第五話「石壁の聖域、血の道標」
《ブルーワーデン》の夜
帝都の裏通りに潜む
蒸気ランプの青白い光が低い天井を舐め、硝子グラスの縁に淡い燐光を落とす。煤と安酒、そして重機の鉄の匂いが混じった空気の中で、諜報部ヨアヒム・アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト中尉は機嫌よくグラスを傾けていた。
「昔、お前が山で助けたっていう私兵が、これを届けてくれたぜ」
机の上に置かれたのは、大公代理の私印が捺された書状。多額の金貨の裏付けを証明する、決定的な「証拠」だ。
「こういうのを『情けは人のためならず』って言うんだっけ?お前の《義勇十字章》が…ここで恩を返しに来たわけだ…」
ヨアヒムはグラスを揺らし、氷が小さく鳴るのを楽しむように間を置いてから続けた。
「クラウスを
彼は肩をすくめ、吐息混じりに笑う。
「筋は、通ってる」
オルヴァンは答えなかった。
グラスを指先で回し、溶けかけた氷が触れ合う無機質な音だけが、返事の代わりに響く。ヨアヒムは気にした様子もなく、饒舌に話を続けた。
「娼館ってのは情報の掃き溜めで、情報の宝庫だ。男ってのはな、金で買った女の前じゃ――強がるか、愚痴るか、どっちかしかできなくなる。どのみち、致命的な隙を晒すのさ」
酒を一口飲み干し、ヨアヒムは悪戯っぽく笑った。
「お互い、気をつけないとな」
「気をつけないとな」
そして、冗談めかした調子でオルヴァンの背中を威勢よく叩く。
「まあ、女運の無さに関しては筋金入りのお前には、今さら釈迦に説法か!」
酒場に短い笑い声が転がる。
オルヴァンは空になったグラスを静かに置いた。紫の瞳が、青白い光を受けて鋭く細められる。
「……俺の顔は、トラブルを呼び寄せる磁石だからな」
ぽつりと、それだけ言った。
ヨアヒムは一瞬きょとんとし、それから腹を抱えて笑った。
「出た出た! 自己評価だけは異様に低いんだからな、お前は!」
だが、オルヴァンの表情は微塵も動かない。
山岳部隊の極限状態で叩き込まれた本質――徹底した合理主義、鋼の忍耐、そして寡黙。
疲労の極致でも無駄口を叩かず、死線の気配を察知すれば、思考より先に身体を動かす。平時は
そして何より――自分が「引き金」になり得る重さを、呪いのように理解している責任感。
だからこそ、彼は陰謀の影を笑い飛ばすことはしなかった。
軽口で誤魔化すことも、安心を装うこともしない。
一抹の皮肉を沈黙に混ぜ、あとは静かに、次に来る嵐に備えるだけだ。
蒸気の弁が酒場の奥で重く呻き、青白い光の下、夜の底がさらに深まっていく。
「さて……本題だ。特筆すべき不備はない。だが、エドヴァルト大公代理の娘、リシェル公女が来春、レヴィニア公国へ『留学』に出る。成人後の嫁入りを控えた政治留学、という名目でな」
ヨアヒムの報告に、オルヴァンは鋭く目を細めた。
「リシェル公女は……十四歳か。政治留学のカードを切るには、ギリギリの年齢だな」
報告そのものは拍子抜けするほど穏当だった。留学制度に不備はなく、提出された名簿も完璧に整っている。問題があるとすれば――。
「特筆すべきは、随行員の中にある『侍女見習い』の特別枠だ。形式上は貴族子弟への便宜に過ぎない。……だが、あまりに都合が良すぎる」
オルヴァンは無言で頷いた。その沈黙は、事の本質を見抜いた者の肯定だ。
「あと、これは偶然だろうが……」
ヨアヒムは周囲の喧騒に紛れ込ませるように声を落とす。
「この時期から、レヴィニア公国絡みの妙な噂が
それだけだった。
公式な証拠はない。軍の命令書を動かせるだけの正当な材料も、どこにもない。
だが――。
