんと見ておけばよかったです」

 考えることを一度止め、そう呟いた。

 熱くなったパソコンを冷ますように、煮えたぎっている脳を力技で休ませる。

 頭や心が疲れたときは、あえて楽しいことを考えるのが吉です。全力で課題から目を逸らすことも、人生には必要なんです。ほら、明日からダイエットするから、今日はシュークリームを食べるみたいな……あれ、この例えはダメでしたね。別のにしないと。

「……映画やゲームを参考にするなら、ゾンビの弱点は頭に銃弾を撃つというのが定番中の定番ですけど……生きている人間にそれをするのは、さすがに気が引けますね。彼女は操られているだけみたいですし。……やっぱり、勝つためには、イノシシ男の能力を先に解明する必要があるようですね」

 冷静になればなるほど、イノシシ男の能力を知る必要性が浮き彫りになってしまう。というか、この戦いの肝はそこにあるのでしょう。相手の能力を先に見抜き、主導権を握り続けることが最も重要なことなのだと、今回の戦いで分かりました。まあ、イノシシ男には私の能力がもうバレてしまっているみたいですけどね。絶望です。ゲームだったらもうリセットしているくらいの危機的状況です。


——そもそも、どうして私の能力がバレたんでしょうか?


 炎を出しただけで、イノシシ男は私のことを『言霊使い』って呼んできました。ですが、あれだけの情報なら、普通は『炎使い』とかになるんじゃないでしょうか?

 ……あ、そういえば。優斗さんを助けるときに『吹き飛べ』と言いましたね。あれで私の能力がバレてしまったのでしょう。なるほど、納得しました。

 まあ、正直そこはもうどうでもいいんですよね。イノシシ男に能力がバレてしまっている以上、もう私にはどうすることもできませんし。

「うーん、どうしましょうかね?」

 圧倒的に不利ですね。起死回生の一手が欲しいです。

ですが、現実にはそんな都合がいいものは存在しないと、もう知っています。

 ボードゲームの一つに、人生ゲームってあるじゃないですか?

 すごろく形式で、プレイヤーは学校生活や職業選択など、人生の重大な出来事と関連したイベントマスを進みながら、お金を集めて億万長者を目指す、というあれです。

 でも、あれってちょっと不思議じゃないですか? 

人生っていう名前を冠しているわりには、リアリティーがないっていうか……。

 私は、人生ゲームって、スタート地点が同じすごろくじゃなくて、カードゲームの方がしっくりくると思うんですよ。楽しいかどうかは別ですけどね。

 私のこれまでの人生を振り返ってみれば、そうとしか思えないんですよ。

 あ、いや、別に深いことを言うつもりはありませんし、そもそも言えませんけど……まず、ポーカーや大富豪を思い浮かべてみてください。

 ほら、単純に手札は多くて強い方がいいでしょう? 


 ——つまり、そういうことなんですよ!


 私がこれまでの人生で経験したすべてのことは、これからの手札を増やすためにあるのだと考えています。これが、私なりの人生観ってやつですね。

 そして、手札を増やせば増やすほど、人生は有利になる。

 豊かになるとは言いません。ただ、有利にはなります。

 だから、コツコツと頑張ってさえいれば、意外と人生何とかなるんです!

 まあ、そうは言っても現状不利なことには変わりありませんけどね。

「……はぁ。本当に、どうしましょうか?」

 彼が私の能力をサポート型と評した理由(わけ)を、今まさに痛感しています。

 この能力は単身で戦うよりも、誰かのサポートに徹した方が輝くはずなんです。

いや、そもそもバトルロワイアル形式なら、この能力はハズレもいいところです。ダメージすら与えられないんじゃあ、勝ち目がないじゃないですか。この能力を渡してきたあのキツネの底意地の悪さには本当に、腹が立ちます。……せめて、前衛でイノシシ男の気を引いてくれる人が一人でもいれば、私はかなり楽に立ち回れるんですけどね。やっぱり、この能力が私は嫌いだ。優斗さんは『平和で好きだ』みたいなことを言ってくれましたたけど、私はどうにもこの能力のことが好きになれない。

