第3話 違和感と音の重なり
朝のハノイは、夜の熱をそのまま抱えている。
バイクタクシーの真横を通り抜ける街路樹の葉は緑に映え、バイクの波が通りを縫っていく。コウザイ地区、ズイタン通りのオフィスビルに着くまでの短い移動でも、シャツの襟は湿り気を含む。
冷房の効きすぎたオフィス内に入ると、世界は一度だけ薄くなる。谷崎は自席に荷物を置き、PCを起動した。
昨日――ホアンキエム湖のそば、ドンキンギアトゥック広場で開かれた友好フェス。撮った写真は三十枚どころか百枚に達していて、デスクトップの端でフォルダが光っている。名前は「友好の懸け橋」。送信済みの報告書に添付した後も、谷崎はそれを消せずにいる。
メールの受信音。上司から業務連絡が届く。
――「スポンサーとしての立場があるため、イベントのレビューを早く仕上げて投稿してください。日本人の感想が重要だから頼みます」
ルミナス・システムズ・ベトナムには、谷崎を含めて日本人が三名いる。他の二名は仕事面では非常に優秀だが、協調性に大きな問題があるため、このような雑務は谷崎に多く回ってくる。谷崎はメッセージを読むと「またか」と軽く頷き、ペットボトルの水を一口飲む。昨日の音楽が、まだ耳の奥で生きている。
「――タニザキさん、昨日のノーザンライトのライブ動画、かなり投稿されてます」
背後からの声は、広報担当のトゥアンだ。
「レビューは短くてもいいので、早めにお願いしたいです。イベント全体ではなくて、ノーザンライトのレビューを多めでお願いします」
「――分かった。昼までに連絡するよ」
トゥアンが満足げに去ると、室内の静けさが戻ってくる。
冷房の風が書類の角をめくり、蛍光灯の白が机の木目を平らにする。谷崎は画面を二つのウィンドウに分割、右に写真、左に文章。昨夜つけたメモの断片が、いくつか残っている。
――「音楽による文化交流」「ビートの往復」「音を外す勇気」
そこで、誰かがデスクの端を軽く叩いた。
「タニザキさん、昨日のライブ、楽しかったですか?」
グエン・トゥアイ・ナムが、紙コップのコーヒーを二つ持って立っていた。
「ありがとう。良かったよ。音楽も、気持ちも」
「最初は下手でした」ナムは笑ってコップを一つ置く。
「そう、ヤバかった」
「それでも、音を外すのは悪くないです。ベトナムの音楽、故郷の村の祭りでも外れる。誰かが待つから。待つ文化、あります」
谷崎は頷く。
「昨日、手拍子が迷った瞬間に、誰かの声が前に出た。あれでリズムが戻ったよね」
「はい。僕のおばあさんはいつも言う。“橋は真っ直ぐではない。なぜなら、河が曲がっているのだから”」
ナムはモニターの右端に表示されている写真を指差す。アオザイ風の衣装が風にほどける三人の笑顔。
「ノーザンライト。ルナ、ヨル、ハル。かわいいだけじゃない。昨日の最後、声はちゃんと重なりました」
「あの瞬間、みんなの心が重なった気がした」
「そう。重なるの、僕は好き」
ナムはコーヒーを一口飲み、ふと小声になった。
「ところでタニザキさん、この前からネットワーク、ログの波、少し変です。細かい話はしない。でも、“何かの考え”がある感じ」
谷崎は視線を画面に戻し、うなずく。
「分かった。必要なことだけ見るよ」
「それが良いです」
「ありがとう……それより、ゲーム案件は大丈夫なの?」
「大丈夫、タニザキさんは心配性ね」とナムは笑顔で去った。机の上に残った紙コップの熱が、ゆっくり冷える。
谷崎は一度、目を閉じる。湖から遅れて届く風、屋台の油が弾ける音、氷がグラスの壁を叩く高音、EDMの低音、そして人の声。昨日は、そのすべてがステージの上と下で溶け合っていた。指が動く。
本気の日越友好!フェスティバル――ノーザンライト・ライブ感想(後日)
完璧ではない。だから、良い。
ノーザンライトはリズムを追いかけ、時に外し、また合わせ直した。
その往復が、広場にいた見知らぬ人々の呼吸を一つに束ねる瞬間を作っていた。
ハノイの熱は声に厚みを持たせ、ミスの輪郭を柔らかくする。
音は整えるためではなく、許すためにある。
文化交流の神髄はここにある。――昨日、そう思った。
昼近く、トゥアンが再びやって来る。
「レビュー、読ませてもらえますか?」
谷崎は画面を少し回す。彼は声に出して読んだ。
「完璧ではない。だから、良い――わかります。昨日、僕はステージ横にいたんです。ミックスは荒かったけど、リズムをみんなで作る感じがありました」