オルヴァンの胸の奥で、散らばっていた情報の破片が、音を立てて噛み合った。
留学は正当。ゆえに、誰も疑わない。
侍女枠は些細。ゆえに、誰も注視しない。
噂は曖昧。ゆえに、いつでも握り潰せる。
「条件」が揃いすぎているのだ。隠された本命を、誰にも気づかれずに国外へ運び出すための舞台装置が。
「……ありがとう」
それだけ言い残し、オルヴァンは迷いなく立ち上がった。
「え、もう終わりか?」
「終わりだ。ここから先は、
ヨアヒムはすべてを察したように、一瞬だけ重く目を伏せた。
「潜るのか?」
「潜るしかない」
公式な記録に刻まれ、取り返しがつかなくなる前に。
オルヴァンは青白い闇の中へと、音もなくその身を投じた。
◆◆大公代理館・潜入
《ブルーワーデン》を出た夜、帝都は芯から冷えていた。
石畳に辛うじて残る昼の残熱が、軍靴の底を通してかすかに伝わってくる。
オルヴァンは外套の襟を立て、人気のない裏通りを歩いた。諜報部中尉(ヨアヒム)が残した軽口は、すでに思考の端へと追いやられている。
――クラウスを焚きつけた背後に、大公代理の影がある
それが単なる冗談では済まないことを、彼は痛いほど理解していた。
『命令』
ローエングラート少将からの指示は、あまりに簡潔だった。
「シュタウフェン=ヴェルディア大公代理邸。内部に不審な連絡線がある。証拠は不要だ、存在の確認のみでいい。正規の記録には残らぬ任務だ。君一人で行け。コードネームは《リヴァイアス》を使用せよ」
極秘。単独。そして、失敗しても救援は来ないという、死の片道切符。
それでも、オルヴァンは即答した。
「了解いたしました」
拒否する理由など、どこにもなかった。
◆◆
夜の大公邸は、祭りの余韻が霧散した後の、重苦しい「静の圧力」だけを抱えていた。
すべての音は闇に吸い込まれ、空気だけが鉛のように重い。
屋敷の外周警備は、表向きは薄いように見える。だが、それは決して「油断」などではなかった。
――人を極限まで減らし、侵入者の動線をあえて誘い出す配置だ。
リヴァイアスは裏庭から二階へ取りつき、装飾梁の死角を突いて回廊へと滑り込む。
足音は出さない。呼吸さえ、夜の静寂に溶け込ませる。
祭礼用に開放されていた区画はすでに固く閉じられ、人払いの済んだ大公邸は、今や「聞かれてはならない音」だけが
(……警備の質が、上がっている)
正規兵ではない。しかし、素人でもない。
武装は軽装だが、連携を必要としない“個”の練度が高い。何より、“視線の置き方”が、最前線の戦場を知る者のそれだった。
――誰かが、この館を最初から「戦場」と定義している。
リヴァイアスは足を止め、壁の影に背を預けた。冷たい石の感触が、背中越しに体温を奪っていく。
(目標は一点。内部で王家転覆、あるいは否定の動きがあるか否か)
それだけを確かめ、速やかに離脱する。
証拠は不要。記録も不要。
だから――
扉の隙間から漏れる、不自然に揺れる
(……ここだ)
声は低く抑えられているが、その内容は、もはや抑えきれる類のものではない。
近づく。床の軋みをミリ単位で避け、厚い絨毯の縁だけを丁寧に踏む。
深く息を整え、心拍を一段落とす。
そして、耳に飛び込んできたのは、断罪の言葉だった。
「王家の血筋は、もう不要だ……」
「次の建国祭で、我らが真の旗を掲げる」
言葉が、音ではなく「動かせぬ事実」として、闇の底に落ちた。
背中を、冷たく硬質な指でなぞられたような戦慄。
(……確認、完了。離脱する)
その、刹那だった。
背後。
鼓膜をわずかに叩く、微細な床鳴り。
音量は極めて小さい。だが、それは紛れもなく「他者の重心」が動いた音だった。
(……来る!)