「……ッ、オリジナルは描けないでしたっけ?」

 そこで、私は初めて漫画を書いたときのことを思い出した。あれは中学生の頃。私の小学校の頃からの親友が、ある日いきなり『私ね、漫画家になりたいんだ』と夢を教えてくれた。羨ましかった。キラキラと夢を語る彼女の姿が羨ましかった。だが、彼女が描いた漫画読んで私は『絶対に漫画家になれるよ!』と、本心から言った。だって、面白かったから。絵は得意じゃないらしく、私も上手いとは言わなかった。言えなかった。だけど、ちゃんと面白かった。そんな記憶がある。そして彼女は、私に『えー、そうかな。あ、そうだ。美結ちゃんも描いてみない? 昔から絵が上手かったよね! 一緒に漫画家になろうよ!』と言ってくれた。

 夢がなかった私は、彼女の一言に火をつけられた。本当に嬉しかったから。私の窮屈で自由な人生に道が開けたような気がしたから。それから私は、本気で漫画を描いてみることにした。お年玉を貯めたお金で、ちょっと本格的な画材を買った。有名な漫画家さんが使っていると言っていたものを調べて買った。絵を描くこと自体、久しぶりだったので、気合を入れて描いた。

 いきなりゼロから物語を考えるのも、一からキャラを生み出すのも難しかったので、当時好きだった有名漫画のキャラを使った。二次創作というやつだ。当時好きだったが結ばれなかったカップリングが幸せになれるような漫画を描いた。

 妄想だった。妄想だった。原作好きからは『作者には意図があったんだよ』『二人は結ばれなかったんだから、いい加減諦めろよ』と言われるかもしれない。でも、本気で描いた。初めて好きなものを描いた。ハッピーエンドを描き殴った。私も漫画家になれるかもしれない。彼女と、親友と二人で有名漫画家になれるかもしれない。そんな夢物語を、当時の私は本気で信じていた。そして、ついに完成した初めての漫画を、私の漫画を、今度は私から親友に見せた。

 褒められるとしか思っていなかった。褒められることしか頭になかった。だって、自分で言うのはなんだが、かなり上手だったから。絵を描くのは小学生の頃以来だったけど、かなり上手な方だと自分でも思った。二人で漫画家になれるかもしれない、そう思っていた。でも、彼女の口から出た答えは、私にとって受け入れることができない内容だった。彼女は私に『美結ちゃんってやっぱり絵が上手いね。でも、美結ちゃんって二次創作は上手いけど、オリジナルは描けないタイプだよね』と残酷なことを言ってきた。呪いだ。その言葉は、呪いだった。今も、棘のように心に突き刺さって抜けることがない。

 そして、彼女の言葉で目が覚めた。私は本気で『漫画家になりたかった』わけじゃない。キラキラとしている彼女が羨ましくて、表面だけを真似たのだと。この能力を見ていると、自分のすべてが、積み上げてきたものが、『パチモン』だと言われているみたいで怒りが込み上げてくる。私はこの能力が嫌いだ。夢のない私自身が、とても嫌いだった。だから、夢が欲しかった。嫌いな私を肯定するために、夢が欲しかった。命を懸けてでも。だけど、もう――

「見つけたぞ! 女狐!」

「はぁ⁉ 言うに事を欠いて、私のことを女狐って呼びましたか⁉ 私は恋人のいる男へ言い寄るような不埒な女じゃないです! 痴話喧嘩も嫌いですしね!」

「わ、わけわかんねぇことばかり抜かしてんじゃねぇぞっ‼」

「——ッ」

 体力を回復するために時間を稼ごうと口を開いたが、そんな私の小賢しい目論見を知ってか知らずか、イノシシ男は私の言葉を無視して突っ込んできた。追い詰めているのは彼の方なのに、切羽詰まったかのような表情を浮かべている。

 血走っている彼の目には、僅かだが怯えの色が差していた。

まるで大好きな彼氏にフラれることを、邪険な態度から察してしまい、不安になって私に電話で相談してきたあの子のような目だった。だから私は、振り上げられた拳を回避するために、転がるように横に跳びながら、イノシシ男に語りかけた。

「何をそんなに怖がっているんですか?」

「う、うるせぇ! てめぇがさっさとくたばらねぇからだろ!」

「勝手に襲いかかってきて、その言い分ですか⁉ 他責思考にもほどがありますよっ! 頭までイノシシになってしまったんですか?」

「ッ! 黙って、くたばれぇ!」

 猛スピードで建物内を駆けるイノシシ男の攻撃を、私は転がるように回避し続ける。振り下ろされた拳が、放たれた蹴りが、私の頬を掠めた。

 ジリ貧ですね。能力が通じない以上、次に重要視するべきは筋力、スタミナ、速度などのフィジカルだ。勝負の行方を左右するのは、私たち二人の身体能力に依存している。 

 ケモミミモードに変身すると身体能力が格段に向上するが、それは彼も同じです。

何かの格闘技を嗜んでいるらしきイノシシ男と、高校時代に帰宅部だった私では、そもそも戦いにすらなっていない。今、何とか紙一重で攻撃を躱せているのは、彼が冷静さを欠いているからだ。その証拠に——

