パンスペルミアの宇宙枕(4)
八禍本透が跳ね起きたとき、部室には赤毛の新入り・エクスペリオンがいて、三上先生と囲碁を打っていた。エクスペリオンは古風な中国流を右辺に構え、三上先生は小目の黒に対して星にツケるAI流の新手で対抗したところである。ピュモリは観戦中だ。
「こんな人、夢には出ませんでしたが……」八禍本がエクスペリオンを指す。
「私のお姉さんですよ」ピュモリがいった。「というか、姉さんの細胞です」
「情報生命体としてのピュモリ星人は、ひとりしか存在しません」エクスペリオンがいった。「虚数次元なんかに長年ひきこもってるせいで、性格がねじ曲がっていて……よその次元にちょっかいばかりかけてます。実次元に投射されるときは、それぞれの細胞が、いくつもの人型個体として現れるんです。地球人のみなさんも、37兆個の細胞の寄せ集めとして生きているでしょう?」
「要するに」黒崎先輩がいった。「いま、姉妹の細胞同士が話してるわけですな」
「ともかく――ひどい夢を見たんですよ!」八禍本がいった。「こう、無数の触手がうじょうじょと蠢くような……やけに右尻も痛いし」
「ぽっと出の怪物が、君の右尻ばかり執拗に攻撃したのだ」三上先生がいった。「もちろん部員の僕たちは、結束して撃退してやったがね」
「それは助かりました。でも、宇宙枕で悪夢を見たわけですから……」
「なにかが変わっているかもしれんな」
「八禍本さんの記憶が頼りです」速水傾城がいった。「私たちは変化を自覚できない」
「まあ、寝起きじゃ頭も働かんだろう。昼飯にしようじゃないか」
少年掃除機が、購買から部室に戻ってきた。
ドクターペッパー道部の昼飯を、炬燵の天板に並べる。
八禍本はパンを受けとり、ラップを開いた。そのとき、あることに気づいた。パンの狭間には、茶色い線虫めいた、粘つく構造物が埋め込まれていた! 異常はパンだけではなかった。不気味な触手は、昼食の至るところにジュルジュルと侵入している。黒ずんだ脂っこいスープには、黄色くて細長い物体が大量にうじゃうじゃと浮き、アンモニア臭を放っていた。血のように赤い肉味噌を塗りたくられたものも……白くて極太のぶよぶよと柔らかいものも。
「なんですか、これは!」八禍本が叫んだ。「こんな――」
またしても、夢が現実になった。あの粘液まみれの触手を精巧に再現した物体が……ありふれた食事の姿を装って、机上に並んでいる。
「どうしたんですか?」お椀の中身に顔を埋めるようにして、その細長い物体にむしゃぶりつきながら、速水傾城がいった。「いつも食べているじゃないですか」
「この、腐った蟯虫の群れみたいなものを?」
「もしかして――八禍本さんの世界には、その食べ物はなかったんですか?」
「あるわけないでしょう! なんですか、これは!」
「焼きそばパンだ」三上先生がいった。「君の好物だったはずだが」
八禍本透は、机に投げ出したパンに、ゆっくりと手を伸ばしてみた。臭いを嗅いでみる。たしかにソースの香ばしさはあるのだが……どう見ても、食べ物に与えていい形状ではない。
「これは――サラダうどんだ」三上先生が、一つずつ食事を指して説明した。「ナポリタン、担々麺、醤油ラーメン」
「なにひとつ見たことがありません。どうして、食べ物からアンモニアの臭いが?」
「鹹水を加えて練ることで、脱アミド反応で低濃度のアンモニアが揮発するんだ。中華麺の独特ないい匂いのはずなんだがね」
「信じられません。これが、本当に食べ物なんですか?」
「パンはわかるのか?」
「パンは好きです。中身が問題なんです!」
「でも、どちらも同じ小麦から作られるんだ。麺料理は、パンと同じぐらい基本的な主食だ」
「どうして主食に主食が挟まってるんですか?」
「それは誰にもわからん。本当に、一度もこういうものを見たことがないのか?」
「麺! 麺ですか」八禍本の動悸が収まってきた。「どうして、小麦をこんな不気味な粘ついた形に変えてしまうんです? 小麦には、もっとも美味しい食べ方があるじゃないですか」
「というと?」
「降雲ですよ」
今度は、部員たちが絶句する番だった。八禍本は何度も問いただした。部員の誰ひとり、地球の至るところで食べられている、世界一有名な主食――降雲の存在を知らなかった。
