第10話 祝砲代わりのフルスイング
六月、ジューンブライド。
世間が「純白の幸福」やら「永遠の誓い」やらに浮足立っているこの土曜日。 俺と響子は、都心のビルの屋上にある、うらぶれたバッティングセンターにいた。
カキーン、と小気味よい音が響く。
バッターボックスに立っているのは、いつものタイトスカートを脱ぎ捨て、ヨレヨレのTシャツにデニム姿の響子だ。
「……ちょっと、佐藤さん! フォームがなってないわよ! もっとこう、元夫の顔面を真っ平らにしてやるっていう執念をバットに乗せなさいよ!」
彼女は時速百二十キロの直球を見事に空振りしながら、マシンの吐き出す球にではなく、俺に向かって怒鳴り散らしている。
「無茶言わないでください。俺は文化系なんです。だいたい、なんで元夫の結婚式の日に、わざわざここで球を打ってるんですか。普通はもっと、高級エステにでも行って『私の方が綺麗よ』って自分を甘やかすもんじゃないんですか?」
「甘やかす? 冗談じゃないわ。今の私は、自分の中の『殺意』という名の高カロリーを消費しなきゃいけないのよ!……見てなさい、次の球で、あのハワイの青い海を真っ赤に染めてやるわ!」
再び空振り。彼女の振り回すバットは、虚空を虚しく切り裂いている。
今日は、彼女の元夫の再婚式当日だ。 数時間前、彼女のスマホには、ご丁寧にも共通の知人から「式、始まったよ」という、地獄からの招待状のようなメッセージが届いたらしい。
「……佐藤さん。あなただって、元妻がインストラクターと入籍したって聞いたら、バットの一本も振りたくなるでしょ?」
「俺はいいですよ。もう、あの車と一緒に記憶も査定に出しましたから。……それに、俺が狙うのはボールじゃなくて、あの日ホテルの駐車場で撮り損ねた『最高の浮気現場』のシャッターチャンスくらいです」
「……暗い。あなたの復讐心、湿気が多すぎてカビが生えそうよ」
響子はバットを放り出し、ベンチに座り込んでスポーツドリンクを一気に煽った。 首筋を流れる汗が、六月の湿った空気に光っている。
「……ねえ。あいつ、誓いの言葉、なんて言ってるのかしらね。『病める時も、健やかなる時も』? 笑わせるわよね。病んだ瞬間に別の女のマンションに逃げ込んだ男が」
「定型文ですよ。取扱説明書みたいなもんです。……俺も言いましたよ。三年前に。でも、あの説明書には『浮気相手を愛車に乗せるな』なんて注意書きは一行もなかった」
「……ふふっ。欠陥品よね、結婚なんてシステム自体が。……一、二年も経てば、どんな愛も、賞味期限切れのコンビニ弁当みたいに、酸っぱい匂いがしてくるのに」
彼女は空を仰いだ。 屋上の網越しに見える東京の空は、泣き出しそうなほどに曇っている。
「……佐藤さん。……私、今日、本当は少しだけ泣きたかったの」
不意に、毒舌の裏側に隠されていた、彼女の本音がこぼれ落ちた。
「……悔しいからじゃないわよ。あんな男、
俺は、隣に座る彼女の肩に手を置こうとして――やめた。 今の彼女に必要なのは、同情のぬくもりではない。
「……響子さん。五年前のあなたは、確かにその男を愛していたんでしょ? その事実は、今のあいつが何をしようが、変わらない。……買い叩かれたんじゃないですよ。あなたは、ただ『高い授業料を払って、自由を買い戻した』だけだ」
響子は眼鏡を外し、シャツの袖で乱暴に目をこすった。
「……高いわよ。マンション一軒分だもの。……世界一高い自由よ」
「だからこそ、価値がある。……さあ、交代です。次は俺が、元妻の『健康的すぎる逢瀬』をホームランにしてきますから。……見ててください」
俺がバッターボックスに入ると、背後から彼女の、いつもの鋭い声が飛んできた。
「空振りしたら、明日のプロジェクト会議の資料、全部作り直しだからね!……腰を入れなさいよ、佐藤さん!」
俺はバットを構えた。 マシンの奥で、赤い光が点滅する。 誰かの幸福を祝う鐘の音なんて、ここまでは聞こえてこない。 聞こえるのは、バットが空気を切り裂く音と、隣で「ヘタクソ!」と笑う、厄介で愛おしい女の声だけだ。 最後から二番目の恋。 それは、過去の残骸を笑い飛ばし、不格好にバットを振り続ける、大人たちの悪あがきの延長線上にある。
カキーン、と。 俺が放った打球は、六月の曇り空に高く、高く吸い込まれていった。
【to the next】
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