吸血少女は牙隠す。 〜どうやら彼女、吸血鬼と呼ばれるのは心外だそうです〜

青葉 ユウ

1-1 その水、飲むとお腹壊すよ。



「――その水、飲むとお腹壊すよ」


 朝、宿の玄関前に置かれた大きな水瓶の蓋を開けたところで背後から声がかかった。


 年若い女性の明るい声だ。

 陽が登り始めてもいない早朝なのに、その音に微睡はない。

 いきいきとして、陽気な口調。

 他でもない俺に忠告してくれているのだろう。

 持ち上げた重たい蓋を一旦下ろして振り返る。


「それってどういう――――」


 続く言葉を故意に留めた。

 言葉というよりは吐息だっただろう。

 綺麗だ、と声に出さずともありありと伝わってしまう息を吐き出していたに違いない。


 そうならずに済んで良かった。

 咄嗟に判断できた自分を褒めたい。


 陽が登り始める前の暗い空に光がぼんやりと漏れ出す早朝は、辺鄙な田舎町ということもあって人通りは皆無。

 そんな中、親切で声をかけてくれただろう女の子の容姿を第一に褒めて、軟派な男と見做されたら。

 警戒した彼女づてに話を聞き知った人々から距離を置かれては困る。

 これがこじつけだと分かってもいた。

 俺は初対面の彼女に嫌われてしまう可能性を、限りなくゼロにしたかったのだ。


 けれど一瞬の努力は無意味でもあった。

 早朝の鐘よりも早く目覚めを告げる鳥すら寝静まる薄明の、なにものにも染まらぬ静寂が沈黙の色を表すように。

 俺の疲弊した両目にうっすら宿った惚気を感じとって。

 彼女は自分でも理解しているのだろう美しい笑みを湛えてみせた。

 首に巻かれた大ぶりのストールによって口元は隠れているが、綻ばせた目元や僅かな顔の動きで角度を変えて自分を魅せている。


「そのままの意味だよ、お兄さん。そのお水、腐ってないけどよくないものが混ざり込んだみたい。私、井戸から組んできた水があるから分けてあげる」


 言うなり、彼女は腰回りから下げていた革製の水筒を手に取った。

 決して強要はしていない親しみのある声音なのに、有無を言わせない不思議な感覚だった。

 彼女の存在に惹きつけられるように手を伸ばして水筒に触れる直前で止まる。


 ――もらって良いのだろうか。


 彼女は自分の飲み水を確保する為に近くの井戸まで足を運んだのだろう。

 助言だけを有難く受け取って、自分の足で井戸に行くべきでは?


 逡巡した俺は、水筒が括り付けてあった彼女の細く締まった腰に目を落とす。

 ワンピースに似た上衣は前見頃を重ね合わせて腰で留めていて、そこに膨れ上がったベルトポーチを身につけている。

 布製のポーチやひょうたんのようなものも括られているように見えたが、遠慮がちに見た一瞬では判別が出来なかった。


(スリィだったら……)


 行動の模範にしている幼馴染に、今の状況を試させる。

 頭の中の彼女は差し出された水筒に迷わず手を伸ばして「ありがとう」と笑っていた。

 彼女の行動は決まりきっているのだから、考える時間も無駄なのだ。

 迷ってしまった手で水筒を受け取ろうとした時、目の前の女性は両手で包み込むように俺の手に水筒を握らせる。


「私の分はちゃんとあるから遠慮しないで。マスターにも伝えておくから安心してね」


 下から見上げた笑みを残して、彼女の手は離れていった。

 風に香を含ませながら俺の横を通り抜けていく。


 赤い飾り紐が特徴的なネーレ族のケープが翻り、ひとつ結びの艶やかな黒髪が一線をひいていた。

 視界から消えていく毛先がさらさらと風に靡いて、黒ではないと気づく。

 藍色か青みがかった灰色か。もしくは、青紫とも呼べるのかもしれない。

 薄暗い夜明けに溶け込むように暗く、それでいて鮮やかな艶のある色味。


 ここでも俺は、綺麗だと。

 そのひと言しか浮かばなくて。


 宿の扉の奥へと消えていく彼女を、最後まで目で追うことしか出来なかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る