裏顔モデル

藍川陽翔

第1章 二つの顔

朝の光がまだ柔らかく校舎を照らす時間、橘紗良(たちばな・さら)は、いつものように重い足取りで玄関を出た。制服は地味な紺色のブレザーにグレーのスカート。誰の目にも平凡な女子高生に見えるはずだった。


「今日も誰にも気づかれないかな……」

小さくつぶやく声が、まだ眠たげな空気の中に溶けていく。


紗良の胸の奥には、常に張り詰めた緊張があった。表向きの彼女は普通の高校生だ。しかし家に帰れば、鏡の前に立つのは「神谷颯(かみやはやて)」――雑誌やSNSで知られる、今もっとも人気のある美男子モデルだ。


学校へ向かう道すがら、クラスメイトとすれ違うたび、紗良の心臓は小さく跳ねる。誰かが気づいたら――。その恐怖が、まるで針のように胸を刺す。


「おはよう、紗良ちゃん」

「……おはようございます」


返事を交わす声が、いつもよりぎこちなく響く。目線を合わせすぎないようにしながら歩くと、友達の笑顔がどこか遠くに見えた。自分だけが違う世界の人間であることを、誰にも知られたくない――孤独は日常の一部になっていた。


家ではもう一人の自分


放課後、紗良は急いで家に戻る。廊下を走り抜け、部屋のドアを開けると、そこには颯の世界が待っていた。カメラマンやスタイリスト、ヘアメイクの光と香り。目の前にあるのは、誰もが羨む華やかな世界。


「颯、表情をもう少し柔らかく」

スタッフの声に従い、紗良は鏡の前で微笑む。完璧なイケメンの笑顔は、学校の地味な制服姿とはまるで別人のようだった。


鏡越しの自分に、小さな声でつぶやく。

「本当にこれ、私……?」


指先が額に触れる感覚だけが、現実に戻る手がかりだった。衣装の下に隠された体は間違いなく女子高生。だが、顔を作り込めば、誰もそのことに気づかない。華やかさと孤独、二つの世界が重なり合う。息苦しさはいつも、胸の奥で渦巻いていた。


秘密を抱える日常


その夜、ベッドに横になりながら、紗良は自分の心に問いかける。

「どうして、私、こんなことしてるんだろう……?」


答えはすぐには出ない。学校で普通に友達と笑いたい。だけど颯としての自分も捨てられない。二つの顔を持つことの意味が、時に重くのしかかる。


ふと、スマホに届いたファンメッセージを見つける。

「颯くん、大好き! いつも応援してる!」


胸がぎゅっと締め付けられた。嬉しい。でも同時に恐怖もあった。もしこの人たちが、私の正体を知ったら――。恐れと期待、焦燥と孤独が、夜の静けさの中で絡み合う。


「明日も……頑張らなきゃ」

小さく息を吐き、瞼を閉じる。


外の世界では、紗良はただの地味な女子高生。

鏡の前では、誰もが憧れる美男子モデル。


二つの顔を持つ少女の、長く短い一日が終わろうとしていた。

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