第6話 名もなき牢番編 ─官渡の戦い─

(1)籠の番人


冀州きしゅうぎょうの城の下牢は、いつも湿っていた。

石壁から滴る水が、夜になると小さな音を立てて落ちる。

松明一本の灯りが、長い通路をぼんやり照らすだけ。


牢番は、もう長いことこの役目を続けていた。

名など、誰も呼ばない。


ただ、毎朝鍵束を鳴らし、盆を運び、扉を閉める。

上からの命令に従う。

理不尽な戦に巻き込まれ、ただ黙って従う。


──それが、彼の生き方だった。



 *        *        *



呂布りょふを退け、徐州じょしゅうを飲み込み、中原ちゅうげんに覇を唱えた曹操そうそうが、ついに北方の雄・袁紹えんしょうへと牙を剥いた。


曹操の軍が官渡かんとに布陣し、これを迎え撃つべく主公しゅこう・袁紹が大軍を南下させ、黄河を渡ったという報せはすでに届いていた。

圧倒的な物量を誇る袁紹軍の勝利を、誰もが疑わなかった。


そんなある日、奥の独房に新しい囚人が入れられた。


田豊でんほう


袁紹の元で許攸きょゆうと並び立つ、稀代の謀士。


彼は、主公・袁紹に諫言しすぎた、という。


牢番は、鉄格子の隙間から盆を差し入れながら、ちらりと見た。

瘦せた体。

衣は乱れていないが、顔には疲れが滲んでいる。

それでも、目は静かで、底が深い。


──俺と、そう変わらぬ。


田豊は盆を受け取ると、独り言のように呟いた。


「主公は、天下を取れる器だ。だが、このままでは堕ちる。

曹操は疲弊している。持久戦に持ち込めば、自壊するはずだ。

今動けば、無駄な血が流れるだけ……」


声は低く、牢の壁に吸い込まれるように消えた。


よくある囚人の戯言だ。

だが牢番は、足を止めた。


冷たい石の床を踏む足裏に、じわりと緊張が伝わり、膝の裏が小さく震えた。


聞き流せなかった。


──正しい。


そう思ってしまった。


だが、自分はただの牢番。

口を出す資格などない。


外の通路の向こう、大殿の方から、鋭く風を切るような声が響いてきた。

許攸の声だった。


「主公、勝つなら今だ。 曹操など、鼠のようなもの。才ある我らを活かせば、天下はすぐそこだ!」


潔く、遠くまで響く声。

周りの将たちが、ざわめく。

士気が上がる。


田豊を見た。

強く拳が握られていた。


──お前もか。


俺も、理不尽な命令に黙って従うたび、拳を握ってきた。

許せないのに、口を出せない。

ただ、耐えるだけ。


田豊は、拳を握ったまま、わずかに笑った。


「奴の舌は、まさに剣だ。正しさを切り裂く」


声は低く、苦い。


牢番は、鍵を回す手を強く握った。

指が、痛いほど食い込んだ。


──お前も、それが許せなかったのか。


自分は牢番で、田豊は囚人。

ただ、それだけの違いだった。


牢番は、松明の影に紛れ、息を殺した。

胸の奥で、何かが叫んでいた。


声には、ならなかった。




(2)燃える夜


官渡の戦いは、膠着を続けていた。


だが袁紹の軍は兵が多く、糧も豊富で、誰もが曹操の敗北を待っているかのようだった。


ただ、鄴の城の下牢では、日々が変わらず過ぎるだけ。


牢番は、盆を運ぶたび、田豊の声を聞くようになった。


「兵糧を一箇所に集中してはならない。曹操は奇襲を狙う。兵糧のある烏巣うそうの守りを固くせよ。許攸の才を軽んじるな。あの男は、認められなければ……」


声は低く、独り言のように牢の空気に溶ける。

牢番は、聞き流せなくなっていた。


看守仲間から、噂が漏れ聞こえるようなった。


「許攸が、主公に才を認めろと迫ったらしい。」

「却下され、静かに盃を置いて席を立ったそうだ。」

