第三話 綻びと情報の漏洩②
昼食時、逃げるように席を立とうとした僕の肩を、ずしりと重い手がつかんだ。
「佐藤くん、ちょっといいかな。大事な話があるんだ」
振り返ると、そこには課長がいた。
つい先日まで、僕の見積書の不備をフロア中に響き渡る声で罵倒していた男だ。
だが、今の彼の顔には怒りなど微塵もなかった。脂ぎった顔をテカらせ、糸のように細めた目で僕をねめつけている。その表情は、部下を見る上司のものではなく、有望な投資物件を吟味する強欲な商人のそれだった。
案内されたのは、役員用の応接室だった。
重いドアが閉まり、静寂が訪れる。課長は僕を上座に座らせると、自分はあえて対面のソファの端に、背を丸めて座った。
「いやあ、驚いたよ。君のような有望な若手が、まさかそんな幸運を手にしていたとはね。ずっと目をつけていたんだ、君の忍耐強さには」
どの口が言うのか、と吐き気がした。僕の忍耐を試していたのは、他ならぬこの男の理不尽な恫喝だったはずだ。
「実はね、佐藤くん。僕には夢があるんだ。この古臭い会社を飛び出して、新しいコンサルティング会社を立ち上げる。
君も今の仕事に限界を感じているだろう?
どうかな、僕に出資してくれないか。君は役員として名を連ねるだけでいい。……とりあえず、一億ほどあれば、一等地のオフィスが押さえられるんだが」
一億。
彼の口から出たその数字は、あまりに軽かった。僕が十億持っていることを前提に、まるで小銭をせがむような気安さで、僕の人生の対価を要求してくる。
「……考えさせてください」
僕が絞り出すように言うと、課長の目が一瞬、冷酷な光を宿した。
「考えさせて? 佐藤くん、君は恩というものを知らないのか。君がミスをするたびに、誰が頭を下げて回ったと思っているんだ。
これくらいの協力、君の資産からすれば端金だろう?」
恩。その言葉が空虚に響く。彼が守っていたのは僕ではなく、自分の管理責任だけだったはずだ。
応接室を出ると、今度は同僚たちが待ち構えていた。
「佐藤! 今日の飲み会、銀座の店予約しといたからな。もちろんお前の奢りだろ?」
「佐藤さん、私、ずっと欲しかったバッグがあるんです。佐藤さんにとっては端数みたいなものですよね?」
断ろうとすれば、即座に空気が冷え切る。
「なんだよ、金持った瞬間にケチになったのか?」
「変わったよな、お前。昔はもっといい奴だったのに」
善意という名の薄皮を剥げば、そこにあるのは剥き出しの「タカリ」だった。
彼らは僕を佐藤健一という人間として見ているのではない。蛇口をひねれば無限に金が出てくる「幸福な装置」として見ているのだ。
彼らの笑顔の裏側に透けて見えるのは、自分たちが手にできなかった幸運への嫉妬と、それを「お裾分け」という免罪符で略奪しようとする卑しい本能だ。
このフロアには、もう僕の味方は一人もいない。
かつては、仕事の不満を言い合える仲間だと思っていた連中が、今は僕の肉を狙うハゲタカの群れに見える。
僕は震える指で自分のデスクの引き出しを閉めた。ここには、僕の居場所も、僕のプライドも、もう一欠片も残っていなかった。
神の恵みだと思った十億円は、一週間も経たないうちに、僕の周囲の人間をすべて「亡者」へと作り変えてしまったのだ。
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