「誰かのミスを、誰かが待っていたからだ」谷崎は言う。
「待っている間に、別の声が前に出る。ライブって、そういう場所なんだと思う」
「ありがとうございます。これでSNSに投稿しますね」
午後、上司から「良いレビューです。英語版もお願いします」と指示が入る。谷崎は翻訳の草稿を走らせ、最低限のチェックだけを入れてトゥアンに連絡する。
カーソルを元の文書欄に戻したとき、ふっとユキの名前が背中から降りてきた。昨日、最後の曲のサビで声がぴたりと重なった瞬間――ユキを失った哀しみが、そっとほどけていく感覚を思い出す。
夕方、オフィスの外の光が和らいだ頃、ナムからメッセージが来た。
――「旧市街、今夜、小さいバーでノーザンライトの練習あります。見ますか?」
谷崎は迷った末、「行く」と返す。仕事を切り上げ、バイクの波を縫い、小さなバーへ向かった。店の灯りは低く、壁に貼られたポスターに昨日のステージ写真が小さく印刷されている。ナムは既にカウンター奥にいて、手を振った。
「来たね。タニザキさん」
「昨日の歌、また聞けるかな」
「たぶん。今日は練習だけ。音響、シンプル」
二人はグラスの水で乾杯した。
ステージには簡易のマイクが三本。私服姿のノーザンライトの三人が、スタッフと目配せをしながら、短いフレーズを何度も繰り返す。ルナがリズムを刻み、ヨルが母音を伸ばし、ハルがハーモニーの入る位置を探る。外のバイクの合図がドア越しに丸く届き、店内の音と重なる。
「タニザキさん」ナムが小声で言う。
「昨日、僕は最初の曲で“下手ね”って笑った。でも今の練習の声、好きです。完璧になるためじゃなくて、調和するための声。うまく言えないけど」
「分かるよ」谷崎は答える。「ライブって、その場の空気を調和しながら、正解を探していくんだ。正解にたどり着くためには、相当の練習が重要だろうね」
ナムは一瞬、目を伏せる。「タニザキさんは日本の話、あまり話さない。でも、昨日の最後のサビ、顔が少し楽になった。よかった」
谷崎は短く笑う。「音がきれいに重なると、人間はその瞬間に集中するのかも」
「それ、いい言葉ね」
三人の練習が終わり、バーの店主が軽く拍手を送る。ルナがマイクを下げ、客席に一礼。気づいたヨルが二人に向かって手を振り、ハルが小さな声で「ありがとう」と言う。日本語は少し歪んでいるが、意味は真っ直ぐだ。
店を出ると、旧市街の夜は薄緑の熱を帯びていた。クラクションが重なり合い、合図の層を作る。歩道に並ぶ屋台から、油と香草の匂いが漂う。ナムと並んで歩くと、彼はポケットから折り畳んだ紙を取り出して見せた。
「今日のレビュー、印刷しました。母に見せます。母は日本語、勉強してる」
「ありがとう。少し恥ずかしいけど」
ナムは肩をすくめる。
「母は言う。“外れても、笑って進めばいい”。昨日の三人、そうしてた」
別れ際、ナムが立ち止まった。
「タニザキさん、明日の午前、ログの波、また見ますか? 必要なら手伝います」
谷崎は短く考え、「必要なことだけ見る」と答える。
「うん。必要なことだけ。十分です」
帰りのタクシーの中、谷崎はPCを開いて暗号化タグのログを開く。指先でスクロールするたび、画面の中の砂がわずかに流れ、違和感が光る。しかし深追いはしない。――頭の中で、ナムの「橋は真っ直ぐではない」という言葉が響く。
アパートに戻り窓を開けると、バイクの走行音やクラクションが溢れる。冷房を弱め、机にスマホを置いて、フォルダ「友好の懸け橋」を開く。昨日の写真の中に、一枚だけ、ピントがわずかに甘いものがある。
サビの直前、ルナがリズムを拾い直そうと、指先を小さく握った瞬間。周囲の光が微妙に揺れ、風を掴む。完璧じゃない。だから――そこに、人がいる。
スマホが振動した。ノーザンライトの公式アカウントから、会社のアカウントに対する返信だ。
「レビュー読みました。ありがとう🥰 次もみんなを一つにします!✨」
暗闇の中で、街の音は少し暑苦しい。けれど、昨日よりも軽い。胸の膜は、汗に溶けて薄まっている。ユキの名前は、波の向こうで静かに立っている。消えない。ただ、近づきすぎない。
音がきれいに重なると、人間はその瞬間に集中する――今を生きるその感覚を、谷崎は新しい習慣にしたいと思う。
ハノイの夜はゆっくり回転し、静かに広がっていく。
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