第5話

 異世界に来て最初の夜は、もちろん眠れなかった。


 王城での一件を思い出すたび、胃がキリキリと痛む。

 あの翻訳者のおじさんの呆れた顔、役人たちの失望したような視線、そして最後に「使えない」とばかりに放り出された時の屈辱感。

 すべてが頭の中でぐるぐると回り続けている。


 でも、朝が来れば現実と向き合わなければならない。

 宿の窓から差し込む陽光で目を覚ました俺は、とりあえず昨日覚えた異世界言語を復習することにした。


「えーっと、パンは『ブレッド』で、水は『ヴァーテル』で……」


 単語帳なんてものはもちろんないので、記憶だけが頼りだ。

 昨日の翻訳者のおじさんが教えてくれた基本的な単語を必死に思い出しながら、小さな声で呟いてみる。


 しかし、だんだんと現実が見えてきた。

 俺に何ができるっていうんだ? 


 異世界転生といえば、現代知識で無双するのが定番だろう。

 でも、マヨネーズの作り方なんてうろ覚えだし、そもそも卵と油と酢を混ぜるだけっていうのは知ってるけど、具体的な分量なんて覚えてない。

 電話の仕組み? 電気が通って音が伝わるってのは分かるけど、じゃあどうやって作るんだって聞かれたら「知らないよ!」としか言えない。


 車だって、エンジンがあってガソリンで動くのは知ってるけど、実際に組み立てろって言われたら絶対無理だ。

 スマホに至っては、もう魔法の道具としか思えない。


「うーん、これは思ったより厳しいかも……」


 窓の外を見ると、もうすっかり街が動き出している。

 商人たちが荷車を引いて歩いているし、職人らしき人たちが作業場に向かっている。

 みんな忙しそうで、活気に満ちている。


 そんな光景を見ていると、ふと気づいた。

 この街、思ったより発展してるんじゃないか?


 宿の部屋から見える建物は、確かに中世風だけど、構造がしっかりしている。

 石造りの建物が立ち並び、道路も整備されている。

 上下水道まであるじゃないか。


「まさか……」


 急いで身支度を整えて、街を歩いてみることにした。

 昨日もらった銅貨を握りしめて、恐る恐る外に出る。


 街を歩いてみると、予想以上に発展していることが分かった。

 水道から出る水は綺麗だし、パン屋では機械を使って効率よくパンを作っている。

 鍛冶屋では、現代の工具に近いものを使って金属を加工している。


「これって、もしかして……」


 街の図書館らしき場所を見つけて、片言の異世界語でなんとか中に入れてもらった。

 そこで見つけた本を読んでみると、やはり予想通りだった。


 この世界には、俺より前にも転移者がいたのだ。

 それも、かなりの数の。


 本によると、過去数百年にわたって転移者が現れ、彼らの知識によってこの世界は急速に発展したという。

 農業では輪作システムが導入され、工業では水車や風車が活用されている。

 医学だって、現代日本ほどではないにせよ、かなり進歩している。


「マジかよ……」


 つまり、俺が思いついたような「現代知識チート」は、もうとっくに先輩転移者たちがやり尽くしているってことだ。


 しかも、図書館の司書さんに聞いてみると、最近の転移者は本当に優秀らしい。

 医者や技術者、科学者なんかが転移してきて、この国の発展に大きく貢献しているという。


 それに比べて俺は?

 ただの高校生。

 特技といえば、まあ、テストの点数はそこそこ良かったけど、それだって大したことない。

 実用的な知識なんて皆無だ。


「あーあ、どうしよう……」


 図書館を出て、とぼとぼと街を歩く。

 現代知識で無双する夢は、あっという間に砕け散った。


 でも、落ち込んでばかりもいられない。

 とりあえず、この世界で生きていく方法を考えなくては。


 そう思いながら歩いていると、大きな建物が目に入った。

 看板に書かれた文字を読んでみると、「冒険者ギルド」と書いてある。


「冒険者ギルド!」


 そうだ、冒険者になればいいんだ!

