最も冷たい優しさのカタチ

桃馬 穂

Prologue

 十一月七日の朝は、いつもより少しだけ静かだった。窓の向こうで鳴く鳥の声も、遠い道路の走行音も、柔らかな膜を一枚挟んだみたいに丸く聞こえる。湊は布団の中で目を開け、天井の白さを確かめるように眺めた。こういう朝が続くなら、人生は折れずに済む――そんな根拠のない確信が、体の奥から湧いてくる。

 キッチンから、トーストの焦げる匂いが漂ってきた。バターが熱でほどけ、甘い香ばしさが空気に溶けていく。匂いだけで、時間がまっすぐ流れていることが分かる。湊は起き上がり、まだ冷たい床に足を下ろした。

 「おはよう、湊」

 振り返った陽(ひかり)は、髪を無造作に束ねたまま、フライパンの前で鼻歌を口ずさんでいた。二十歳の誕生日の朝なのに、彼女はいつも通りの顔をしている。特別な日を特別にしすぎない、その加減が湊は好きだった。窓辺の光が彼女の輪郭を薄く縁取り、湯気の向こうで笑顔だけが少し眩しい。

 陽が笑うと、左の頬に小さなえくぼが浮かぶ。たったそれだけの凹みが、湊にとっては幸福の基準だった。大きな約束や将来の計画よりも、彼女が今ここで笑っているという事実のほうが、ずっと確かなものに思える。

 「今日、楽しみだね」

 「うん。でも、無理しないでね。湊、ちゃんと寝た?」

 「寝たよ。……たぶん」

 「たぶん、って何。ちゃんと、ここ座って」

 陽が椅子を軽く引いて、湊を座らせる。トーストが皿に置かれ、湊はひと口かじった。パリ、と小さな音。中の熱。小麦の甘みと、バターのコク。何でもない味が、胸の奥をほどいていく。コーヒーの苦みが遅れて追いついてきて、朝の輪郭がはっきりする。

 身支度をしようとして、湊は古いチェストの引き出しを開けた。奥に、布に包まれた小さな塊がある。指先で確かめるまでもなく、それが何か分かってしまう。

 懐中時計。

 真鍮のケースは鈍く光り、蓋の唐草模様は、何度なぞっても同じ場所で指を止めさせる。湊は蓋を開いた。白い文字盤。止まった針。竜頭をつまんで、いつも通り一度だけ巻いてみる。カチ、と乾いた抵抗が返り、次の瞬間に訪れるはずの「チッチッ」という鼓動は、やはり来ない。沈黙だけが、朝の空気に取り残される。

 それでも捨てられないのは、祖父の声が残っているからだ。病室の白い灯りの下で、消毒液の匂いが鼻の奥に刺さり、カーテン越しの廊下では看護師の靴音が一定の間隔で往復していた。機械の電子音が、心臓の代わりに時間を刻むみたいに、規則正しく鳴っている。湊はその音を聞きながら、祖父の手の甲に浮いた血管の青さを見ていた。生きているものは温かい、という当たり前が、あの部屋では揺らいでいた。

 祖父は普段の祖父ではなかった。会話の途中で目線が宙に滑り、次の瞬間には湊の顔を見ているのに、見ていないような焦点になる。医者は「せん妄」と言った。熱と薬と、痛みと、睡眠不足が作る幻。理屈は分かる。分かっているのに、祖父の言葉だけが妙に現実味を帯びて、湊の胸に残った。

 「……時間は、線じゃない」

 祖父は唐突に言った。声は掠れていて、言葉の端が欠ける。湊は笑って受け流そうとしたが、祖父の指がシーツの上で動き、何かを探すみたいに空を掻くのを見て、笑いが止まった。祖父は湊の手首を掴んだ。骨ばった指の力が、思ったより強い。強さがあるのに、温度が薄い。

 「戻るな。戻る、と思うな……編むんだ。ほどけたところを、編み直す。そうしないと……同じところが、また切れる」

 意味が分からない。分からないのに、祖父の喉が鳴って、息が一段浅くなるのを見た瞬間、湊はその言葉が冗談ではないと感じた。祖父は枕元の引き出しを指さした。看護師が持ってきたはずの小物入れ。その中から、祖父は布に包まれた小さな塊を引きずり出した。

