第2話 青くならなかった手
翌日は、雨だった。
静岡の雨は、強くはないのに、長い。
校舎の窓ガラスに当たる音が、授業中ずっと消えなかった。
花子は二年生の美術室で、次の時間の準備をしていた。
石膏像の向きを少し直し、絵の具の蓋がきちんと閉まっているかを確認する。
指導教員の佐藤は、「山田先生、あとはよろしく」と言って、職員室に戻っていった。
-- 一人になると、少しだけ、楽だ。
その感覚を、花子は、誰にも言ったことがなかった。
生徒が入ってくる前の美術室は、静かで、匂いがはっきりしている。
水と紙と、乾ききらない絵の具。
藍色のポスターカラーのチューブが、棚の端に見えた。
花子は、一瞬だけ、それを見て、すぐに視線を外した。
本当は、ずっと前から、藍染に興味があった。
甕を買うほどでもない。作品として人に見せるつもりもない。
ただ、布が少しずつ色を吸っていく過程を、近くで見てみたかった。
でも、手が青くなる。
「何それ?」
「どうしたの?」
そう聞かれたら、説明しなければならない。
説明は、話すことより、ずっと難しい。
だから、興味は、棚の端に置いたまま、時間だけが過ぎていった。
チャイムが鳴り、生徒が入ってくる。
今日は、給食前の最後の時間だ。
美咲は、教室に入るなり、花子を見つけて、小さく手を振った。
メグは、友達の後ろに隠れるようにしながらも、ちらっと視線を送ってきた。
花子は、軽く会釈を返す。
それだけで、昨日の机の高さが、一瞬、思い出される。
給食の時間が近づくにつれ、花子の体の奥が、少しずつ、硬くなる。
今日は、担任の佐藤が教室に来る予定だと、朝、聞いていた。
——同じにはならない。
その予感は、不安というより、予測だった。
給食の準備が始まり、花子は、いつものように、先に教室へ向かう。
昨日のように、誰かが声をかけてくれるかどうかは、考えない。
考えると、身体が先に反応してしまうからだ。
教室では、机がすでに元の配置に戻されていた。
不登校だった生徒の席には、今日は、別の子が座っている。
空いた場所は、ない。
担任用の机の横には、いつもの椅子が、きちんと収まっている。
パイプ椅子は、教室の後ろに、立てかけられたままだった。
美咲は、配膳台のほうで忙しそうにしている。
メグは、椅子を引く音に体を向けていて、こちらを見ていなかった。
花子は、机間を一周する。
声をかける。
天気の話。
次の授業の話。
反応はある。でも、誘いは、ない。
——今日は、ここまで。
そう判断するのに、昨日より、時間はかからなかった。
花子は、教室を出て、職員室へ向かった。
給食を手に取るとき、胸の奥に、小さな、落胆が生まれる。
でも、崩れ落ちるほどではない。
——昨日が、あったからだ。
職員室の席に座り、花子は、黙って食べ始める。
立っていない。
逃げていない。
今日は、今日はで、成立している。
ふと、自分の手を見る。
白い。何の色も、ついていない。
「青くならなかったな」
誰にも聞かれない声で、そう思った。
そのとき、美術室の棚の端にあった、藍色のチューブが、
もう一度、頭に浮かんだ。
——触らなかった。
——でも、見なかったわけじゃない。
花子は、それで十分だと思った。
変わる、というより、戻らない。
少なくとも、完全には。
窓の外では、雨が、まだ降っていた。
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