第029話:お嬢様が見せた、初めての感謝
第029話:お嬢様が見せた、初めての感謝
騎士たちが元の姿に戻り、広場が歓喜と安堵の声で満たされる中、俺とアリサは喧騒を避けるように、大書庫のバルコニーへと足を運んでいた。 夜風が、戦いの熱を帯びた肌に心地よい。 つい数刻前まで、ここでは世界を揺るがすような「権能」のぶつかり合いがあり、一歩間違えれば俺たちは跡形もなく消え去っていた。そう思うと、目の前に広がる穏やかな月夜が、どこか現実味を欠いたスクリーンのようにさえ見える。
「……レイン」
手すりに寄りかかり、遠くを見つめていたアリサが、静かに俺の名を呼んだ。 その声は、いつもの高飛車な「お嬢様」のトーンではなく、どこか心細さと、深い熱を孕んでいる。
「何でしょうか、お嬢様。まだどこか、お体に違和感でも? 立ち眩みがするなら、すぐに体内の魔力循環を確認しますが」
俺がいつもの調子で魔導盤(コンソール)に手をかけようとすると、アリサはふっと小さく笑い、首を振った。
「そうじゃないわ。……ただ、少しだけ、不思議に思っていたの。あなたは、どうしてあんな無茶をしたのかしらって」
「無茶、ですか」
「ええ。呂后は、セブンスターズの一角……この世界の理そのものと言っても過言ではない存在よ。それを相手に、自分の腕をあんな風に差し出して、無理やり呪いを押し留めるなんて。……私、見ていて心臓が止まるかと思ったわ」
アリサの視線が、俺の右腕に落ちる。 反射(リダイレクト)の代償として一時的に変異の負荷を受けた右腕は、パッチ処理によって形こそ戻っているものの、まだ激しい熱を持ち、微かに震えていた。
「無茶をしたつもりはありません。あれが、あの状況で最も成功率の高い『最適解』だっただけです。エンジニア……いえ、職人は、仕事の完成のためなら多少の無理はするものですよ」
「また、そうやって……。仕事だなんて、そんな言葉で片付けないで」
アリサが一歩、俺との距離を詰める。 月の光を浴びた彼女の銀髪が、夜風にさらりと流れた。 それは冷たい銀ではなく、星の光を編み込んだような、透き通った輝きを放っている。彼女は迷うような仕草を一度だけ見せた後、意を決したように、俺の熱を持った右手に、自らの両手をそっと重ねた。
「……冷たい」
俺の独り言に、アリサは少し顔を赤くして、それでも手を離そうとはしなかった。
「失礼ね。私は生身の人間だもの。……レイン、あなたはいつも『仕事だ』とか『義務だ』とか、そんな言葉ばかり並べるけれど。……でも、今日、あなたが救ったのは、ただの建物や兵士たちじゃない。私の心と、この砦の未来そのものなのよ」
彼女の掌から、温かな魔力が伝わってくる。それは攻撃的な魔法ではなく、傷ついた神経を癒やすような、純粋で優しい「治癒」の波動だった。
「……私、あなたのことが怖かった。得体の知れない術を使い、感情を見せず、ただ淡々と異常を直していく。……でも、今日わかったわ。あなたは、誰よりも真っ直ぐに、目の前の『壊れたもの』を助けようとしてくれる人なんだって」
アリサが顔を上げ、俺の目をじっと見つめる。その瞳には、今まで一度も見せたことのない、一人の少女としての純粋な信頼と、それ以上の何かが宿っていた。
「ありがとう、レイン。……私を、そして私の大切な場所を守ってくれて。……あなたがこの砦に来てくれて、本当に……本当によかった」
それは、アリサが初めて俺に見せた、飾りのない、心からの感謝だった。 「……困りましたね」
俺は視線を逸らし、短く溜息をついた。
「感謝なんて、仕様書には書いてありません。そんな想定外の報酬をもらってしまうと、今後の計算が狂う」
「ふふ、いいじゃない。計算なんて、またやり直せばいいわ。……これからは、私があなたの『計算できない部分』を支えてあげるから」
アリサはいたずらっぽく微笑むと、さらに俺の手に力を込めた。 彼女の体温が、俺の凍りついていたエンジニアとしての心に、少しずつ溶け込んでいく。
「……やれやれ。これじゃあ、次のトラブルが来ても、簡単に辞めるわけにはいかなくなりそうだ」
俺はそう呟きながら、アリサの温かな手を受け入れた。 バルコニーから見下ろす砦は、再起動を終えたばかりの静かな光を放っている。 お嬢様からの初めての感謝。 それは、どんな高性能なパッチよりも、俺の消耗した精神を回復させてくれる特効薬だった。 だが、この平穏が長く続かないことも、俺は直感的に理解していた。
「さあ、お嬢様。そろそろ戻りましょう。……朝が来れば、また新しい不具合が俺たちを待っているはずですから」
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