 懐中時計だった。真鍮の鈍い光が、病室の白さの中で異物みたいに浮く。祖父はそれを湊の掌に押し込んだ。重さが、体温を奪う。蓋の唐草模様をなぞる祖父の指先が、途中で止まる。そこに、傷のような刻みがある。数字に見えるような、見えないような細い線。

 「数えるな。数えると、増える」

 祖父は歯の隙間から言った。湊は反射的に「何が」と尋ねたが、祖父は答えない。代わりに、竜頭を指で弾く仕草をした。回すな、という命令に見えた。命令なのに、懇願にも見えた。

 祖父は湊の掌の上で時計を押さえ、蓋の縁をほんの少しだけ開いてみせた。針は止まっている。止まっているのに、耳を近づけると、かすかな沈黙がある。沈黙が鳴っている、としか言いようがない。祖父はその沈黙を嫌うように眉を寄せ、竜頭に触れかけた指を引っ込めた。

 「回すな。底に触るな。……触ったら、戻れなくなる」

 声はほとんど息だった。湊は頷いたが、頷いた理由を説明できなかった。説明できないまま、祖父の指の冷たさだけが手首に残った。

 「怖い間は、まだ……人間だ。怖さが消えたら……扉が……」

 祖父の言葉はそこで切れた。切れたというより、途中で削れた。祖父は苦しそうに目を閉じ、次に開けたとき、まるで別の映像を見ているような目つきになっていた。湊はその目が、自分ではなく、どこか先の一点を見ている気がした。

 医者が「もう休ませましょう」と言い、湊は椅子から立った。背中を向けた瞬間、祖父が小さく笑った気配がした。振り返ると、祖父は目を閉じている。ただ、唇の端だけが僅かに上がっていた。その笑みが、励ましなのか、諦めなのか、湊には判別できなかった。

 病室を出る前、湊はもう一度だけ祖父の手を握った。握り返しはなく、それでも熱の名残が微かにあった。廊下の蛍光灯が瞬き、時間だけが薄く伸びていくように見えた。

 湊は「何から、誰を」と問い返した。祖父はうっすら笑ったように見えた。笑みの形だけがあり、感情がそこに乗っていない。その無音が怖い。怖い、と感じたことを湊は覚えている。覚えているからこそ、祖父の言葉が単なる幻ではなかったと後になって思う。

 「これが……お前を救う時が来る……来るんだ……」

 救うという言葉が、助けるではなく、削るに近い響きを持って胸に残った。何から、誰を、どうやって。説明は一つもない。ただ、まるで未来の一点を指さすように、祖父はそれだけを言って逝った。

 湊は時計を閉じ、ジーンズのポケットへ滑り込ませる。冷たい金属が布越しに太腿へ触れた。朝の匂いと陽の笑い声の中で、その冷たさだけが異物みたいに浮いている。幸福の中に、針の止まった影がひとつ差し込まれる。いまの自分には要らないはずの予感だけが、薄い棘のように残る。

 「またそれ、持ってくの?」

 陽が不思議そうに尋ねた。

 「うん。なんとなく」

 「なんとなく、って湊らしい。……でも、今日は私の誕生日なんだから、ちゃんと笑ってね」

 陽は笑い、えくぼが揺れた。湊も笑って頷く。ポケットの重さを確かめながら、湊は思う。

 この匂い。この凹み。この朝。

 これが、自分の幸福の形だ。

 止まった時計は、まだ動かない。

 けれど、いつか――祖父の言った「救う時」が来るのだろうか。

 湊はそれを考えないようにして、もう一枚のトーストを受け取った。暖かな匂いが、今日をやさしく包んでいた。

 窓の外で、風が落ち葉を転がす音がした。湊は胸の内側の温度を確かめ、陽のえくぼをもう一度見て、この朝を『普通の幸せ』として成立させる、と静かに整えた。

 駅前の改札を抜けた瞬間、街の音がいっせいに押し寄せてきた。自動ドアの開閉音、案内放送の機械的な声、すれ違う人の笑い声。靴底がタイルを叩く乾いたリズムと、どこかの店から流れてくるポップソングのサビが、同じ空気の中で混ざり合っている。湊はその雑多な音の群れを、なぜだか今日はいつもより鮮明に感じた。

 人の波の向こうに、陽がいた。今日は「先に駅前で待つ」とだけ言って、陽は先に出ていた。小さく手を振る。コートの袖から覗く指先が、少し赤い。寒さのせいなのか、誕生日の高揚のせいなのか、頬もほんのり色づいている。陽が駆け寄ってきて、湊の目の前で止まった。