反射で、身体を翻す。
大理石の床は、音をよく響かせる。
だからこそ――反響のわずかな「遅れ」だけで、相手との距離を正確に割り出した。
廊下の濃い闇を割り、一人の男が抜けてくる。
『ガブリエル・ヴァンス』レヴァニア公国のネームド
短く刈り込まれた薄金髪。夜目に特化した、捕食獣を思わせる氷灰色の瞳。
肩幅は軍の規格よりやや狭いが、そこに立つだけで周囲の空気が凍りつくような圧がある。
――戦場を知っている歩き方。
そして――「殺し慣れている」者の姿勢
(……間合い一歩半。先に踏み込めば刺さるが、返しで確実に死ぬ)
リヴァイアスは太腿のホルスターに指をかけ、ナイフを引き抜く。
金属の重心が掌の肉に固定される感覚。呼吸は自然と、刺突に特化した鋭いリズムへと変質した。
ガブリエルの薄い唇が、歪んだ。
「王の犬が持つ得物にしては、ずいぶんささやかなものだな」
リヴァイアスは瞳を逸らさず、氷のように冷たく返す。
「――躾けはされているが」
一拍置き、声を低く沈める。
「鎖を外した犬は……何を噛み砕くか、自分でも分からなくなる」
ガブリエルの瞳が細くなり――距離が消えた。
抜かれた長剣が、夜気を裂く。
床に落ちた反射光の揺らぎから刃の軌道を読み、リヴァイアスは肩をひねって回避を試みるが――。
「裂ける音」とともに、肩の肉が熱を噴いた。
衝撃は鈍く、重い。痛みは鋭利だが、意識を曇らせるほどではない。
(切創深度、筋束まで。出血速度は速いが、即死性はない。肩の外転は不可。だが、刺突動作と体重移動の軸は保てる)
分析の最中、ガブリエルがさらに踏み込んでくる。
重心が沈む。――刺突だ。
リヴァイアスは回避を捨て、あえて前進した。
肩の裂け目がさらに抉れ、温かな鮮血が噴き出す。
代わりに、逆手に持ったナイフの切っ先が、ガブリエルの脇腹へと吸い込まれた。
「っ……!」
漏れる吐息、胸郭の不自然な揺れ。
(肋骨下の軟組織を捉えた。深度は致命に至らぬが、奴の反撃は一拍遅れる)
ガブリエルが後退し、再び闇に溶ける。
互いに「これ以上は相打ちになる」と、生存本能が判断を下したのだ。
静寂が戻る。
痛みが鼓動に連動し、肩を内側から激しく叩く。腕の神経がじりじりと焼けるように熱い。
(……視界、安定。失血量は依然、戦闘可能域内。任務を継続する)
壁を支えに、足を進める。
床に滴り落ちる血の音だけが、不気味に脳裏にこびりついた。
規則正しく反響するはずの己の足音が、一度だけ、わずかに遅れて消えた。
石壁の奥――音が吸い込まれるような感覚。
(……空洞がある)
視線を上げる。
壁面装飾の連なりの中、女神セラフィーリアのレリーフだけが、僅かに角度を変えていた。
祈りの姿勢。だが、その指先は不自然なほど「こちら側」を指し示している。
偶然ではない。
(避難路……いや、元は儀礼用か)
古い建築様式だ。大公邸が「近代的な館」へと改築される以前、神殿と私的通路を繋いでいたであろう――回転式の隠し扉。
肩を壁に預け、荒い呼吸を整えながら、装飾の縁に指を滑らせる。
指先に、研磨されきっていない、わずか一箇所の「溝」を見つけた。
押す。
期待した通り、壁の一部が沈み込む。
次の瞬間、石が擦れる低い地響きとともに、壁が内側へと静かに回った。
オルヴァンは躊躇わなかった。
その隙間に身体を滑り込ませ、背後で扉を完全に閉ざした。
闇。
外の空気が断たれ、代わりに湿った古い冷気が肺の奥まで満たしていく。
オルヴァンは震える指でライターを取り出し、小さな火を点した。
橙色の微かな光が照らし出したのは、時を止めたような古い通路だった。
石積みは粗野で、近代的な補修の痕跡はどこにもない。天井の亀裂から染み出した雨水が、床のあちこちで黒い水溜まりを作っている
長年、人の歩みを拒んできた場所だ。
それでも――道は、まだ死んでいない。
(……生き延びるために。何者かが執念で遺した逃げ道か)
一歩、踏み出す。
肩から伝った血が床に落ち、暗い水面に波紋を広げながら溶けていく
通路の果てに、古びた木製の扉が立ちはだかっていた。
そこで、急激に酸素が足りなくなった。
浅い呼吸のたびに肩の傷が裂け、火を押し付けられたような激痛が胸の奥を刺す。
(出血量、増加傾向。視界の端にノイズ――だが、ここで止まる理由など、どこにもない)
オルヴァンはライターの消え入りそうな火を掌で守るように覆い、一歩、また一歩と扉へと歩み寄った。
――この先に、救いがあるかどうかは分からない。
ただ、ここに留まれば、確実に死が追いついてくる。
その一点の合理的な判断だけが、朦朧とし始めた彼の意識を繋ぎ止め、前へと進ませていた。
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