第50話 熊

 印刷工場のヘドロのような悪意を洗い流す間もなく、変美のもとに舞い込んだ次なる依頼。それは、栃木県北の雄大な自然に抱かれた避暑地、**「那須」**からのSOSだった。

 ■ 依頼:那須の静寂を切り裂く「黒い影」

​「……熊退治? 私にマタギになれと言うの?」

変美は、那須高原の高級別荘地を管理する老人、大河内おおこうちと対峙していた。

「いや、ただの熊ではないのだ。家畜を殺すだけでなく、鍵のかかった書斎から『特定の重要書類』だけを奪い去る。地元では**『知恵ある黒鬼』**と恐れられている」

​ 変美の鼻が、大河内が差し出した「被害現場に残された体毛」を捉える。

「……おかしいわ。獣の臭いの奥に、わずかに混じる**『高純度のシリコングリス』と、『電子基板が焼ける特有の焦げ臭さ』**……。これ、生き物じゃないわね」

 ■ 潜入:霧深い那須の原生林

​ 変美はハンターのような迷彩服に身を包み、武尊と共に、目撃情報の相次ぐ那須の深林へと足を踏み入れた。

 夜の帳が下り、深い霧が立ち込める。その時、風下から「それ」はやってきた。

​「……来たわ。立ち込める霧を切り裂く、冷徹な**『機械油と防錆剤の匂い』**。それに……この匂い、どこかで!」

​ 暗闇から現れたのは、体長2メートルを超える巨大な熊——。しかし、その動きは生物のそれではない。関節が駆動するたび、微かなモーター音が響く。

「リモート操作の軍事用バイオ・ロボット……!」

 ■ 死闘:鋼鉄の獣と「鼻利き」

​ ロボット熊は、標的を変美に定めた。凄まじい速度で突進してくる鋼鉄の塊。

「武尊、下がって! 闇雲に撃っても外装で弾かれるわ!」

​ 変美は、ロボット熊が振り下ろした鋭い爪を紙一重でかわす。至近距離。彼女の鼻が、獣の喉元にある「急所」を嗅ぎ当てた。

「……見つけた。擬装用の毛皮の隙間。そこから漏れ出している、**『加熱されたリチウムイオンバッテリー』**の甘い匂い!」

​ 変美は、工場潜入時に拝借していた「強力な電導性インク」の入ったスプレーを、その匂いの源へ向けて噴射した。

 ■ 逆襲:操り人形の断末魔

​「……そこよ!」

 スプレーの霧が吸気口に吸い込まれた瞬間、ロボット熊の内部で激しいショートが発生した。青白い火花が散り、鋼鉄の獣は断末魔のような電子音を上げて崩れ落ちる。

​ 静寂が戻った森。変美は、動かなくなったロボットの首元に手をかけた。そこには、ある企業の刻印があった。

「……『BD』。またビッグ・ディアマンテの残党ね。彼らは那須の別荘地に眠る、戦後の未公開株のリストを奪おうとしていたんだわ」

 ■ エピローグ:高原の清風

​ 翌朝、那須の空は抜けるように青かった。

「変美さん、お疲れ様でした。熊退治がロボット退治になるとは……」

 武尊が差し出した地元の牧場直送の牛乳を飲み、変美はようやく人心地ついた。

​「……ふぅ。機械の匂いより、この**『絞りたてのミルクと、朝露に濡れたリンドウの花』**の匂いの方が、何百倍もマシね」

​ だが、変美の表情は晴れない。ロボットの残骸から微かに漂っていた「もう一つの匂い」。それは、彼女の父が失踪した日に残した**「古い革手帳」**と同じ、懐かしくも不吉な匂いだった。

​ 

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