第47話 屁理屈の要塞 サバの逆襲
古民家の居間に広げられたのは、最新のサーマルカメラが捉えた黒潮の流動データと、隣町のブランド鯖「大原の金印」の流通マージンが書かれた、佐藤特製の「処刑リスト」だった。
中心に座る響子は、徳蔵が持ってきた泥のついた大根をペーパーウェイト代わりに使いながら、タブレットを睨みつけている。
「……佐藤さん。この数字、私の網膜に対する冒涜だわ。隣の港が『金印』という安っぽい名前を冠しているだけで、千倉の鯖よりキロ単価が四百円も高い。この四百円の差は、魚の脂の乗りじゃない。ただの『言葉の化粧(メイキャップ)』の厚みの差よ」
「その通りです、部長。隣町は広告代理店と組んで、『黄金の潮流に揉まれた奇跡の一本』という、中身のないポエムを仲卸にバラ撒いています。対して、わが千倉の漁師たちがやっていることと言えば……」
佐藤は、徳蔵が書いた「宇宙一」という紙を指差した。
「……これですからね。精神論で魚の価格が上がるなら、今頃日本中の海にダイヤモンドが浮いていますよ」
「……うるせえ! 俺たちは命を懸けて網を引いてんだ!」
土間で網を繕っていた徳蔵が怒鳴るが、響子は一瞥もくれない。
「徳蔵さん、静かに。あなたの命の価値なんて、市場(マーケット)にとっては誤差の範囲よ。いい? 消費者が買っているのは『鯖』じゃない。その鯖を食べている『自分はセンスがいい』という自己肯定感よ。……河合さん。隣町のプロモーションの弱点を見つけた?」
河合はヘッドホンを首にかけ、冷徹な声で告げた。
「あります。隣町は『希少性』を売りにして、都内の高級寿司店ばかりに販路を絞っています。その結果、一般の消費者は名前は知っていても、実物を食べたことがない。つまり、『概念』だけが肥大化して、実体験が追いついていないんです。これ、典型的なバブルの構造ですよ」
「素晴らしいわ。実態のないブランドは、針一本で弾ける。……藤堂、あなたならどう針を刺す?」
縁側でサバの塩焼きを突いていた藤堂が、箸を止めて不敵に笑った。その瞳には、かつて数千億の資金を動かし、幻の投資案件を「現実」だと思い込ませた詐欺師の光が宿っている。
「……響子。僕なら、サバを『売らない』ことから始めるね。……佐藤、この町で最も古く、最も頑固で、最も『誰も寄り付かない』廃神社はどこだ?」
「神頼みですか? 意外ですね。……崖の上にある、荒磯神社なら、今は社殿もボロボロで、地元の人も滅多に近づきません」
「完璧だ。……いいかい、徳蔵さん。明日から、君が獲ったサバのうち、最高に形のいい十匹だけを、毎日その神社の境内の氷詰めに供えてくれ。そして、誰にも売るな。地元の新聞にも、SNSにも、『千倉のサバは、海神様への献上品として、今年は一切市場に出さない』という噂を流す」
「……はあ!? 売り上げがゼロになっちまうじゃねえか!」
「徳蔵さん。価値というのは『手に入らない』時間に比例して膨らむんです」
佐藤が、眼鏡の奥で冷たく微笑む。
「藤堂さんが言いたいのは、千倉のサバを『商品』から『供物』へと格上げする、つまり聖域化するということです。……市場から完全に消えた一週間後、都内の食通たちはどう思うでしょうか?」
響子が、藤堂の意図を汲み取って言葉を継ぐ。
「『神が独占するほど美味いサバ』……。嫌らしいわね、藤堂。あなたは、人間の『選ばれたい』という浅ましい欲望を刺激するのが本当に上手だわ。……河合さん、その情報を、まずは匿名のグルメブロガーたちに『独り言』としてリークして。公式アカウントは、ただ沈黙を守るの」
「了解です。……あ、部長。隣町の『金印』の公式SNSが、こちらの沈黙を揶揄するような投稿をしてますよ。『沈黙は敗北の味』だそうです」
「あら、そう。……なら、その沈黙を『恐怖』に変えてあげましょう。佐藤さん、明日の朝食は、その神社のサバを使った、最も贅沢で、最も『不道徳な』サバ味噌煮を用意して。それを藤堂が、海を見下ろしながら一口だけ食べて、『……まだ、人間が食べていい味ではないな』と呟く動画を撮るわ」
「……悪趣味ですね」佐藤が苦笑する。
「でも、嫌いじゃない。死神に相応しい、弔いの準備を始めましょう」
千倉の夜は、理屈という名の「凶器」によって研ぎ澄まされていく。
徳蔵は、自分たちが獲ったサバが、この得体の知れない大人たちによって、得体の知れない「怪物」に変えられていくのを、恐怖と興奮が混じった目で見つめていた。
「……あんたたち、本当に人間か?」
「失礼ね。私はブランドの女王。そしてこの男は、価値の錬金術師。……あとの二人は、掃除人とその助手よ」
響子は五円玉を指先で弾き、キャッチした。 「……さあ、世界を騙しに行きましょうか。まずは、隣町の『金印』を、ただの青臭い生ゴミに変えるところから始めるわ」