 「遅い」

 「ごめん。……でも、ちゃんと間に合った」

 「うん。間に合った。はい、合格」

 陽はそう言って笑い、左頬のえくぼがふっと浮かんだ。湊は胸の奥がほどけるのを感じる。朝の匂いがまだ残っているみたいだった。ポケットの中の懐中時計は相変わらず冷たいが、今はその冷たさも、ただの重みとして収まっている。

 最初に入ったのは文具店だった。陽が以前から欲しがっていた万年筆を、ショーケースの前で二人並んで眺める。店内は静かで、ペン先が紙を引っかく試し書きの音が、やけに大きく響く。陽は真剣な顔でペンを選び、ふと顔を上げて湊を見る。

 「ねえ。こういうの、いいよね」

 「どれ? 万年筆?」

 「万年筆も。……こういう、普通のやつ」

 普通。陽はその言葉を、宝物みたいに口の中で転がすように言った。

 「誕生日に、欲しいもの買って、映画観て、ちょっといいご飯食べて。で、帰り道に寒いって言って、湊のコートの袖を引っぱって。……そういうの」

 「それ、全部もう叶ってる」

 「まだだよ。最後の、袖引っぱるのが残ってる」

 陽は冗談めかして笑ったが、その笑顔の奥に、小さな本気が透けていた。特別じゃなくていい。派手な夢じゃなくていい。誰かに見せるための幸福じゃなくて、二人だけが分かる、日常の形が欲しい――そんな願いが、陽の言葉の端にひっそり乗っていた。

 湊は、胸のどこかがきゅっと締まるのを感じた。幸福が大きくなるほど、輪郭が太くなるほど、失うことの怖さが、影のように同じ大きさで伸びる。そんな発想は縁起が悪いと分かっているのに、今日の街の音はやけに生々しく、世界が壊れない保証などどこにもないと、音の隙間から囁いてくる。

 湊はその声を振り払うように、万年筆の箱を陽に差し出した。

 「これ。誕生日プレゼント」

 「……え、ほんとに? いいの?」

 「いい。選んだの、陽だし」

 「うわ……うれしい。ありがとう」

 陽は両手で箱を抱え込み、まるで大事な小動物を守るみたいに胸に寄せた。笑った拍子に、えくぼが深くなる。湊はその凹みを見て、今度はちゃんと、縁起の悪い考えを心の端へ追いやれた。

 映画館では、暗闇の中で隣の陽の気配だけが確かだった。スクリーンから溢れる光が、陽の横顔を一瞬だけ照らし、また闇に溶ける。笑うタイミングも、息を止めるタイミングも、いつの間にか揃っていることに気づく。映画の内容より、そういう些細な一致のほうが、湊には胸に残った。

 外へ出ると、夕方の街は人で膨らんでいた。雑踏の話し声が波のように押し寄せ、信号が変わるたびに靴音がざわりと動く。秋風が落ち葉を転がし、どこかで子どもが泣いて、すぐ近くで誰かが笑う。あらゆる音が雑多に重なっているのに、湊には不思議と心地よかった。音があるということは、世界が生きているということだ。少なくとも今は。

 夜になって、レストランの扉を開ける。少し背伸びをした店。グラスが触れ合う澄んだ音と、食器の静かな擦れ。柔らかな照明の下で、陽は少しだけ背筋を伸ばして座った。

 「緊張してる?」

 「してない。……してるかも」

 「かわいい」

 「かわいくない。……でも、ちょっと特別」

 料理が運ばれ、湊は陽の前にワイングラスを置く。二十歳になった彼女と、初めて交わす乾杯。ほんの少しだけ手が震えるのを、湊はグラスの縁に隠した。

 「誕生日、おめでとう」

 「ありがとう。……ねえ、湊」

 「うん?」

 「この先も、こういう『普通』を、たくさん増やしたい」

 陽は真面目な顔で言った。冗談ではない、小さな夢。派手な未来ではなく、同じ朝を繰り返すこと。トーストの匂い、街の音、何気ない乾杯。そういうものを積み上げていくこと。