「てめぇはもう話すんじゃねぇ!」 

 低く唸るようにそう言うと、彼は拳をぐっと握りしめて、全身の筋肉を隆起させた。その身体からは、獣のような威圧感が放たれる。

「ッ!」

 振り下ろされたその拳に秘められた破壊力は想像に難くない。もし、私がまともに受ければ、勝負の命運はすぐに決まってしまうだろう。けれど、イノシシ男が放った怒涛の一撃は、私に命中することなく空を切った。彼の攻撃はすべてが大振りなので、私でも避けられないことはない。見てからでも、十分に回避が間に合う。


 だが——


「ふんっ!」

 彼は拳ではなく、その強靭な右腕を振り下ろしてきた。ラリアットだ。途中で拳が当たらないと悟った彼は、右腕を回転させ、私の首元を狙って鋭く振り下ろしてきた。

「——ッ、いったぁ⁉」

 イノシシ男の腕が一気に振り下ろされると、その威力と速さに、私は思わず悲鳴を上げた。豪快な一撃。再度防御の構えをとる間もなく、イノシシ男の太い腕が私の脇腹に直撃した。だが、それだけでは終わらない。

 巨大な腕が私の身体を、その芯を捉えた瞬間——彼は全身の力を一気に込め、私ごと建物を粉砕するかのように打ち放った。私の身体は浮き上がり、回転しながら壁に叩きつけられた。強烈な音が鳴り響く。キングスクエア全体を微かに震わすほどの衝撃が走った。イノシシ男の体重を乗せたその一撃は、まるで鋼鉄のように硬く、鋭かった。

「……っ、こ、これでも、私は箱入り娘なんですけどね……」

 その凄まじい威力をまともに受けてしまった私は、数十メートル先に吹き飛ばされ、壁に激突した。全身の骨が軋むような痛みが走る。痛みと痺れ。私は背後の壁に全体重を預けていなければ、もう立てないほどのダメージを受けてしまった。

「もう、終いだろ! てめぇはもう限界のはずだ!」

「決めつけないでください……私は、まだやれますよ?」

 そうは言ったものの、私の身体はすでに限界を迎えていた。口の中に血の味が広がり、呼吸が乱れ、まともに立っていることすらできていない。今はもう、悪態を吐くことしかできません。頭の中では、包丁で刺されているかのような鋭い痛みが響いています。

「……ぐっ……」

そんな私に向かって、イノシシ男は一歩、二歩、と踏み込んでくる。その動きはまるで獲物を狙う猛獣のように大胆で、傲慢で、油断に満ちていた。

 腹が立ちます。すごく、腹が立ちます。勝利を確信したかのような、あの表情を見るだけで、はらわたが煮えくり返ってしまいそうです。ですが、命運はすでに決まってしまった。あの一撃をまともに食らった時点で……私の勝機は消えてしまった。

「いや、いくらやっても勝てねぇよ。……オレには、オレにはなぁ。オマエと違って、神がついてくれてるんだからな!」

「……か、神? 神使ではなくて、ですか?」

 私が疑問を口にすると、イノシシ男はニヤリと笑った。まるで、無知な私を嘲笑するかのように、心底同情するかのように、彼は笑っていた。勝者の余裕をこれでもかと見せつけるような笑みのまま、彼は再び口を開いた。

「そうだ。見ろ……神が、神が、オ、オレを見てくれてんだ。見てくれてんだよ! だ、だから……だけど、最後に慈悲を与えてやる。オマエが持ってる『神器』を出せ、そ、それなら……そうすれば、神も赦してくれるはずだ。オマエの命だけは、見逃してくれるはずだ!」

「……え、『神器』って何ですか?」

「な、何って……参加資格だよ! この戦いの! オ、オレもオマエも『能力(ちから)』を使うために身に付けてねぇと……いや、こんな当たり前のことを、知らねぇわけがねぇな。てめぇ、またオレをバカにしやがったのか⁉ 許さねぇ! 許さねぇぞ、ゴラッ!」

