命終えても

@kaoru317

第1話 小さな訪問者

駅からの帰り道...

さっきまで降っていた雨はやんで、空は淡いあやめ色に染まっている。

道の上には小さな水たまりが点在して街の灯りを写していた。


雨上がりの夕暮れがこんなにも心地いいのは、雨を待ち望んでいた草木や小さな虫たちの満足が地表に充満しているからかもしれない。


お風呂屋さんの前を通ると木を燃やす香ばしく懐かしい匂いが漂っていた。

まだ薪でお風呂を沸かしているんだ。

自分が住んでいる街なのに知らないことが本当に多い。


優しい時間の中を私は泳ぐように夕暮れの街を歩いている。

街が琥珀色に染まってきた。

この時間帯が一番好きだ。

心が落ち着く。


私にとって心が落ち着くということは何ものにも変えがたいことだった。


少し前までメンタルの問題でもうダメかと思うほど苦しんできた。

今も完全に良くなったわけではない。

まだ経過観察の時だと医師から言われている。


だから気持ちよく過ごせる時間は涙が出るほどありがたい。

ゆっくり味わうように夢色に染まった街を歩いて帰った。


鞄から部屋の鍵を取り出しドアを開けると、一瞬何か動くものが目に飛び込んで来た。


えっ!

猫?


ベランダに猫がいる。

なんで!

あれっ!あれ?

猫じゃない。大きすぎる。


外国の猫?

違う。あれは猫じゃない!

トラか?

まだ小さいけどこれは多分トラだ。

ベランダにトラがいるんだ。

なんで?


こっちをみてる。

あどけなくかわいい目をしているけど絶対猫じゃない。

顔立ち、骨格、腕の太さ、こんながっしりした猫はいない。

間違いない。絶対トラだ!


でもなんで私の部屋のベランダにトラがいるんだ!


ここは女性専用ワンルームマンションの4階。

同じ階の住人のペットだろうか?

ベランダを渡り歩いてここまで来たのかもしれない。

でも、日本でトラを飼ってもいいんだろうか?

それにこのマンション、確かペット禁止だったはず。


何歳くらいだろう?

まだ子供みたいだが噛みつかれると大怪我するに違いない。

普通の柴犬くらいの大きさはある。


早くマンションの管理人に伝えなければ!

いや、先に警察に連絡すべきだ。


この子が下に降りていって、遊んでいる小さな子供を襲ったりすると大変なことになる。

そんなことになればこの子は殺処分されてしまうかもしれない。

頭が混乱してきた。

どうしよう。


スマホを持って恐る恐るベランダのスライドドアに近づいてゆく。

証拠写真を撮らなければ...

いや、動画のほうがいい。

ピッ。


可愛い目をしてこっちを見てる。

人間を恐れてはいないようだ。

近くで見るとやはり猫にはないすごい迫力がある。

もう一歩ゆっくり近づいてみる。

ガラス越しなので、少し大きな声で優しく聞いてみた。


「何してるの?」


「ガルルルー 。(お前は誰だ)」

機嫌が悪いみたいだ。


「私の言葉がわかるの?」


「ガォォー。(ここで何してる!)」


「私はここに住んでるの。ここは私の部屋だよ。」


しばらく見つめ合ってしまった。

会話している場合じゃない。

早く警察に連絡しなくては!


でも、警察が来れば大事になってしまう。

夜のニュースで放送されることになるかもしれない。


私が第一発見者としてインタビューされることになったらどうしよう?

いつもの考え過ぎの症状が出て来ている。


またあの強迫性障害に逆戻りしそうだ。

恐れる気持ちが強迫じみた妄想を引き起こしてしまうのだ。


そんなことになってしまったら私のメンタルの病が再発してしまうかもしれない。

適応障害と強迫性障害という病で1年以上苦しんできた。

まだストレスにとても弱い不安定な時期で今はまだ経過観察の時。


医師からもストレスに十分注意して過ごすようにと言われている。


心に負担がかかるような事はしてはならないと医師から何度も言われている。

特に人前に晒されるのは絶対無理!

どうしよう?


でも、黙ったまま何もしないわけにはいかない。

もし私が通報しなかったら...


この子がどこかに行ってしまって、事件を起こしてしまったら...


私は通報しないで黙認してしまったという罪の意識で苦しみ続けてしまうことになるだろう。

それはそれで大きな心の負担になる。

どうしたらいいのか?


