第一話 十億の狂気③

 翌朝、目が覚めた瞬間に感じたのは、身体の芯に沈殿したような重い違和感だった。


 三万八千円の家賃相応に薄い布団。カビ臭い湿気を吸った壁紙。窓の外から聞こえる、隣人の安っぽい目覚まし時計の音。

 昨日まで僕を構成していた「日常」が、まるでサイズの合わなくなった古い脱殻のように、肌に不快な摩擦を与えてくる。


 枕元に置いた通帳。そこには、神崎が印字した「十億」という数字が静かに、だが圧倒的な質量を持って鎮座していた。

 僕はいつものように駅へ向かい、満員電車に乗り込んだ。

 押し寄せる人の波。湿ったコートの擦れる音。誰かが吐き出したコーヒーの匂いが混じった生温かい呼気。いつもなら、ただ無心に耐え忍ぶだけのこの空間が、今は耐え難いほど醜悪な「泥沼」に見えた。

 吊り革を握る僕の右手が、不意に誰かの背中に触れる。反射的に指を引っ込めた。


(汚い――)


 そう思った。瞬間に、背筋が凍るような戦慄が走る。

 僕の視界が、今までとは異なるフィルターを通していることに気づいたのだ。

 正面に立つ中年のサラリーマン。擦り切れたカバンを抱え、疲れ切った顔で虚空を見つめている。彼の年収はおそらく五百万。一生、この満員電車に揺られ、定年まで心身を削り取られても、手にする総額は僕の通帳の一画にも満たない。


 隣の女子学生。熱心にスマートフォンの画面を指で弾いている。彼女がこれから数十年かけて積み上げるキャリアも、夢も、挫折も、僕の口座にある「ゼロ」を一つ分すら動かすことはできない。

 ……弱者だ。

 不意に脳裏に浮かんだその単語が、心地よい毒のように全身を巡った。

 ここにいる誰もが、僕が持っているものの正体を知らない。彼らは、自分がどれほど惨めな椅子取りゲームに参加しているかも気づかず、明日の昼飯の値段や、来月のスマホ代を心配しながら生きている。


 彼らと僕は、もう同じ種族ではないのだ。


 その確信が芽生えた瞬間、昨日まで僕を押し潰していた社会の重圧が、霧散していくのを感じた。

​ 出社してデスクに座ると、その感覚はさらに加速した。


「おい佐藤! さっさと昨日の修正案出せよ。お前、頭まで腐ってんのか?」


 課長の怒声が飛ぶ。いつもなら、胃の辺りがキュッと縮こまり、這いつくばるような謝罪を口にしていたはずだった。

 だが、今の僕は違った。

 僕はゆっくりと顔を上げ、課長を眺めた。赤ら顔の、不健康に太った中年男。安物のネクタイを歪ませて吠えるその姿は、檻の中から威嚇する猿と何ら変わりない。


(この男は、いくらで動くんだろうな)


 ふと、そんな思考が過った。一千万積めば、こいつは僕の靴を舐めるだろうか。五千万あれば、今ここで土下座をして泣き叫ぶだろうか。

 そう考えると、彼の怒鳴り声がひどく滑稽で、遠い世界の出来事のように聞こえた。

「……何を見てんだよ、佐藤」


 課長が僕の視線に気圧され、声を潜める。


「いえ、なんでもありません。すぐやります」


 口先だけで応じながら、僕は自席でコンビニのパンを袋から出した。

 一口噛みしめる。……味がしない。

 昨日まで美味しいと思っていたマヨネーズの味も、パンの食感も、まるでプラスチックの破片を噛んでいるかのように味気ない。

 

 世界から、色彩が剥がれ落ちていく。

 十億という数字を手にした代償に、僕は「普通の人々の営み」から切り離されたのだ。

 昼休みの喧騒、同僚たちの無意味な愚痴、そして愛する人とのささやかな約束。それらすべてが、金という冷徹な計算式によって、その価値を無残に暴かれていく。


 僕は独り、自分の周囲に張り巡らされた見えないガラスの壁をなぞった。

 この壁は、僕を外敵から守ってくれるのだろうか。それとも、僕を永遠に閉じ込める孤独な牢獄になるのだろうか。

 窓の外に広がる灰色のビル群。そのどこかで、今日も「金次第」の地獄が口を開けて待っている。

 僕は、無意識のうちにポケットの中のスマホを握りしめていた。


 美咲。唯一の、僕の「普通」を繋ぎ止めてくれるはずの存在。


 彼女になら、この地獄を、あるいは天国を共有できるだろうか。

 だが、その期待の裏側で、神崎の冷笑的な声が反芻していた。


『彼らが求めているのは佐藤様ではなく、その背後にある数字です』

 僕は美咲の名前を画面に表示させたまま、暗い部屋の隅で、一人、静かに笑った。

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