「目だけは、冷えていた。」


牢番は、理解した。


許攸の生き方。

才ある者は、才を認める主に仕える。

認められなければ、去る。


それが潔い。


牢番は、盆を置く手を止めた。

見れば、田豊の握る拳に血が滲んでいた。


──許攸は、動ける。

なぜ、それが許される。

なぜ、それを許せる。


凛として立っていたい。

だが、乱世ではそれは決して叶わない。


鍵を握る指が、白くなった。

息が、わずかに荒くなる。


外の通路は、兵たちの笑い声で満ちていた。


牢番は、扉を閉めた。

鉄と鉄が噛み合う重い音が、耳に鋭く残った。

今日も自分の手で。

鉄と鉄が噛み合う音が、はっきりと耳に残った。


──俺も牢獄にいる。



 *        *        *



その夜、鄴の城は突然にざわめいた。

遠くの空が赤く染まり、煙の匂いが風に乗って牢の下まで届いた。


牢番は、盆を運ぶ途中で外に駆り出された。

兵たちが走り回り、将たちの怒声が響く。


「烏巣が、兵糧が焼かれた!」

「曹操の奇襲だ!」

「許攸が……許攸が曹操に降った!」


牢番は、慌てて通路を戻った。

松明の炎が激しく揺れ、影が壁を這う。


胸の奥で、苛立ちが熱くなった。

田豊の独房の前で、息を整えた。


鉄格子の向こうは、異様に静かだった。

外の騒ぎが、遠い波のように聞こえるだけ。


牢番は、思わず声を漏らした。

小さな、掠れた声。


「許攸が……裏切ったそうだ。烏巣を、教えたと。」


田豊は、壁に背を預けたまま、笑った。

瘦せた顔が、松明の光に浮かぶ。


「さすがだな。」


それだけだった。

疲れた、確認のような呟き。


牢番は、鉄格子に手をかけた。

苛立ちが、喉までせり上がる。


「なぜ怒らぬ。」


声は、震えていた。

初めて、牢番は田豊に話しかけていた。


田豊は、静かに牢番を見た。

握った拳に、血が滲んだまま。


「許攸は正しい。才ある者は、才を認める主を選ぶ。」


牢番は鉄格子を掴んだ。


「怒ってくれ。俺の代わりに。叫んでくれ。悔しいと。」


視界が歪み、格子の影が滲んだ。

これ以上声を出せば、何かが壊れそうだった。


外では、炎が上がり、叫び声が重なる。

袁紹の大きな籠が、音を立てて傾いた。


牢番は、鍵を握ったまま、立ち尽くした。


煙の匂いが、牢を通り抜けていった。

籠の内側は、すべてが燃え始めていた。




(3)大きく欠けた月


わずか数日で決着した。


兵糧を無くした袁紹の軍は瞬く間に壊滅し、河北の空は曹操の色に染まり始めていた。


半年前に十万と誇った大軍は、今や千に満たぬ数になったという。


鄴の城は、静けさを取り戻した。

死んだような静けさだった。


牢番は、盆ではなく、袁紹から預かってきた剣を運んできた。


田豊の独房の前で、立ち止まった。

鉄格子の向こう、田豊は座したまま、静かに待っていた。


「主公の怒りが、お前に向かった。この剣で、自害せよ、とのことだ」


手が、震えていた。


──俺は、彼に剣を渡してしまうのか。

この真っ直ぐな瞳の男を、何も成さずに逝かせるのか。


胸の奥で、叫びが渦巻く。


──俺の腰の鍵を奪ってくれ。

殴ってもいい。

剣で俺を一突きにしてもいい。

逃げろ。

生きろ。


だが、田豊は、


「そうか。」


と、わずかに笑った。


鞘を抜く音が、牢に響いた。

冷たい鋼の光が、松明に揺れる。


田豊は、立ち上がり、言った。


「最期に、月を見せてくれないか。」


牢番は、もう何も言えなかった。


視界が、滲んだ。



 *        *        *



