第9話:ラスト・チェックイン
第9話:ラスト・チェックイン
王都の中央にそびえ立つ封印局の塔が、ドス黒い紫色の雷鳴に包まれていた。
「……空気が、死んでいく」 ミナが喉を押さえ、膝をついた。鼻腔を突くのは、古い墓所を暴いたような、湿ったカビと腐敗したインクの悪臭。 地上では、人々の家の扉、道場の門、商店の入口……あらゆる「境界」が、どろりとした封印の闇に飲み込まれ、物理的にロックされていく。
塔の頂上で、狂気に染まったグランド・マスター・バインダーが吠えていた。 「見よ! これが古の理、停滞の神『アポリア』の御力だ! 誰も動けぬ、誰も入れぬ、誰も繋がらぬ! 全人類が静止した事務手続きの中で永遠にまどろむのだ!」
ハスダは、暴風吹き荒れる塔の最下層、ハコモノ・システムの心臓部である『マスター・ゲート』の前に立っていた。 彼の髪は乱れ、頬には飛散した魔力による切り傷がある。だが、眼鏡の奥の瞳だけは、計算機のように冷徹で、かつ業火のように熱かった。
「……社長! ダメだ、ゲートの負荷が、全人類の『拒絶』という重圧で潰されそうだよ!」 ギルが、火花を散らす制御盤に体当たりしながら叫ぶ。
「ギル、ミナさん。……僕をシステムに直結してくれ」 ハスダが静かに言った。
「直結って……生身の脳で全アクセスを捌くつもり!? 脳が焼き切れるわよ!」 ミナが叫ぶが、ハスダは躊躇いなく魔導プラグを自らのうなじに押し当てた。
「停滞の神が、全人類の扉を『ロック』しようというなら……僕は、その数億通りの鍵を、一秒間に数億回『アンロック』し続ける。……それが、僕のラスト・チェックインだ」
視界が爆発した。
五感が、一気にデジタルな宇宙へと引きずり込まれる。 ハスダの意識の中に、世界中の悲鳴が流れ込んできた。 「家に入れない」「子供のところへ行けない」「仕事ができない」――数億という絶望のパケットが、巨大な津波となって彼の魂を押し潰そうとする。
(熱い……脳が、溶ける……!)
ハスダは歯を食いしばった。口の中に鉄の味が広がる。 目の前には、停滞の神が作り出した、無限に続く『手続きの壁』。 一枚の扉を開けるために、万枚の書類が舞い、億の印鑑が降ってくる。
『無駄だ、ハスダ。個人の力で、全人類の停滞を支えきれるはずがない』 バインダーの呪詛が脳内に直接響く。
「……個人の、力だと……?」 ハスダは、情報の激流の中で笑った。 「違う。僕は今、一人じゃない。……第8話で編んだ、みんなの『お箸』を感じるんだ!」
ハスダは、押し寄せる負荷を、自分一人で受け止めるのをやめた。 彼は、自分の中に流れ込むアクセスを、かつての仲間たち、そして世界中のユーザーの端末へと「分散」して投げ返した。
(ここだ……! 左の負荷を右へ。一人の拒絶を、十人の許可で中和しろ。……最適解は、ここにある!)
ハスダの指先(意識)が、光の速度で虚空を叩く。 五感はもはや人間のものではなかった。 数億の心拍数を聞き分け、数億の扉の軋みを感じ取り、そのすべてを「滑らかな導線」へと書き換えていく。
「開け……開け……開け……!!」
ハスダの叫びと共に、王都中の扉から、黒い闇が弾け飛んだ。 バキィィィィィン! という、世界規模の解錠音が響き渡る。
「な……馬鹿な! 神の封印を、ただの計算で上書きしたというのか!?」 バインダーの悲鳴。
ハスダの脳裏に、一つの光景が浮かんだ。 それは、お箸を一膳、丁寧に並べる自分の手。 向かい側には、笑顔のミナと、仲間たち。 「……特別な魔法はいらない。ただ、みんなが当たり前に入り、当たり前に笑える場所があれば、それでいいんだ」
最後の一枚。 バインダーが閉じ込めていた「王都の心臓」の扉を、ハスダは自らの魂を込めた最後の一打でブチ抜いた。
光が、塔を、街を、そして世界を貫いた。
「アァァァァァァ……ッ!!」 停滞の神が霧散し、バインダーは崩れ落ちる塔の瓦礫と共に、闇へと消えていった。
静寂。 オゾンの匂いが残る中、ハスダは崩れ落ちた。 プラグが外れ、彼の耳に届いたのは、システムの警告音ではない。
「……開いた」 「入れるぞ!」 「母さん!」
街のあちこちから、扉を開け、大切な人と抱き合う人々の歓喜の声だった。
「……社長! 社長、生きてるか!?」 ギルとミナが駆け寄ってくる。 ハスダは、焦点の合わない目で、ゆっくりと二人の顔を見た。
「……ああ。……チェックイン……完了だ」
ハスダは、力なく笑った。 その手には、もう端末は握られていない。 だが、彼の編み上げた「見えない糸」は、今、世界中のハコを、かつてないほど自由に繋いでいた。
事務の鎖が、完全に消えた瞬間だった。
最終回、第10話「開かれた扉、満ちる生命」へ続く。
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