第一章 レースの下の拳
土曜日の午後。
晶は言われた通り、十四時にジムに着いた。私服——といっても、グレーのTシャツに黒のジーンズ、足元は使い古したスニーカー。髪は寝癖のまま。生まれてこのかた化粧なんてしたことがない。する理由がない。
ジムの入り口で、晶は立ち止まった。
異質な気配。
ドアの向こうに、誰かがいる。見慣れない誰かが。
晶は深呼吸して、ドアを開けた。
——そして、息を呑んだ。
リングの脇に、その人間は立っていた。
黒いワンピース。
胸元にあしらわれたレースのフリル。
腰を絞ったシルエット。
スカートの裾は膝上、ティアードの段々が揺れている。
足元は厚底のストラップシューズ、黒のエナメル。
髪は黒のロングで、緩やかにウェーブがかかっている。
肌は陶器のように白い。
唇は深いボルドー。
目元には繊細なアイライン、睫毛は長く、ダークブラウンの瞳が光を反射している。
首元には、十字架のチョーカー。耳には、薔薇のピアス。
——人形みたいだ。
それが、晶の第一印象だった。
雑誌から抜け出してきたような、現実離れした美しさ。
ボクシングジムという空間に、まったくそぐわない存在。
女の子?
いや——
晶は、その人物の肩幅を見た。首筋のライン。手の大きさ。喉仏は見えないが、骨格が、どこか——
「おお、来たな」
村雨会長の声。事務所から出てきた会長が、晶とその人物の間に立った。
「紹介する。
沈黙。
晶は、目の前の人物を見つめた。
華憐と呼ばれたその人も、晶を見つめ返している。
視線が絡む。
晶の胸の奥で、何かがざわついた。不快感? 困惑? それとも——
「……は?」
晶の口から、言葉が漏れた。
「コーチ? この人が?」
「ああ」
「会長、ふざけてんすか」
声が、自分でも驚くほど刺々しかった。
華憐は、微かに首を傾げた。長い髪がさらりと揺れる。甘い香りが漂ってくる。バニラと薔薇を混ぜたような、濃厚な香水。
「初めまして」
華憐の声。低めのアルト。想像していたより、ずっと落ち着いた響き。
「初鹿野華憐、本名は秘密★ これでも元ボクサーだ。よろしくな」
「元ボクサー……?」
晶は、華憐を頭からつま先まで見た。レースとフリルに包まれた、細身の体。どう見ても、ボクサーには見えない。
「嘘だろ」
「本当だよ」
華憐は軽く笑った。左手を上げ、拳を握る。その動作が——滑らかだった。無駄がない。晶は反射的に、その拳から目が離せなくなった。こいつは……。
「国体、優勝したこともある」
「……何級?」
「ライト」
晶の心臓がどくんと鳴った。
国体優勝。ライト級。それは、晶が目指している頂点だった。
「男子?」
「ああ」
沈黙。
男子。国体。優勝。
この、ゴスロリの格好をしたふざけた奴が?
信じられない。
「引退した理由は?」
「目。網膜剥離」
華憐は、右目を指さした。端的な理由だ。
「もうリングには上がれない。でも、教えることならできる」
晶は、言葉を失った。
村雨会長が、晶の肩を叩いた。
「晶。お前に必要なのは、技術じゃねえって言っただろ。華憐には、お前にないものを持ってる」
「何すか、それ」
晶が苛立ち混じりに問い返す。
会長は、ふう、と一呼吸おいて続けた。
「こいつは自分が何者か、分かってる」
晶は、華憐を見た。
華憐も、晶を見ていた。
その目が——深かった。
暗いのではなく、深い。
底が見えないほど、深い。
なんだ、この深さは。
こいつは一体何を知って……いや、それよりも……。
「嫌なら断ってもいい」
華憐が言った。
「俺は、無理強いはしない。でも、村雨さんから話は聞いてる。お前のこと」
「何を聞いた」
「強いけど、自分を閉じ込めてる。自分の檻の中で暴れてるだけだ、って」
晶の拳が、無意識に握り締められた。
図星だった。
自分でも言葉にできなかった何かを、この初対面の、見知らぬ人間に言い当てられた。それが悔しくて、腹立たしくて、でも同時に——
少しだけ、救われた気がした。
「……一回だけ」
晶は、搾り出すように言った。
「一回だけ、ミット持ってみろよ。それで判断してやる」
華憐は頷いた。
ゆっくりと、ワンピースの上からジャージを羽織る。動作が優雅だ。まるで舞踏会の準備でもするように。
リングに上がった華憐は、ミットを手に嵌めた。
その瞬間——空気が変わった。
晶は、自分の肌が粟立つのを感じた。
ゴスロリの装いはそのまま。レースのフリルが揺れている。厚底のシューズも履いたまま。なのに、その立ち姿が——違う。
重心の位置。肩の角度。視線の鋭さ。
こいつは本物だ。
気を引き締めた晶は、グローブを嵌めた。リングに上がる。
向かい合う。
華憐のミットが、静かに構えられた。
「来い」
晶は、左のジャブを放った。
——パンッ。
乾いた音。完璧に受け止められた。
もう一発。もう一発。ジャブ、ジャブ、右ストレート。華憐のミットは、晶の拳を正確に捉える。反動が、心地いい。
「もっと」
華憐の声。
晶は、コンビネーションを続けた。ジャブ、ジャブ、右ストレート、左フック、右アッパー。体が勝手に動く。華憐のミットが、一つ一つの軌道に合わせて移動する。
無駄がない。
音が、リズムになる。
「——ストップ」
華憐がミットを下ろした。
晶は、荒い息をついていた。汗が額を伝う。
「どうだった」
華憐の問いに、晶は答えられなかった。
分かっている。
いや、分かってしまった。
このミット打ちは、今まで経験したどのトレーナーとも違った。技術的に優れているというだけじゃない。
何かが——違う。
しかし、それが何かが、わからない。
ただ晶には、それが自分に必要な何かだ、ということだけは痛いほどわかった。
「お前、強いな」
華憐が言った。
「でも、まだ全然出し切れてない。やっぱり自分で自分を縛ってる」
「……」
「その縄、解くのを手伝ってやるよ」
晶は、華憐を見上げた。
厚底シューズのせいで、華憐の方が背が高い。逆光で、顔が影になっている。ボルドーの唇だけが、鮮やかに浮かび上がる。
「……いったい何者なんだ、お前……」
晶の声は、掠れていた。
華憐は、少し笑った。
「俺は俺だよ。それだけ」
その言葉が、晶の胸に突き刺さった。
俺は俺。
それだけ。
なんて単純で、そして——なんて眩しい言葉だろう。
窓の外で、鴉が鳴いた。九月の午後、まだ日差しは強い。ジムの中は汗と革の匂い。壁の時計は十四時三十二分。
晶は、自分の心臓が、いつもより速く鳴っていることに気づいた。
これは——何だ?
嫌悪か? 困惑か?
それとも、もっと別の——
ジムでは他の練習生たちが黙々と練習に励んでいる。
答えは、まだ出なかった。
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