前髪

「有沢ってなんで前髪上げるようになったの」

 布団にうつ伏せで寝転がったまま、朝から鏡の前で頭にヘアピンを差す有沢に尋ねる。

 高校生だった頃や再会したばかりの頃の有沢は前髪を下ろして流していたが、前の会社を辞めた頃から基本的に上げている。

「そういうことを聞いてくるのは珍しい」

 ピンの位置を調整しながら私に目を向けてくる。

「そういうことって?」

「髪とか見た目とか、気にしてないと思って」

「有沢のことなら気になる」

「はいはい」

 鏡を仕舞いながら有沢は適当に返事をする。

 嘘ではないのだが。

「前髪は頻繁に切りに行く金も気力もないし、伸びてくると前が見えにくいから上げてるだけ。実用性と怠惰なだけ」

 言いながら私の腰を枕にして有沢も寝転がる。

「前髪くらいなら自分で切ってもいいんだけど、一回盛大に失敗したし」

「こんなになった」と言いながらその時短くしすぎたであろう長さを手で再現してみせた。

 腕に力を入れて身体を起こす。腰に乗せていた有沢の頭はごろんと布団に振り落とされた。

 その頭のすぐ横に座り直し、有沢の顔を見下ろす。

「私が切ってあげようか」

 目があった有沢は一瞬固まったように見えた。

「え」

「私が切ってあげようか」

 もう一度言うと有沢は大きな瞳を更に大きく見開くが、すぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。

「怖いからやだ」

「大丈夫だって。自分の切ってるし」

 指先で自分の前髪を揺らして見せる。

「えー……」

 目をぎゅっと瞑ってしばらく考えた有沢は、困り顔のまま私を見て。

「絶対変にしないでよ」と起き上がってさっきつけたばかりのヘアピンを外し始めた。

「櫛とか借りるよ」

 テレビ台代わりになっているカラーボックスの一段、ドライヤーなどが乱雑に突っ込まれたカゴの中から櫛とヘアクリップを取り出し、近くのペン立てからハサミも手に取る。

「それ普通のハサミだろ。ちゃんとしたやつないの」

「ないけど大丈夫。いつも同じようなので切ってるから」

「えー……」

 また先ほどの困り顔になってしまった有沢の手を取って風呂場に引っ張って連れていき、ユニットバスの淵に座らせる。

「さ、始めるよ」

 文句を言われる前に櫛で前髪を下ろし、サイドの髪をそれぞれヘアクリップで止める。

 下ろした前髪は有沢の目より少し下まで伸びていた。

「まぁそんなには切らないから、もし何かあったらプロの店に駆け込んで」

「こんなギリギリで何かある可能性を出さないでくれ」

 じとっとした目付きを向けられるので目は閉じるように言う。

 櫛で前髪を三つの束にまとめて、それぞれ中指と薬指の間で挟んで引き上げながら、毛先を落としていく。

 ショキショキと静かなバスルームに毛にハサミを入れる音だけが響く。

「なんで前髪切るって言い出したの」

 目を閉じたまま、有沢が訪ねてくる。

「……なんか有沢にこういうことしたくなった」

 顔に落ちた前髪を払いながら言うと、有沢の口角が上がって小さく「ふーん」と漏らした。

 

 前髪を切るという作業はそんなに時間のかかるものでもなく、もう一度櫛で前髪を下ろして少し歪んでいる箇所をハサミで整えてやると完了してしまった。

「こんなもんかな」というと有沢は「終わった?」と立ちあがろうとするので肩を抑えて座り直させる。

「待って、もっかい目閉じて」

 顔に疑問を浮かべながらも、有沢は素直に応じて目を閉じた。

 私は今切ったばかりの前髪を手でかきあげ、露出した額に唇を落とす。

 ゆっくりと押し当てた箇所から離れると有沢の目が大きく見開かれて私を見る。

「……なんだよう」

「仕上げ」

「ばかじゃないの」

 自分の額を手で抑える有沢を笑いながらバスルームの鏡の前に立たせる。

 最後にもう一度前髪に櫛を通して整えて「いかがですか」と聞く。

「普通にうまいじゃん」

 顎を上げたり引いたりして有沢が自分の様子を色んな角度から確認する。

「満足してもらえたならよかった」

 有沢は機嫌良くバスルームから出て、部屋に戻っていった。

 落ちた髪を片付けてから、追いかけると有沢はまた鏡の前に座って頭にピンを留めている。

「せっかく切ったのに結局上げるの?」

「結んだりまとめたりしてると引っ張られてすぐ伸びるっていうから」

 いつもよりにこやかな有沢がこちらをまっすぐ向く。


「そしたら広井がまた切ってくれるかなって」

 

 

 

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