ドクターペッパー道部部員は、春原女子校の図書室に乗り込んだ。百科事典や分厚い上製本から、情報をこま切れに渉猟する。小麦は古代メソポタミア文明の頃から食用に供されていた。ヨーロッパに伝搬した小麦から、しだいにパスタが作られる。東洋では――シルクロードを経て中国に伝来した小麦は、日本では弥生時代には食べられていた。中央アジア由来のラグマンを経て、中国で本格的な麺料理文化が花開き、遅れて日本にも麺文化が伝わってくる。「まったく知らない歴史です」八禍本がいった。「私が習った歴史では……降雲は、古代メソポタミアと類似した方法で食べられていました」
「平焼きパンにしたのか?」
「いいえ……お粥状にしていました。その小麦が、シルクロードから中国を経て、日本に伝来したところは同じですが。〝降雲〟の言葉も中国由来です」
「降雲は、小麦の粥なのか」三上先生は考えた。「だが、古代メソポタミアの頃なら、製粉技術はさほど発達していないだろう。クリーズはどうするんだ?」
人類の手で、現在の小麦に品種改良される以前の、野生種の小麦は高原砂漠の厳しい土地で育っていた。小麦には表皮が種子内部に食い込む、クリーズと呼ばれる構造がある。空気中の水分を吸収しやすい形状なので、砂漠地帯でも生き延びることができるのだ。「小麦料理は、クリーズを排除する歴史だ」三上先生がいった。「小麦の皮部分は味が悪いが、表皮の食い込み部のせいで、皮だけを簡単には剥がせない。だから、小麦は砕いて、製粉して胚乳部だけを使うようになり――粉を焼いてパンにしたり、練って延ばして麺にしたんだ。そのまま粥として食べるというのは、あまり美味しそうじゃないな」
「違いますよ。そのクリーズこそが美味しいんです! 雲のようにふわふわとして、ぷちぷち弾ける食感があって――この話、小学校で、みんな習うんですよ。内部に食い込むクリーズ構造のせいで、小麦には微生物が侵入しやすかった。やがて、内生菌テクスチュラ・バクターと共生関係になった古代小麦は、内部のクリーズも美味しく食べられるように変異した。そのトリティカム・ヌビウムという品種が、古代メソポタミア文明から品種改良を経て、現在に至るまで食べられて……」
「トリティカム・ヌビウム?」
「京大の遺伝学者・桐原人志教授が、ゲノム解析で現代の普通小麦の起源となる古代小麦の品種を明らかにして、命名したんです。桐原教授は、この世界に実在しますか?」
検索すると、たしかに名前があった。
NDC分類番号を見ながら、背表紙をなぞる。図書室には『小麦の調査』というそっけない本があるきりだった。末尾の索引を調べると――〝トリティカム・ヌビウム〟の項目があった。
八禍本は、そのページに辿りついた。
〈ニップルの神殿跡地にて、炭化した状態で発見される。内生菌がグルテニンとグリアジンのクロスリンクを阻害するため、水に懸濁した際の粘弾性を基礎とする麺料理には向かないだろう。おそらく、素焼きのパンにするか、原始的な粥として食べられていたものと推測される。
その味を「雲」に喩える碑文の存在から、トリティカム・ヌビウムと名付けられた。すでに絶滅し、遺伝的な後継種も途絶えている。その味を知るものは、もはや人類には存在しない〉
「私がいる!」八禍本は叫んだ。「ここから降雲の歴史は始まったんです!」
だが、この世界ではそうはならなかった。水に練ると粘弾性に富む、異なる品種群が小麦の覇権を握り、やがて――あの、名状しがたい醜怪な触手が、世界に溢れかえったのだ。
うずくまる八禍本の背中を、黒崎先輩が抱きしめた。図書室の隅のすすり泣きを聞いた図書委員たちは、注意に行くべきか、小声で話し合っていた。
ピュモリと一緒に帰宅した八禍本透は、普段通りに夕飯の用意をした。
炊飯器に二合分の米を入れる。米で我慢するしかないのだ――降雲には遠く及ばない、虱の卵のような、二流の穀物を身体に毎日ねじ入れるしかないのだ。
だが八禍本は、降雲の食感を、それを舌でなぞったときの幸福のことを、朧気にしか思い出せなくなりつつあった。こちらの世界に、記憶が馴染んできたのだろうか。いずれ降雲のことを、歴史の彼方に置き去りにしてしまうのか? 幼稚園での初恋みたいに? あんなに本気で好きだった気持ちが、呆気なく、夢のように……
ダイニングの机上に、ピュモリが煙草サイズの円筒機器を置いた。
再生スイッチを入れる。八禍本は突如、なにかを思い出しそうになった。だが、なぜ自分が立ち止まっているのか判らなかった。
ダイニングでは、まだ「月の光」が流れている。
パンスペルミアの宇宙枕(完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます