第二話
家が焼け落ち、一人娘——あるいは可愛い孫——を失った彼らは、住宅街付近の団地でしばらく生活をすることとした。不幸中の幸いとして火災保険金と生命保険金が彼らには与えられた。加えて室伏の蓄えも十分にあった。このため生活の質は以前と変わらなかった。
一方、家庭の雰囲気は重苦しかった。特に、病院における事情聴取の中で発せられた「佳奈美ちゃんが死んだのは、私のせいなんです。私が誰よりも大きい声で、佳奈美ちゃんがベッド泣いているのがわかっているのに、『助けて!』と叫んで、武夫に助けを求めたんです。もし、私が私の場所を知らせなきゃ、武夫は……」という静子の供述が家庭の空気を重くした。
老女は嘆いた。
妻は恨んだ。
ただし直美が恨んだのは、義母ではなく夫であった。彼が母親の大音声に従って、愛娘を救わない選択をしたことが恨めしかったのだ。
室伏は母の嘆きを、妻の憎悪を、家庭内で一身に受けた。食卓を囲うときはそれが如実に表れた。火事以降、食べる量が目に見えて減った母からは解決できない罪の意識を感じ、今後の話をしても無言を貫く妻の冷たい視線からは憎悪を受け取った。肉親と最愛の人から向けられる二種の感情は、彼に精神的な重圧をかけ、あらゆる食事の温度と味を消した。もはや、三人そろって食卓を囲むことは、食事を無に帰す行為となったのだ。
一家団欒は火事以来、姿を消した。家庭の時間を大切にしていた室伏も、自らの親類愛から生じた後悔から逃れるため仕事に没頭した。彼の姿は家庭から消えた。その姿は近所に間借りしたアトリエと仕事をくれる大学や画塾、絵画教室に現われた。
仕事に没頭する彼の姿は傍から見れば『不慮の事故』によって家を失った男が、家庭を支えるために馬車馬のように働く悲劇的な労働者像として映った。団地に住む者たちは、そんな彼に一種の理想を抱いた。毎晩遅く音を鳴らさないように三階まで階段を上り、蝶番の音が響かないようにそっと玄関扉を開けて家庭に消えゆく男の姿は家庭に従事する理想的な男であったのだ。ゆえに、彼の姿をときおり見掛ける彼らはそこに同情を注ぐと同時に、自分自身の所属する家庭を支える者たちに嫌悪を覚えた。
外聞の良さは近所付き合いをせざるを得ない直美と静子の耳にも届いた。悲劇の英雄、家庭の殉職者、そのように形容できる室伏への評価は彼女らにとって耳障りだった。当番制の朝清掃に参加した際、毎回聞かされる彼への評価に二人は凝り固まった微笑を浮かべ、生返事を返した。この様は団地住民の目に奇妙に映った。特に、「あの人が、いや、私たちが原因ですから、働くのは当たり前なんですよ」と、平坦な声音で語る直美の姿は、家庭が一つの方向に収束していく予感を対話者であった老婦人に抱かせた。
家庭から脱した室伏と言えば、アトリエで、教室で、自身に刻み込まれた選択の結果に苛まれていた。油絵具に、銀メッキが輝く油壺に、パレットナイフに、漏電によって迸っただろう火花を見た。アトリエと家、愛娘を悉く焼き尽くした原因と、それを可能とした自分のあらゆる選択がその光景に集約されていた。
仕事をすれば精神が苛まれる状況に彼は耐えた。
眼前に炎と黒煙が立ち昇ろうとも、肌を焦がす灼熱を感じようとも、耳奥で乾いた木の燃える音が聞こえようとも、彼は平然を装った。騒々しい休日の油絵教室で「先生。ここの絵具、剝がしたいんですけど、どうすればいい?」と、小学校低学年の女子生徒から尋ねられても彼は努めて優しくやり方を教えた。
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