 異世界転生の定番中の定番じゃないか。


 俺は急いでギルドの中に入った。

 受付には、美人のお姉さんが座っている。

 これも定番だな。


「あの、冒険者になりたいんですけど……」


 片言の異世界語で話しかけると、お姉さんは優しく微笑んでくれた。


「初めての方ですね。こちらの用紙に記入してください」


 用紙を渡されたが、当然読めない。

 困っていると、お姉さんが親切に教えてくれた。


 名前、年齢、出身地、そして特技やスキルを書く欄がある。

 名前と年齢はともかく、出身地をどう書けばいいか分からない。

 「別世界」なんて書いたら変に思われるだろう。


 結局、適当に「遠い国から来ました」と書いておいた。

 そして、スキルの欄には「超健康」「健康」「初級魔法」「身体強化」と書く。


「では、簡単な能力測定をさせていただきます」


 お姉さんに案内されて、ギルドの奥の部屋に入った。

 そこには、いろんな測定器具が置いてある。


 まず、筋力測定。

 握力を測る器具のようなものを握ったが、結果は平均的だった。

 まあ、高校生の俺にムキムキの筋肉があるわけもない。


 次に、魔力測定。

 水晶のような石に手を触れると、薄っすらと光った。

 これも平均的らしい。


 最後に、実際にスキルを使ってみることになった。

 初級魔法で小さな火を出してみると、お姉さんは「普通ですね」と言った。

 水を出してみても、風を起こしてみても、反応は同じだった。


「それでは、『超健康』のスキルを拝見させていただけますか?」


 え? これどうやって見せるんだ?


「あの、これは病気を治したり、怪我を早く治したりするスキルなんですけど……」


「そうですね。でしたら、軽い毒を飲んでみてください」


 え? 毒?


 お姉さんは、小さな瓶を取り出した。

 中には緑色の液体が入っている。


「これは軽い麻痺毒です。普通の人が飲むと、しばらく体が痺れますが、命に別状はありません」


 うわあ、いきなりハードル高いな。

 でも、『超健康』があれば大丈夫なはず。


「分かりました」


 恐る恐る毒を飲んでみる。

 味は……まずい。

 苦くて、なんともいえない後味だ。


 しかし、飲んで数秒もしないうちに、体の痺れは消えた。

 『超健康』のおかげで、状態異常が瞬間的に治癒されたのだ。


「おお、これは確かに『超健康』のスキルですね」


 お姉さんは感心したような顔をしてくれた。


「でも、実戦ではどうでしょうか? 毒を使う魔物は多いですが、それ以外の攻撃もありますからね」


 確かに、毒に耐性があっても、物理攻撃でやられたら意味がない。

 しかも、俺には戦闘経験なんて皆無だ。


「初心者の方でしたら、まず弱い魔物から始めることをお勧めします。それと、毒系の魔物が多い場所なら、そのスキルを活かせるかもしれません」


 毒系の魔物が多い場所?


「この王国の近くでしたら、『腐毒の森ジェノミニカ』という場所があります。そこは毒、麻痺、腐食の状態異常を起こす魔物が多数生息していて、普通の冒険者にはあまり人気がありません」


 おお、これはチャンスじゃないか!

 他の冒険者が避けるような場所なら、俺の独壇場になるかもしれない。


「そこで魔物を倒したり、素材を採取したりできるんですか?」


「はい。ただし、危険な場所でもありますので、しっかりと準備をしてから行くことをお勧めします」


 よし、決めた!

 俺は『腐毒の森ジェノミニカ』で冒険者デビューしよう!


 冒険者登録を済ませて、ギルドを出た俺は、さっそく装備を買いに行くことにした。

 武器屋で剣を見てみると、値段の幅がすごい。

 一番安いのは銅貨数十枚だが、高いのは金貨何枚もする。


 俺の所持金では、当然安いのしか買えない。

 鈍く光る鉄の剣を手に取ってみると、思ったより重い。

 でも、これしか選択肢がない。


「これください」


 次に防具屋へ。

 ここでも、値段の差は歴然だった。

 立派な鎧は金貨何枚もするが、安いのは革製の粗末なものだ。


 結局、革の胸当てと籠手、それに盾を購入した。

 見た目は貧弱だが、ないよりはマシだろう。


 最後に、回復薬を買いに薬屋へ。

 ここでも値段の差に驚かされた。


「こちらが低級回復薬です。軽い怪我でしたら、これで十分でしょう」


 薬屋のおじさんが見せてくれた小瓶は、銅貨十枚。

 高級回復薬は銀貨五枚、超級回復薬に至っては金貨三枚もする。


「と、とりあえず、低級回復薬を三本ください」


 これで俺の所持金は、ほぼ底をついた。

 でも、必要最低限の装備は揃った。


 宿に帰って、新しい装備を身に着けてみる。

 鏡を見ると、一応冒険者らしくは見える。

 まあ、貧乏冒険者だけど。


「よし、明日はいよいよ冒険デビューだ!」


 こうして、俺の冒険者生活が始まろうとしていた。

 この時の俺は、まだ知らなかった。

 冒険者になるのと、冒険者として成功するのは、全く別の話だということを。


 でも、とりあえず今は希望に満ちている。

 『腐毒の森ジェノミニカ』で大活躍して、一攫千金を狙うんだ!


 そんな夢を抱きながら、俺は眠りについた。

 明日からの冒険が、楽しみでしょうがない。


 まあ、現実はそんなに甘くないんだけど、それは明日になってから分かることだった。

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