「……いや、本当に知らないだけなんですけどね」

 いきなり『神器』と言われても、私の頭に浮かぶのはテレビと洗濯機と冷蔵庫ぐらいなんですけど。私にはそれぐらいの知識しかありません。ですが、まあ。イノシシ男の話に、まったく心当たりがないわけではないこともないです。つい惚けてしまいましたが、白状すると——私にも、心当たりはあります。

 あれは、神使(キツネ)から能力を授かった直後のこと。つまり、現実世界の私が意識を失って、あの真っ白で何もない世界に連れていかれる前の話です。私のスマホにつけていた鈴飾りが、淡く優しい光を放っていた気がしたんですよね。あの時は、ただの見間違えだと思い込んでいましたが……ちゃんと意味があったんですね。納得です。その鈴は、今ではスマホではなく、巫女服の袴に括り付けています。あれは、とても大切なものなんです。

 できることなら、イノシシ男には——いえ、誰にも触れて欲しくもありません。

 私にとっては、それくらい大切なものですから。

「……」

 この鈴は、私が中学生の頃に母からプレゼントされたものでした。

もともとは、能楽や神楽で用いられるキツネの仮面についていた、ただの鈴飾りです。赤や青色の模様が入った、やけにカッコいいキツネの仮面についていただけの、鈴飾りだったんです。

 小さい頃の私は、風鈴や鈴の音色が大好きで、家中の鈴を自分の部屋に集めたせいで、父に怒られたことがあります。そのことを覚えていた母が、巫女舞で使われる仮面に付いていた鈴を、こっそり私にくれたんです。そんな慎ましやかな家族の思い出が詰まった、大事な品なんです。他人が聞いたら『その程度か』と思うかもしれませんが……私は、私の大切な家族の思い出を、少しでも傷つける人間を許すことができません。

 この鈴が、戦いの参加資格って。そんなに大事な役割を果たしていたんですね。驚きです。っていうか、初耳なことが多すぎるんですけど。あのキツネ、そういう大切な情報はちゃんと伝えてくださいよ。神様って、報連相の概念すら知らないんですか!

 いや、あの性格が悪い捻くれ者キツネのことです。私が問いただしたとしても、きっと『だって、聞かれなかっただろ?』と言うんでしょうね。……なんでしょう。そう答えるキツネの姿を想像しただけで、また腹が立ってきました。イライラが止まってくれません。私はもっと冷静にならなければいけないのに。そうじゃなければ、このままイノシシ男にやられて終わるだけですから。

「……っ……」

 なので私は、深く息を吸い込み、静かにその場に立ち尽くした。周囲の音が次第に遠くなるような気がしたが、彼の足音だけは、やけに近く感じる。私の頭の中では、いくつかの思考がぐるぐると回っていた。ただ活路を見出すために。

 今さら不満や愚痴をこぼしていても、しかたがない。

 いつまでもどうにもならないことを嘆いていても、しかたがない。

 私は、持っている手札で、いつも通り勝負するしかないんです。

 何度も頭の中で、自分を鼓舞する言葉を繰り返す。そのたびに、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。だって、もうイノシシ男が迫ってきている。獣のような威圧感を放ちながら、ゆっくりと、だが確実に、彼の足音が、私を仕留めるために迫ってきている。もう、目の前の勝負に集中するしかない。ただ、頑張るしかない。


 でも、やっぱり——私はオリジナルは描けないみたいです。


「何も言い残すことはねぇよな⁉ てめぇはここで敗退だ! だから、後悔しながら、ここで死んでくれ!」

「来なさい、この! にっこりスケベ‼」

 心の奥で弱音を吐いた。だから、私は覚悟を決めて敵を睨みつける。

 不利なことも、ピンチなことも、私が諦める理由にはなりません。

 負けるまで、最後まで、足掻いてみせる。そんな覚悟を胸に秘め、拳を振り上げたイノシシ男の姿を、私は毅然とした態度で睨みつける。最後の力を振り絞って、決して折れずに戦い抜いてみせるつもりだった。


 ……つもりでしたが、予想外の出来事が起こりました。


 突然、視界の端に影が走った。それは、私のピンチに、どこからともなく颯爽と駆けつけてきた、優斗さんの影だった。彼は助走をつけて、迷いなく一直線に突っ込んできた。


 そして、そのまま——イノシシ男の顔面に見事な飛び蹴りをかましたのです。




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