私がベランダのトラを見たことは誰にも知られていないので、責められることはないとは思うが、私は間違いなく自分を責めて苦しんでしまう。


再発すると脳に新たなダメージを受けて回復するのに時間がかかるらしい。

そんなのは絶対いやだ!

2度とあんな辛い時期を過ごしたくはない!

頭が混乱してしまう。


急に右脚がビクッとなった。

首筋に衝撃が走り、天井のクロスの模様が目の前にあらわれた。

ここは何処だ!


私の部屋だった。


ふぅー。

夢を見ていたのだ。


薄いオレンジの朝日がカーテンの隙間から覗いていた。

またやってしまった。

すべて夢だった。

私の深層心理が勝手に夢を創りあげていたんだ。


駅からの帰り道から幕が上がる夢だったのだ。

夕暮れのあやめ色の街並みも、お風呂屋さんの薪が燃やされている香ばしい匂いも...。

そしてトラと話したこともすべて私の心が生み出してしまった夢だったのだ。

またやらかしてしまった。


メンタルの病の後遺症なのかわからないが、私は落ち着いた気持ちのいい時間を過ごしたいという欲求が極端に強くなっているせいだろう。


それに人を恐れるという思いが混ざり合って動物としか安心して話ができない。

だからこんなストーリー展開の夢を創り上げてしまうんだ。


この部屋に引っ越してきた日から毎晩のようにびっくりさせられる夢をみてしまう。


夢には共通点があった。心地よい時間を過ごしたすぐその後に動物と会話していることだ。

この部屋で一人暮らしをするようになって見る夢は必ず動物がでてくる。

人間が登場したことは1度もない。


私はこのメンタルの病気のせいで頭が混乱することを極端に怖がるようになっていた。


わけがわからなくなり、恐ろしさに押しつぶされるような感覚を味わいすぎたせいだと思う。

それは自分が誰かに乗っ取られるような恐ろしい感覚だ。


その反動で落ち着いた心の状態を渇望するようになっているんだと思う。


だから夕暮れの落ち着いた時間を味わうことや動物に話しかける夢ばかりを見るのだ。


夢を見ている時はびっくりするほどリアルなので目が覚めた時、違う世界に迷い込んだような感じがして、一瞬どちらが現実かわからないほどだ。


人間が怖くなってしまった理由はわかっている。

ある出来事がきっかけとなってそれが今でも私の心を縛り上げているのだ。


高校受験で慌ただしくなってきた中学3年の3学期だった。

心に大きな傷を負う出来事に巻き込まれてしまう。

それ以来、人間が怖くなった。

中学は卒業したが、高校には行けなくなる。

心のバランスを崩してしまい、まともな精神状態ではなくなっていった。


勉強どころではない。

高校受験は吹き飛んで、顔から表情が抜け落ちたような人間に変わってしまった。



あれからもう3年になる。

私は五十嵐映美。

中学を卒業して3年という月日が流れ18歳になった。


2週間前、家族から離れ広島からひとりで関西に引っ越してきたばかり。

明日、私は大学の入学式を迎えることになっている。


中学で精神的に大きな問題を抱えてしまい、高校受験も出来なくなった私がなんと明日は大学の入学式を迎えることになっているのだ。

自分でも信じられない。


現実は奇跡に満ちているという言葉を聞いたことがあるが、その通りのことが私のこの身に起きたのだ。


高校へも行けずにいた私がわずか1年でV字回復を果たし、明日から大学生になる。

高校に行かなくても道はいくらでもあったのだ。


明日から第一志望のミッション系大学の学生になる。

本当に夢を見ているような気分。


しかし、あの悲しい出来事で私の人間を恐れる気持ちはまったく癒されていない。


そんな私が明日から知らない人に囲まれて大学でやっていけるのだろうか?

心配すれば切りがないが、私にはV字回復した奇跡がある。


人間関係でも奇跡は起こるかも知れない。

不安はあるけど心配してどうなるものでもない。

このまま前を向いて生きてゆくだけだ。


今夜もまた夢を見てしまうのだろうか?

でも怖い悪夢なんかじゃない。

可愛いモモンガだったこともある。

気にすることはない。

ちゃんと朝ごはんを食べて元気を出すんだ。




あれ!

雨かな?


