第37話【新章】千倉の海と、大人の落とし前
久世ホールディングスの崩壊という、戦後最大級の経済事件から三ヶ月。 世間の喧騒から逃れるように、私たち「アライアンス・パートナーズ」が新たな拠点に選んだのは、南房総・千倉の海沿いにある、築六十年の古民家だった。
「……ねえ、佐藤さん。このコーヒー、また酸味が強すぎない? 私の人生、これ以上酸っぱくなくて結構なんだけど」
響子部長は、縁側に座り、潮風に吹かれながら古びたカップを覗き込んだ。
「響子さん、それは豆のせいじゃなくて、あなたの性格が尖っているからそう感じるんですよ。大体、海を見ながら文句を言えるのは、健康で暇な証拠です。いいじゃないですか、平和で」
佐藤さんは、慣れない手つきで庭の草むしりをしながら、タオルで額の汗を拭った。白シャツの袖を捲り、泥にまみれたその姿からは、かつての「冷徹な執行官」の面影は微塵もない。
「平和……。そうね、一日の平均来客数が、野良猫二匹と、回覧板を持ってきた近所のおばあちゃん一人。これを平和と言わずして何と言うのかしら」
「部長、寂しいんですか? だったら、私がマツケンサンバでも踊りましょうか。今の私は『怪物の娘』改め、『千倉の海女さん候補』ですから」
私は、庭の井戸端でスイカを冷やしながら、二人のやり取りをスマホで撮影した。 もちろん、投稿はしない。これは私だけの、フィルターなしの「本当の休日」の記録だ。
. 「大人」であることの面倒くささ
「……でも、河合さん。あなた、本当にいいの? 大手代理店からヘッドハンティングの誘い、何件もあったでしょう」
響子部長が、ふと真面目な顔をして私を見た。 私は冷えたスイカを包丁で割りながら、屈託なく笑う。
「いいんですよ。あんなギラギラした場所、もうお腹いっぱいです。それに、この事務所にはまだ『落とし前』が残ってますから」
私の言葉に、庭の空気が一瞬だけ静まり返った。 落とし前。 それは、いまだ逃亡を続ける九条の行方であり、そして、拘置所で「その時」を待つ藤堂の存在だ。
大人は、若者のように「明日から生まれ変わる」なんて簡単にはいかない。 過去を引きずり、後悔をサプリメントのように飲み込み、それでも明日、どのツラを下げて生きていくかを議論する。
それが、私たちの考える「リブランディング」の正解だった。
. 波音とともに届いた「招待状」
「……来たわね」
響子部長の視線の先。
古民家の門を叩いたのは、宅配便でも野良猫でもなかった。 黒い日傘を差し、砂浜を歩くには不釣り合いなピンヒールを履いた、一人の貴婦人だった。
「お久しぶり。……いえ、初めましてかしら。私の夫を地獄へ叩き落としてくれた、素敵なお嬢さんたち」
彼女は、藤堂の元妻、藤堂志津子。
かつて藤堂と共に「銀幕のカップル」とまで称された、元大女優だ。
「志津子さん……。藤堂さんの差し金ですか?」 佐藤さんが、草むしりの手を止めて前に出る。
「いいえ。あの人はもう、過去の人よ。私が今日ここへ来たのは、私の『残りの人生』をリブランディングしてほしくて。……あ、河合さん。今の、動画で撮ってた? だったら撮り直し。もっと逆光を綺麗に使ってちょうだい」
志津子は不敵に微笑むと、一枚の写真をテーブルに置いた。 そこに写っていたのは、海外のプライベートビーチで、九条と仲睦まじく乾杯する「若き日の志津子自身」の姿だった。
「九条は、私の元恋人でもあるの。そして、あの子は今、久世から奪った裏金で、この房総一帯の土地を買い占めようとしている。
……私たちの思い出を、コンクリートで塗りつぶすつもりなのよ」
. 最後から二番目の「逆襲」
「……九条、本当にしつこいわね」 響子部長が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「部長、これって……最高の仕事じゃないですか?」 私はスマホを構え、部長の顔にズームした。
「元妻、元恋人、元同僚……。関わっている人間が全員『元(もと)』ばかり。でも、だからこそ面白い。過去を消すんじゃなくて、過去を燃料にして、最高の花火を打ち上げてやりましょうよ」
佐藤さんも、泥のついた手を洗い、不敵な笑みを浮かべた。
「……響子さん。リスクヘッジ担当として言わせてもらえば、この仕事、受けない方が身のためです。九条は今、なりふり構わず牙を剥いてくる。だけど――」
「だけど?」
「あなたの、あんなに不細工にウィスキーを被って戦う顔、僕はもう一度見たいと思ってます」
「……あなたたち、本当に失礼ね」
響子部長は、そう言いながらも、ゆっくりと立ち上がった。 彼女は志津子が持ってきた写真を手に取り、海の向こうを見つめた。
「河合、投稿の準備をしなさい。ハッシュタグはこうよ」
『#二度目の初恋は、復讐から始まる』
. 幕開けは、潮騒の中で
私たちは、古民家の居間に集まった。 モニターを広げ、九条の資金源を追い、志津子のスキャンダルを逆手に取ったプロモーションを立案する。
「ねえ、部長。九条さん、今夜この近くのホテルに泊まるみたいですよ。ライブ配信で突撃します?」
「ダメよ、河合。大人の復讐は、もっとエレガントに、かつ残酷に。……佐藤さん、例の『毒』の準備は?」
「ええ。彼が最も愛し、最も恐れている『響子さんの過去』を、最高のスパイスにしてお届けします」
夜の海が、深く、静かにうねっている。 かつての私たちは、自分を偽るために「ブランド」を着飾っていた。 だけど今は違う。 泥にまみれ、過去に縛られ、それでも「この人生、まだ捨てたもんじゃない」と笑い合える。
「……さあ、始めましょう。最後から二番目の恋を語るには、まだ夜は長すぎるわ」
響子部長の号令とともに、私たちの新しい戦いが始まった。 それは、失ったものを取り戻す戦いではなく、不完全な自分たちを、そのまま世界に認めさせるための戦いだ。
【to the next】
感想や、誤字脱字のご指摘待っています。
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