 湊は頷き、グラスを軽く持ち上げた。

 「増やそう。いくらでも」

 「約束?」

 「約束」

 カチン、とグラスが触れ合う。澄んだ音が、胸の奥まで届いた。赤ワインの渋みが舌に広がり、肉料理の濃厚な旨みがそれを追いかける。湊は、その味と音と光が、自分の人生の正しい場所に収まっていく感覚を覚えた。

 このまま続く。続けられる。続けたい。

 湊は、疑いもせずにそう信じた。

 街の音は今日も賑やかで、陽のえくぼは今も揺れていて、幸福の輪郭は、くっきり太くなっていった。

 レストランを出た瞬間、夜の空気が頬に触れた。さっきまで店内に満ちていた温度が、扉の向こうでふっと切り替わる。街灯のオレンジ色が舗道に薄い影を落とし、歩くたびに靴音が軽く跳ねた。

 陽はまだ笑っていた。ワインの余韻を含んだ声で、さっきの店員の言い回しが可笑しかったとか、映画のラストはやっぱりああいう終わり方が好きだとか、そんなことを途切れなく話している。湊は相槌を打ちながら、彼女の左頬のえくぼが揺れるたび、胸のどこかが安心するのを感じていた。

 「ねえ湊、帰り道、遠回りしようよ。まだ帰りたくない」

 「寒くなるよ」

 「寒いなら、袖、引っぱっていい?」

 「……それ、昼の約束だろ」

 「約束は守るものです」

 陽が笑う。えくぼ。湊は苦笑して、彼女の歩幅に合わせる。

 家までの道は二つあった。駅前の大通りを通る、明るくて人の多いルート。もう一つは、静かな公園を抜ける近道だ。湊は迷わず後者を選んだ。距離が短い。帰りが遅くならない。何より、今日という日を、余計なことなく「普通」に終わらせたい。

 公園の入口に差し掛かったとき、風がひときわ冷たくなった。街路樹の葉が擦れ合う音が、乾いた紙みたいに鳴る。遠くから車の走る音が聞こえ、信号の電子音がかすかに混じる。世界はまだ、賑やかだった。

 だが、二歩、三歩と奥へ進んだところで、湊の背中に薄い膜が張るような違和感が走った。

 何かが変わった。

 最初は、言葉にできない程度のズレだった。陽の声が、少し遠い。風の音が、薄い。街のざわめきが、急に壁の向こうへ押しやられたように聞こえる。湊は足を止めかけたが、止められなかった。止めれば、陽が気づく。気づけば、怖がらせる。そんなことを考えている自分が、妙に滑稽に思える。

 「湊? どうしたの」

 「いや、なんでもない」

 湊は笑ってみせた。だが自分の声が、いつもより硬いのが分かる。

 公園の街灯は、等間隔に並んでいるはずなのに、光の届かない場所がやけに広く感じた。足元の砂利が、わずかな音しか立てない。さっきまで確かにあったはずの喧噪が、薄い布を被せられたように遠のいていく。

 音が、薄くなる。

 その感覚が、なぜか湊の胸に残った。音が薄いというのは、単に静かだということではない。世界が、手触りを失い始める予兆だ。遠くにあるはずのものが遠くなり、近くにあるはずのものまで薄くなる。まるで、ここだけ別の容器に閉じ込められたみたいに。

 ポケットの中の懐中時計が、冷たく太腿に当たった。いつもより重い気がする。金属の重さが現実を支える錘になるはずなのに、今日は逆に、異物として存在感を増していた。

 そのとき、背後から、硬い足音が混じった。

 カツ、カツ、と一定の間隔。砂利を踏んでいるのに、音がやけに硬い。湊の靴音とは違う。陽の靴音とも違う。誰かがこちらへ近づいている。

 湊は、反射的に肩越しに振り返りたくなった。だが振り返る前に、まず『街の音』を探した。車の音。人の声。救いになるはずの喧噪。けれど、それはさらに薄くなっていた。

 代わりに聞こえるのは、二人の呼吸と、近づく足音だけ。

 陽はまだ喋っている。湊の変化に気づかないまま、今日の「普通」を守ろうとしている。湊はその声を聞きながら、胸の奥がじわりと冷えるのを感じた。

 静けさが、入口を作っている。

 この先に何かがある。

 そしてその何かは、音の厚みを奪ってやって来る。

 湊は、言いようのない不穏さを抱えたまま、陽の歩幅に合わせて、さらに暗い方へ足を進めた。

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