第2話 近すぎる距離
翌朝、マリは少しだけ寝坊した。
目覚ましを止めた指先が、じん、と熱を持つ。
昨日の傷だ、と気づくまでに、ほんの一拍遅れた。
「……まだ治ってない」
絆創膏を貼り替える。
赤みは引いている。腫れもない。見た目には、完全に大したことのない傷だった。
なのに、指先の感覚だけが、やけに鋭い。
カーテンを開けると、朝の光が眩しかった。
窓の外を通る車の音が、いつもより近くに聞こえる。
「……気のせい、だよね」
そう呟いて、制服に袖を通した。
学校では、相変わらずだった。
マリは笑ったし、冗談も言った。
ミユはそれを信じた。
ただ、距離が少しだけ――近く感じられる。
教室の中。
廊下。
人の気配が、肌に触れるようだった。
昼休み、ミユが机に身を乗り出す。
「ねえ、今日も放課後行こ」
「カフェ?」
「うん。ヤコちゃんに会いたい」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が、ひくりと動いた。
「……いいよ」
理由は分からない。
でも、行かないという選択肢は、思い浮かばなかった。
カフェ三狐は、いつも通りだった。
夕方の光。
開いたままのシャッター。
中から漏れる、あたたかい匂い。
「いらっしゃいませなのじゃ」
ヤコの声がする。
その瞬間、マリの視界が、わずかに揺れた。
――近い。
距離は昨日と変わらないはずなのに、近い。
存在が、強い。
ミユはいつもの席に座ると、迷いなく身を乗り出した。
「ヤコちゃん、今日も触っていい?」
「む、ほどほどにするのじゃぞ」
ミユの指が、キツネ耳に伸びる。
その仕草を見た瞬間、マリの喉が、無意識に鳴った。
違う。
何かが、おかしい。
匂いが――。
甘くて、温かくて、でも、胸の奥をざわつかせる匂い。
ミユの方から、はっきりと感じ取れる。
「……マリ?」
ミユがこちらを見る。
その拍子に、マリの視界が、すっと細くなった。
この距離なら。
――触れられる。
理由も、意味も、言葉も浮かばない。
ただ、「近づかなければならない」という衝動だけが、静かに背中を押す。
一歩、踏み出す。
「マリ?」
ミユが首を傾げた、その瞬間だった。
カウンターの角に、指先をぶつける。
「っ……!」
反射的に、ミユがマリの手を取った。
「大丈夫!? 血、出てる!」
絆創膏がずれ、昨日の傷口が開く。
ほんの少し、赤が滲む。
それを見た瞬間――
マリの中で、何かが、決定的に噛み合った。
音が消える。
匂いだけが、残る。
「……あ」
声にならない声。
ミユの指が、マリの手を包んでいる。
素肌。
温度。
――感染。
言葉は知らない。
でも、身体が知っていた。
マリは、指先に力を入れてしまった。
「いたっ」
ミユが、小さく声を上げる。
歯は立てていない。
噛んだわけでもない。
ただ、爪が――
ほんの一瞬、皮膚を引っかいただけだった。
「ご、ごめん!」
マリは慌てて手を離す。
「大丈夫だよ、このくらい」
ミユは笑って、ティッシュで指を拭いた。
血は、ほんの一筋。
それだけだった。
ヤコが、二人を見ていた。
琥珀色の瞳が、いつもより静かに、深く。
「……マリ、少し顔色が悪いのう」
「え? そうかな」
「無理はせん方がよいぞ」
その言葉が、胸に落ちる前に。
衝動は、引いた。
まるで、何事もなかったかのように。
その夜、ミユは少しだけ熱を出した。
「明日には治るよ」
メッセージには、そう書いてあった。
マリは、それを見つめたまま、返事が打てなかった。
指先の傷は、もう痛くない。
代わりに、胸の奥が、奇妙に静かだった。
――仲間が、増えた。
そんな考えが、浮かんで。
マリは、初めてそれを「おかしい」と思った。
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