第10話 青春の分岐点

大学の学生食堂は、昼時特有の喧騒に包まれていた。  

食器がぶつかる音、あちこちで交わされる話し声、そして揚げ物の匂い。  

俺、伊吹のあは、いつもの友人グループの輪の中にいた。


「マジで? 西園寺ゼミ、また一人飛んだらしいぞ」

「うわー、あの研究室は地獄だな。俺、あそこ選ばなくて正解だったわ」


向かいに座った友人の健太が、カツカレーを頬張りながら大げさに嘆いてみせる。

隣の亮も「卒論で詰められるとか勘弁してほしいよな」と苦笑している。  

俺もまた、日替わり定食の唐揚げを箸でつつきながら、適当に相槌を打った。


「そりゃ災難だな。健太、お前のところは大丈夫なのか?」

「うちは放置主義だから楽なもんよ。その分、就活に集中できるしな」


冗談を言い合って笑う。  

どこにでもいる、ごく普通の大学生だ。  

ただ、最近少しだけ、この空間に居心地の悪さを感じることがある。


それは、周囲の服装の変化のせいかもしれない。  

食堂を見渡すと、いつものラフな私服に混じって、着慣れないリクルートスーツに身を包んだ学生の姿が目立つようになってきた。


「そういや、お前らインターンどうすんの? もう本エントリーも始まるだろ」


亮がふと、話題を切り替えた。  

一瞬、場の空気が少しだけ真面目なものに変わる。


「俺は一応、商社中心に出すつもり。親がうるさくてさ」

「俺は公務員かなぁ。試験勉強ダルいけど、やっぱ安定っしょ。お前は?」

「俺? 俺はまあ、適当にメーカーあたりを数社……」


みんな、それぞれの未来を見据えている。  

不安はあるだろうが、それでも前へ進もうとしている熱量が伝わってくる。  

その熱が、俺には少し眩しく、そして痛かった。


「そういや、のあはどうすんの?」


不意に話を振られ、俺は箸を止めた。  

健太がニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「まだあんの? 芸能界への未練。お前、一時期すげー熱心にオーディションとか受けてたじゃん」


チクリと、胸の奥が痛んだ。  

確かに、俺は夢を見ていた。

自分で何かを表現したい、誰かに届けたいと本気で思っていた。  

だが、現実は甘くなかった。  

数え切れないほどの落選通知と、圧倒的な才能の差を見せつけられ、俺の心は摩耗してしまった。


「……いや。もう辞めたよ、そういうのは」


俺は努めて明るく、なんでもないことのように答えた。


「俺は、実家の店を継ぐことにしたから」


「え、伊吹雑貨店?」

「そう。親父も最近腰が痛いって言ってるし、長男だしな。就活はしないで、卒業したらそのまま店に入るよ」


それは、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。  

夢は終わった。これからは現実を生きるのだ、と。  

俺の答えを聞いて、友人たちは一様に「おおー」と声を上げた。


「マジか! いいなぁ、お前」

「就活のストレスなしかよ。完全なる勝ち組じゃん」

「自営業かぁ、気楽でいいよな。満員電車とも無縁だし」


羨望の声が上がる。  

確かに、彼らから見ればそう映るだろう。  

厳しい選考競争に晒されることもなく、卒業後の椅子が確約されている。  

だが、俺の中にあるのは「勝ち組」なんて優越感ではない。  

あるのは、閉塞感だ。


このまま大学を卒業し、実家のレジに立ち、変わり映えのしない商品を並べ、年を取っていく。  

そのレールが確定してしまったことへの、静かな絶望。  

妥協して選んだ道だと分かっているからこそ、必死に未来を切り開こうとしている友人たちの姿が、余計に輝いて見えるのだ。


「ま、何かあったら店に来いよ。カップ麺くらいサービスしてやるから」

「お、言ったな? 絶対行くわ」


俺は笑って誤魔化した。  

心の奥に刺さった小さな棘には、気づかないふりをして。



講義を終え、夕暮れの道を一人で歩く。  

実家に帰り着いた頃には、すっかり日が落ちていた。


「ただいまー……」


誰もいない暗い部屋に、俺の声だけが虚しく響く。  

コンビニ袋から夕食の弁当を取り出し、レンジで温める。  

チン、という音が鳴るまでの間、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。


「実家を継ぐ、か」


口に出してみると、改めてその重みがのしかかってくる。  

親孝行な息子。堅実な選択。  

誰も俺を責めないし、むしろ褒められる生き方だ。  

 

でも、俺の「声」は?  

誰かに何かを伝えたいという、あの熱情は、このまま店の在庫と一緒に埃を被っていくのだろうか。


「……はぁ」


大きく息を吐き出し、俺はパソコンの電源を入れた。  

モニターの光が顔を照らす。  

デスクトップにある、黒いアイコン。  

唯一、俺が「何者か」になれる場所。


今日の配信で何を話すか、特に決めてはいなかった。  

でも、今日の昼休みの会話が、ずっと頭から離れない。


「……今日は、ちょっとだけ昔の話でもするか」


俺は椅子に深く座り直した。  

誰も聞いていないかもしれない。  

それでも、言葉にせずにはいられなかった。  

かつて抱いた夢と、それを諦めて大人になろうとしている今の自分について。


これは、ただの愚痴だ。  

あるいは、自分自身へのレクイエムなのかもしれない。  

俺はマイクを引き寄せ、静かに準備を始めた。

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