黄金の夜明けと、五円玉の奇跡
作戦開始から七日目。千倉の海は、嵐の前の静けさを体現したかのように、不気味なほど平穏だった。
しかし、インターネットの深淵と、都内の高級飲食店がひしめく銀座・六本木の「舌の肥えた権力者」たちの間では、目に見えない津波が起きつつあった。
「……河合さん。進捗はどう? 私の肌が、この『焦らし』の美学に耐えかねて、少し乾燥し始めているんだけど」
響子部長は、古民家の薄暗い奥座敷で、佐藤が手入れしたアンティークの姿見に自分の顔を映しながら、冷徹な声で問いかけた。彼女の手元には、徳蔵から預かったあの「《《五円玉]]」が、古びた紐に吊るされて揺れている。
「部長、予定通りです。……いえ、予定以上かもしれません。匿名掲示板とSNSの裏垢から流した『荒磯神社のサバ供養』の噂は、今や都市伝説化しています。『千倉の漁師たちが、海神への畏怖から、最高のサバを市場に出さずに埋めている』……。この
「四百倍……。人間というのは、本当に『手に入らない』と言われるだけで、その対象がダイヤモンドだろうが青魚だろうが、等しく跪くものね。滑稽だわ」
「滑稽なのは、その渇望に油を注いでいるのが、僕たちの用意した『偽りの聖域』だということですよ」
佐藤が、漆黒のスーツに身を包み、土間に現れた。その手には、泥のついたジョウロではなく、清算人時代の冷徹さを取り戻したかのような、重厚なアタッシュケースが握られている。
「隣町の『大原の金印』は、焦っています。彼らは今日、異例の緊急プレスリリースを出しました。『わが町のサバこそが正統であり、千倉の噂は根拠のないデマである』と。
……哀れですね。王者がわざわざ格下のデマに反論した瞬間、そのデマは『《《公式が認める脅威%%』に格上げされるというのに」
「そう。ブランドの崩壊は、常に『説明しすぎること』から始まるのよ。……藤堂、準備はいい?」
縁側の影から、藤堂が静かに姿を現した。彼は、徳蔵から借りたお下がりの漁師用の合羽を羽織っているが、その佇まいは、まるで零落した貴族か、あるいは巡礼中の聖者のような神々しさを放っていた。
「……ああ。舞台装置は整った。荒磯神社の境内には、佐藤が用意した最高級の氷が敷き詰められ、その上に、徳蔵さんが命懸けで一本釣りした『十匹の神サバ』が鎮座している。……響子、君の合図一つで、僕はその神を『俗世』へと連れ出すプロメテウスになるわけだ」
「言い回しが古臭いわね。でも、嫌いじゃないわ。……さあ、徳蔵さん。あなたの出番よ。……その汚いジムニーのエンジンをかけなさい。今日、千倉のサバは、宇宙一ではなく――『世界で唯一の、許されない贅沢』になるのよ」
午前十時。 隣町の「大原の金印」が主催する、大規模な「秋サバ即売会」が華々しく開催されていた。多くのバイヤーや観光客が集まり、代理店が仕掛けた「黄金の潮流」というキャッチコピーが踊る中、突如として会場の空気が凍りついた。
会場の入り口に、一台の錆びたジムニーが乗り入れたのだ。
運転席には、震える手でハンドルを握る徳蔵。助手席には、サングラスをかけた響子が、まるで王座に座るかのような傲岸不遜な態度で控えている。
そして、荷台には――。
一本の荒縄で縛られた、古びた木箱が一つ。 その箱からは、白煙のような冷気が溢れ出し、周囲に強烈な、しかし澄み渡るような磯の香りを振りまいていた。
「……何だ、あいつらは? 千倉の漁師か?」 「おい、あの箱……まさか、噂の『神サバ』じゃないのか?」
ざわつく群衆を、響子は
「……お黙りなさい。大原の、偽物の王様たち」
響子の声は、マイクを通さずとも、その場にいた全員の鼓膜に、冷たい針のように突き刺さった。
「私は、アライアンス・パートナーズの久世響子。今日、私がここに来たのは、あなたたちの低俗な『《価格競争》』に終止符を打つためよ」
隣町の役員や代理店の男たちが慌てて詰め寄るが、佐藤がその前に立ちはだかった。彼の無機質な微笑みと、アタッシュケースを構える威圧感に、男たちは一歩も動けなくなる。
「久世さん、何を勝手な……! ここは我々のプロモーション会場だぞ!」
「プロモーション? 笑わせないで。あなたたちがやっているのは、ただの『死体の安売り』よ。……藤堂、開けなさい」
合図とともに、藤堂が静かに木箱の蓋に手をかけた。
カチッ、という、あの日千倉の縁側で聞いたワンカップの蓋を開ける音に似た、しかし決定的な「世界の切り替わり」を告げる音が響く。
蓋が開けられた瞬間、中から現れたのは、もはや魚とは呼べないほどの輝きを放つ、青銀色の結晶体だった。徳蔵が、佐藤の「死神の眼」による指導のもと、一ミリの傷もつけずに血抜きし、藤堂の「詐欺師の演出」によって完璧な氷の配置を施された、千倉の至宝。