降り始めの匂いがしてる。

雨粒で巻き上げられた湿った土の匂いが部屋に忍び込んできている。

いい香りとは言えないが、私は好きだ。

生まれ育った広島の子供時代を思い出させてくれる。

懐かしい匂いに寂しさが癒されていく。

故郷を生まれて初めて離れている。

少しくらい寂しいのは当たり前だと思うことにしよう。

この人生で学生でいられるのはあと4年間だけ。

充実した大学生活にしたい。

そう思っていた...。


しかし、この大学生活の中で私は今まで味わったことのない深い悲しみと耐え難い苦しみの中にひとり放り込まれてしまうことになるのだ。


この時は想像もしていなかった。

しかし、その痛みは素晴らしい祝福へと変わっていく入り口だった。





7月、よく晴れた土曜日。

入学して新しいことだらけで戸惑うことも多かったが、あっという間に3か月が過ぎた。


地元の広島には何でも話せる親友が何人かいるが、この大学ではまだ友人と呼べる人はいない。


私の人間を恐れる心は今も変わっていない。

だから人間関係に慎重になりすぎてしまう。


臆病になっていると思う。

恐れのため誰とも簡単には友達にはなれない。


中学のあの出来事は今でも忘れられない。

それは私の心に深い傷を負わせ、今もその傷はうずいている。


思い出すだけで、あの恐ろしい感覚と感情が蘇って来てしまう。


中学3年の3学期の初めの頃だった。高校受験が目の前に迫っていた。


受験というストレスがひとりひとりの生徒の中に浸透して来ているようだった。


そんな時、今まで仲の良かった友人と思っていた2人が申し合わせたように私に対して距離を置くようになった。


中3になってクラス替えがあって、しばらくしてから私は男子生徒からよく可愛いと言われるようになってきていた。


中2まではそんなこと言われたことは一度もない。


ふたりの友人はそれが面白くなかったのかもしれない。


2人とは変な距離ができてしまい、少しずつ私への嫌がらせが始まり、それが陰湿ないじめに変わっていった。


ある日を境に、私が話しかけても露骨に無視するようになり、私はお昼のお弁当も1人で食べるようになっていった。


クラス中にその雰囲気が伝わって、私はあっという間に孤立していく。

クラスの女子から話しかけられることは完全になくなってしまった。


暴力的ないじめは無かったが、学校へ行くことが怖くなってしまい、ひとりになると涙が止まらない。


りんごがガツンガツンと音を立てて、果肉を削り落としながら坂道を転げ落ちるように私の心は崩壊していった。


鏡を見ると見たことのない自分の暗い表情に愕然とする。

手が届くところに死が待ち構えているように思えていた。


家族にも話すことが出来ない。

本気で死ぬことを考えるようになっていった。

そんな状態がしばらく続いたが、それだけでは終わらなかった。


クラスの男子生徒3人が、私と仲の良かったあの二人に嫌がらせをするようになってしまったのだ。


私の味方をしているつもりだったのかも知れない。


彼女たちが私を無視するようになって孤立させていったのを間近で見ていたこともあり、天罰を下す立場にでもなっていたのかもしれない。


彼らは罪悪感のかけらを持つこともなく、彼女たちに容姿をからかうような言葉の暴力を浴びせていった。


それは短期間のうちにだんだんエスカレートしていって、手加減のない殴る蹴るの暴力を振るうまでになってしまう。


クラスの男子も女子も見て見ぬふり。

私は泣きながら何度もやめてくれるように頼んだが、暴力は止まらない。

歪んだ正義感は歯止めが効かなかった。


元友人のひとりは耐えられなくなり転校することになる。

もうひとりの子は登校拒否、そのあと心療内科に通っていたらしいが、卒業式にも顔を出さなかった。


2人とも私からの電話はブロックだった。


卒業式の後、登校拒否した彼女のお父さんはその男子生徒3人とその親達を相手取り裁判を起こしたらしい。

それから後のことはわからない。


私のせいだとは思わないが、私が原因になったことは確かだ。

私がいなければ起きなかった。

友人2人も男子生徒3人も高校受験の大切な時期を台無しにしてしまったのだ。

私は心が破けるほど苦しんだ。

良くないことを撒き散らす毒が自分の中に宿っているようでそれが怖かった。


その毒はやがて自分にも降りかかってくるんだと思い込むようになり、受験どころではなくなってしまった。


勉強はまったく手につかなくなり、高校受験も諦めて、後味の悪い卒業式の後、私は自分の部屋に完全に引きこもるようになってしまった。

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