第9話 ヒロインが乗り込んできましたわ
窓の外では、夜の帳が白み始め、深い紺碧から薄紫へと空が溶け出している。配信を強制終了してから一睡もできなかった。
もしイヴェインに身バレしたら、よくも騙してくれたなと断罪コースまっしぐらに決まっている。
せっかくスパチャを貯めてもすべて没収されては、今までの苦労が水の泡だ。
(今後の活動はどうしたらいいかしら……)
睡眠不足を魔法で強引に隠し、重い頭を抱えていた私の耳に、廊下からバタバタと慌ただしい足音が響いてきた。
「あの、申し訳ありません! セレノアお嬢様は朝はゆっくり起床なさるお方で……っ、万が一睡眠の邪魔をしたら私のクビが飛びます!」
焦った様子で声を上げているのは、ティアだ。
「それじゃ、ヒロインのチートスキル『場面転換』を使わせてもらうわね」
同年代の女性の声だが、耳にした覚えはない。
(……っていうか今、聞き捨てならない『メタ発言』が聞こえたような……)
嫌な予感がして、部屋の入り口の方を振り返った時だった。
扉も開いていないのに、突如として一人の少女が室内に現れた。
ピンク色の髪を上品に結い上げ、聖女のような微笑みを浮かべた彼女は、十代の少女とは思えない、達観した大人の余裕を漂わせている。
「エ、エマ……⁉︎」
セレノアの顔から血の気が引いていった。
この乙女ゲームのヒロインであり、イヴェインをはじめとする攻略キャラの好感度を二周目以降もキープすれば、逆ハーレムというエターナルエンドを迎えることもできる、あのヒロインが、悪役令嬢の家に乗り込んできた。
(私はイヴェインルートしかプレイしたことがないけど、この人、さっき『ヒロインのチートスキル』って言ったわよねぇ⁉︎)
セレノアの震える手が、机に置いてあったクッキー缶に当たり、缶ごと床に落としてしまう。
「突然お邪魔してごめんなさい、セレノア。そんなに驚かせてしまった?」
エマは悠然と部屋のソファに腰掛けた。
その瞳は、獲物を狙う猛獣のそれではなく、手のかかる娘を見守るような、深い包容力に満ちている。
「ちょっと、エマ嬢……ここをどこだと……」
「もう、そんなに肩を張らなくていいのよ。自己紹介しましょう? 私は前世で看護師だったの。五十五歳で病死。二十歳の娘と十八の息子を持つ日本人だったわ。あなたも転生者、なんでしょ?」
エマはにっこりと笑った。
「ナンノコトデショウカ……?」
セレノアはガチガチに身を固くして、彼女から距離を取る。
(エマは何をしにきたの? やっぱり悪役令嬢は断罪ルートしかないの?)
逃げるには、まだ資金が足りないのに。
「本当なら、舞踏会でセレノアは婚約破棄され、自棄になって魔法で私を攻撃しようとするはずだった。でもあなたはしなかった。すれば、断罪されることを知っていたからでしょ?」
エマの指摘に、セレノアは唇を引き結ぶ。
「そして、あなたがいなくなった途端に彗星のごとく現れたシエルノワール。『Vtuber』なんて概念、この世界にはなかった。つまりセレノア様がシエルノワールだってすぐに気づいたわ」
ご名答である、ぐうの音も出ない。動悸を通り越して、一瞬心臓が止まりかけた。
「ね。あなたも転生者なんでしょ?」
エマは目を細めて、もう一度聞いてきた。
そこまで言われてしまったら、誤魔化しようがない。セレノアはため息をつきながら頷いた。
「やっぱりねぇ」
エマがうんうんと答えた時だった。廊下から「泥棒猫はどこへ行った!」と憤慨する父の声が聞こえてきて、部屋の扉が開いた。
「あら、ディアルカ公爵閣下。そんなに怒鳴ると血管に響きますわ。うちの年上の夫も、退職前はそうやって血圧が上がって倒れたの。娘が心配して、塩分控えめの味噌汁を作ってくれていたのが懐かしいですわ。ああ、公爵夫人も、娘の不器用な優しさは、案外親にこそ伝わりにくいものですよね」
エマの言葉に、一同は毒気を抜かれたように立ち尽くしていた。
それから十五分後。そこには、エマを良き相談相手として認め、涙ながらに王子の愚痴をこぼし始める両親の姿があった。ティアまでもが「母の背中を感じます……」と感服している。
「セレノアのいい友人となってほしい」
そう言って、両親はティアを連れて部屋を出て行ってしまった。
いったい何をしにきたのだ。
「優しいご両親ね。さて、それじゃあ、ここからが本題よ」
エマが急に真剣な顔になったので、セレノアはビクッと肩を揺らす。
「……実は、私も黒猫のアバター『リリン』として健康セミナーVtuberを始めたのだけれど、これが全く鳴かず飛ばずなの」
コミケではけっこう人気のある同人作家だったんだけどねぇ、と彼女は、少し恥ずかしそうに頬を染めつつ、力強く拳を握った。
「そこで! 私と、コラボ配信をしてほしいの! あなたの圧倒的なスター性と私の人生経験を合わせれば、この世界のVtuber界に革命を起こせると思うのよ!」
「はい? コラボ……私と、エマが?」
突拍子もない提案に、思わず素が出る。
「ええ。お願い! 私、イヴェイン殿下に振られちゃったから、玉の輿コースじゃなくなったのよね。生きていくためにはお金が必要なの」
エマは頬に手を当て、ため息をついた。
「あの人が……エマを……ヒロインを振った?」
「そうよ。今はノワたんのことで頭がいっぱいみたい」
「な、なんてこと……私がシナリオを改変したせいで、ヒロインが幸せになれないなんて……」
ガクッと項垂れたセレノアの肩に、温かく柔らかな手が乗せられた。
「大丈夫よ。私から見たら殿下は息子みたいなものだったから、結婚って言われてもちょっと困ってたのよね」
エマはそう言って笑った。
それはそれは、包容力満点の聖母のような笑みで。
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