「……これが、千倉の『
響子は嘘をついた。堂々と、一分の隙もなく。
「このサバには、隣町のサバにあるような『分かりやすい価値』なんてない。
あるのは、食べた瞬間に、自分のこれまでの食生活がすべて偽物だったと気づかされてしまう、残酷な真実だけ。
……さあ、誰かこの『真実』を、私の言い値で買う度胸のある方はいるかしら?」
会場は静まり返った。
その時、群衆を割って、一人の老人が現れた。都内でも有数の、予約が三カ月先まで埋まる超高級寿司店の店主だった。彼は、噂を聞きつけ、半信半疑でこの場所を訪れていたのだ。
老人は、サバの瞳を見つめ、そのエラの色を確認し、そして藤堂が差し出した「一欠片の刺身」を、儀式のように口に運んだ。
沈黙。 一秒、二秒――。
「……参った」
老人の口から漏れたのは、敗北の溜息だった。
「大原のサバは、確かに美味い。だが、このサバは……『怖い』。これを握った後で、私は他のサバを握れる自信がない。……お嬢さん。言い値でいい。この箱のサバすべて、私が買い取らせてもらう」
「……あら。お目が高いわね。でも、残念ながらこれは非売品なの」
響子は、残酷に微笑んだ。
「これは今日、ここに来た皆さんに、『世界にはまだ、お金で買えない価値がある』という絶望を教えるために持ってきただけ。……徳蔵さん、帰りましょう。このサバは、今夜、地元の子供たちの、ただの晩ごはんになるわ」
「……な、何だと!? 狂っているのか!」
バイヤーたちが叫ぶが、響子は振り返りもしなかった。
その日の夕方、インターネットは炎上どころか、一つの宗教的な狂乱に包まれた。
『幻のサバ、現る。そして、一銭の金も受け取らずに去った女王』
千倉のサバのブランド価値は、その「拒絶」によって、隣町の「金印」を遥か高みから見下ろす、文字通りの『宇宙一』へと跳ね上がった。
夜。千倉の古民家。
徳蔵は、土間に座り込み、空になった木箱を見つめながら、声を殺して泣いていた。
「……あんたたち。俺は、一生、あんたたちを許さねえよ。……サバを売らずに、価値だけ上げるなんて……。俺の親父が見たら、化けて出るぞ」
「あら、褒め言葉として受け取っておくわ。……佐藤さん、例のものは?」
佐藤は、アタッシュケースの中から、一通の契約書を取り出した。
「徳蔵さん。明日から、あなたの元には、都内の一流店から『直談判』のメールが数千通届きます。これは、その窓口をアライアンス・パートナーズが独占的に引き受けるという契約書です。マージンは……そうですね、あなたの孫のランドセルが、金で買えるようになる程度には頂きますよ」
「……死神のくせに、甘い契約ね」
響子は、縁側で夜風に吹かれながら、手元の五円玉を再び眺めた。
「五円が億に化けるのは、これからよ。徳蔵さん。あなたはこれから、ただの漁師じゃなくて、『神の使い』として、世界中の食通を膝から崩れ落ちさせる責任があるんだから」
藤堂が、隣で静かにワイングラスを差し出した。
「……乾杯。僕たちの、最高に不誠実で、最高に誠実な、初の共同作業に」
「……乾杯。二度と、私にサバの臭いを嗅がせないでね」
カツン、と乾いた音が響く。 河合は、その様子をスマホのカメラに収めながら、小さく呟いた。
「……やっぱり、この大人たち、可愛げがない。……でも」
彼女は、公式SNSに最後の一文を添えた。 『株式会社アライアンス・パートナーズ。本日、最初の清算(あるいは再生)を完了しました。対価は、五円の縁と、少しの潮風です。』
千倉の夜空には、都会では決して見ることのできない、満天の星が広がっていた。 それは、嘘を真実に、絶望を希望に塗り替える、不遜な大人たちにだけ許された、最高の「ご褒美」のように輝いていた。
【エピローグ 次なる物語へ】
数日後。
千倉オフィスのポストに、一通の手紙が届いた。 消印は、都会の喧騒を象徴する、あの虎ノ門。 差出人の名前を見た瞬間、響子の表情が、これまでにないほど険しく、そして「愉悦」に満ちたものへと変わる。
「……佐藤さん。どうやら、次の獲物が決まったわ」
「……ほう。誰です?」
「私をこの港町へ追放し、藤堂を檻へ叩き込んだ……あの『亡霊』たちが、ようやく私たちの足音に気づいたみたいよ」
千倉の海は、今日もまた、静かに満ちていく。 リブランディングの本番は、ここからだ。
【to the next】
【作風:方向性思案中】
詠み専からの執筆とは無縁
これまで作品の拝読と我流で生成Aイラスト製作Iがメインでした。
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