月夜の訪問者と、温かな一皿


 すっかり日が落ちると、ルナリア湖は昼間とは違う表情を見せる。

 深い紺色の水面に、満月が鏡のように映り込み、時折跳ねる魚の波紋が銀色に広がっていく。


 私は『星屑岩塩』で最後の一匹まで堪能し、お腹も心も満たされていた。

 カモミール号のデッキに魔法のランタンを吊るし、パチパチとはぜる魔導暖炉の火を眺めながら、食後のハーブティーを啜る。これこそが、私が求めていた至福の時間だ。


 ――カサッ。


 静寂を破ったのは、桟橋の方から聞こえた小さな物音だった。

 風のいたずらではない。何かが、迷いながらこの船に近づいてきている。


「……誰?」


 私がランタンを掲げて手すりから身を乗り出すと、そこにはボロボロのフードを被った小さな影が立っていた。

 光に驚いたのか、影はびくっと肩を揺らし、後ずさりする。


「ご、ごめんなさい。変な匂いがしたから、つい……」


 フードの下から覗いたのは、大きな瞳と、少し尖った耳。

 このあたりに住むエルフの子供だろうか。服は泥で汚れ、頬は少し痩せこけている。そして、その視線は私の手元にある、まだワカサギの香ばしい匂いが残っているお皿に釘付けだった。


「変な匂いじゃなくて、美味しい匂いでしょ?」


 私が苦笑して言うと、子供のお腹が「ぐぅ〜……」と盛大に鳴った。

 子供は顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。


 かつての私なら、宮廷の警備兵を呼んで追い払っていたかもしれない。

 けれど、今の私は自由な旅人だ。それに、美味しいものを独り占めするよりも、誰かと分かち合った方が、もっと美味しくなることを今の私は知っている。


「まだ少しだけ、ワカサギが残ってるの。あ、そうだ。究極の塩で食べるフリットもいいけど、夜は冷えるから……温かいスープに仕立て直してあげようか?」


 子供の目がぱあっと輝いた。

 私は彼(あるいは彼女)をデッキの椅子に招き入れると、再びキッチンの火をつけた。


 残ったワカサギのフリットと、市場で買っておいた香味野菜。

 それを小さな鍋に入れ、魔法でサッと煮出す。仕上げに『星屑岩塩』をひとつまみ。

 あっという間に、ワカサギの旨みが凝縮された、黄金色のチャウダーが出来上がった。


「はい、召し上がれ」


 差し出したボウルを、子供は両手で包み込むようにして受け取った。

 一口。熱々のスープを口に含んだ瞬間、子供の目からポロリと涙がこぼれ落ちる。


「……あったかい。こんなに美味しいもの、食べたことない……」


 夢中でスープを啜る子供を見ながら、私は確信した。

 宮廷魔導師を辞めて、本当に良かった。

 私の魔法は、誰かを倒すためじゃなく、目の前のこの子を笑顔にするために使いたい。


「ゆっくり食べていいわよ。夜はまだ、始まったばかりなんだから」


 湖畔を吹き抜ける夜風が、少しだけ温かく感じられた。

 『カモミール号』の航海日誌、その最初のページに書き留める言葉は、もう決まっている。


――**「今日のご飯は、誰かと食べたらもっと美味しかった」**。

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