足枷を付けた囚人が屋敷の廊下を歩く。


牢番は、鍵を鳴らして従う。


大きく欠けた月が、しかし明るく二人を照らした。


「月は綺麗だ」


田豊は自分の首に刃を当てた。


「悔しくないのか」


牢番は、絞り出すように問うた。


自ら死にゆく者にかける言葉ではない。

それでも、言わずにはいられなかった。


田豊は、牢番を見返した。

静かな目で、優しく。


「お前は悔しいか」


胸を、鷲掴みにされた。


たった一言の、次の言葉を返すのに、どれほどの時間をかけただろう。


「悔しい」


月が滲んで見えた。

これ以上声を出すことはできなかった。


田豊は優しく笑い、牢番の目をもう一度覗き、

月を見上げて、静かに刃を引いた。


風が吹き、月の光を揺らした。


鍵が、月光を受けて鈍く光っていた。





【歴史解説】官渡の戦いと袁紹軍の自壊


1. 圧倒的な物量と「烏巣」の陥落

 西暦200年、河北を制した袁紹は10万の精鋭を率いて南下しました。対する曹操は数分の1の兵力で官渡に布陣します。膠着状態を破ったのは、袁紹の幕僚であった許攸の裏切りでした。彼は、袁紹軍の兵糧基地である「烏巣」の守備が手薄であることを曹操に密告。曹操自らが行った火計により、袁紹軍は一夜にして食糧を失い、崩壊へと向かいました。


2. 諫臣かんしん・田豊の悲劇

 田豊は、袁紹に対して「持久戦により曹操を疲弊させるべきだ」と主張しましたが、開戦を急ぐ袁紹の逆鱗に触れ、開戦前に投獄されました。本作で描かれるように、官渡での敗報を聞いた袁紹は、自分の失策を恥じるのではなく、田豊の予見が正しかったことを疎み、彼に死を命じました。真実を語る者が死に、虚飾を語る者が重用される組織の末路が、ここに凝縮されています。


3. 許攸の選択

 許攸は曹操の古い友人でもありました。彼は自身の策が袁紹に容れられず、身内に不祥事があったことをきっかけに曹操へ走ります。許攸の裏切りは、軍事的な打撃以上に、袁紹陣営の「人心の離反」を象徴する出来事でした。



【コラム】桃園の誓い ── 「同じ戦場」で死ぬという覚悟


 本作の「官渡編」において描き出されたのは、「同じ器にありながら、決して共鳴しない心」の悲劇です。


 かつて関羽が千里を走って劉備のもとへ帰ったのは、損得や生死を超えた「桃園の誓い」があったからです。それは、死ぬ場所を自ら選ぶという究極の自由であり、幸福でした。しかし、袁紹の軍に集った者たちは、巨大な力に身を任せながらも、その魂はバラバラの「個」として孤立していました。


 特筆すべきは、本作独自の視点である「名もなき牢番」の存在です。彼は田豊という高潔な魂に触れることで、自分もまた「袁紹」という理不尽な籠の中に閉じ込められた囚人であることに気づかされます。許攸は戦場を裏切ることで生き残り、田豊は牢獄という戦場で独り死を迎えました。三兄弟が持っていた「共に死ねる絆」を持たぬ者たちが、崩れゆく巨大な籠の中で、互いに違う方向を向いて絶望していく様が対比的に描かれています。


 「お前は悔しいか」 田豊が最期に遺したこの問いは、読者に対しても、乱世という不条理に対してどう立ち向かうかを問いかけています。田豊は自分の正しさを曲げずに死ぬことで、魂だけは「籠の外」へ出たのかもしれません。


 大きく欠けた月が照らす下、田豊が自ら引いた刃の音。それは、河北に君臨した袁紹の時代の終わりを告げる鐘の音でもありました。理を尽くした者が死に、欲に走った者が去り、あとに残ったのは焦土と、名もなき牢番の胸に刻まれた「悔しさ」という名の真実だけでした。




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