炎の道 嵐の道

谷川 鹿

第1話 熊記念日

 その山に現れた熊は、大型バスと同じ大きさらしい。竜児と恭子に下った命令は『駆除』だ。

 竜児は休憩室にいた。昼食のカップラーメンにお湯を注いだばかりだった。

「大型バス?」

 竜児は思わず聞き返した。

「そう、体長12メートルくらいの熊が出た」

 課長の東が言った。

 12メートルの、熊?

 これから戦う相手の姿を想像して、竜児の心にじわじわと恐怖が広がってきた。

「また巨大化ですか?」

「最近多いよね、困っちゃう。ところで篝は?」

「今コンビニです……。もうすぐ帰ってくるかと……」

 その時、休憩室のドアが開いて、篝恭子が顔を覗かせた。竜児を見つけると、上機嫌な様子でコンビニの袋を掲げて見せた。

「お疲れ! 今日は唐揚げ弁当ゲットできた」

 化粧気が無く、長い髪も無造作に束ねただけ。しかし華やかな顔立ちだ。恭子は大きな瞳と長い睫毛を持っていた。

 竜児の左頬には、横一文字に刻まれた傷痕がある。短髪で、凛々しくも優しげな顔立ちだ。

 竜児と東の顔をよく見て、恭子の笑みが消えた。それもそうだ。二人はかなり深刻そうな表情を浮かべている。

「課長? どうしました?」

 恭子は何となく事態を察したようだ。

「瀧と出動。今すぐね」

 東が無慈悲に言った。

 恭子の表情が固まったとき、竜児のスマホのアラームが鳴った。3分が経過したことを知らせるものだ。 竜児は泣きそうな顔でアラームを止めた。……せめてお湯を入れる前に言ってくれたら良かったのに。

 二人は休憩室を出て、慌てて荷物を整え始めた。竜児は、まだ恭子が唐揚げ弁当を持っていることに気付いた。怒るのは承知で、彼女からそれを取り上げた。

「ヘリの中で食べるつもり? やめとけよ」

「竜……瀧さんにも半分あげるから!」

「駄目」

 バタバタと準備を進める二人に、同僚の局員たちが視線を向けている。

「気をつけてね……必ず帰ってきて」

 竜児の隣のデスクで弁当箱を広げる男性が、心配そうな表情で言った。

「ありがとうございます、奏一さん」

「わかってるよ、大丈夫」

 恭子はぶっきらぼうに返事をした。

 二人は大急ぎでヘリポートに向かった。竜児は空腹で苛立つ恭子をなだめながら、ヘリに乗り込んだ。



 ここは標高1,500メートルの位置にある山の展望台だ。金属の柵に囲まれて、古い木のベンチやコイン式の望遠鏡が設置されている。7月の昼で、普段なら登山客で賑わう場所だが、今は二人しかいない。

 恭子と竜児が並んで立っていた。二人は揃いの制服と帽子を身に付けている。地上は猛暑だが、山の上は別世界のように肌寒い。ヘリを降りる前に、二人はジャンパーを着た。ジャンパーの背には『東京特対局』と大きく書かれている。

 二人とも双眼鏡を覗き込み、展望台から見える近くの山の尾根を観察していた。しばらくすると、山の尾根にかかる霧のような雲が晴れた。

 その時二人の視線は、巨大な熊の姿を捉えた。見た目は普通のツキノワグマだが、大きさが異常だ。東の言う通り、大型バス並みの巨大すぎる熊だ。

 それは特殊能力を持つ生物……DANGERデンジャーだった。

「見えた」

 竜児がそっと呟いた。これほどの距離を取っていても、恐怖心が波のように押し寄せてくる。心臓がドクドクと脈打つのを感じた。

「大きいね。あれが人里に降りてきたらと思うとゾッとする」

 恭子の様子は平静そのものだ。

 超巨大熊は山の尾根を伝ってゆっくりと移動している。

「普通の熊だって十分危険なのに……」

 竜児は双眼鏡を目から離して天を仰いだ。晴天に浮かぶ雲が、緩やかに流れている。ここからなら天国に近そうだ。

「今日は俺たちの命日かな?」

 最近は忙しくて、一人暮らしする部屋の掃除がおざなりになっていた。どうして綺麗にしてこなかったのだろう。竜児は後悔した。

「いや、記念日だよ、熊記念日」

 竜児は恭子の横顔を見た。双眼鏡で観察を続けたまま、ニッと笑っている。

「あれほどの大物を仕留めたら、昇給あるかもしれないよ?」

 恭子が双眼鏡から目を離し、竜児に笑いかけた。

「あるかなぁ?」

 竜児は恭子の言葉に少し笑った。恭子はいつもこうだ。どっしりと構えて揺るがない。恭子と一緒でなかったら、ここには立っていられないだろうと思った。

 恭子と竜児は再び双眼鏡を構え、超巨大熊の動きを追った。

「けど……あれがレベル4? なんで5じゃないんだ?」

「被害が出てないから。それでも生かしてはおけないんだよ……やるしかない」

 恭子の声が少し小さくなった。

 竜児は肩に銃を背負っている。当たればだが、普通のツキノワグマになら通用する武器だ。しかし、この巨大熊を前にした状況では、おもちゃの鉄砲みたいに感じられた。

 そうなると、頼りになるのは恭子の『特殊能力』しかない。

「恭ちゃんの火でやれそうか?」

 竜児は藁にもすがる思いで、恭子に尋ねた。数秒の沈黙のあと、恭子は返事をした。

「火を試すのもアリだけど、竜ちゃん。あの力を実戦で使う初めてのチャンスじゃない?」

 竜児は目を見開いた。

「そうか……!」

 竜児は『あの力』のことをすっかり忘れていた。

「ヘリはもうだいぶ遠くに行ったよな?」

「うん」

「登山客も全員避難したよな?」

「うん。私、許可取るから。竜ちゃんは準備してて」

 そう言って恭子はジャンパーのフードを被った。

「わかった」

 竜児もフードを被った。

 恭子は熊から目を離さず電話で連絡を取り始めた。

 竜児は熊の観察をやめ、天を仰いだ。今度は天国に想いを馳せるためではない。この空を支配するためだ。

 恭子がやり取りをする間、晴れていた空がみるみる雲に覆われ、色を失っていった。やがて雨がポツポツ降り出し、竜児と恭子の体を濡らし始めた。

「許可出たよ。好きなタイミングでお願い」

 そばに立つ恭子の姿は、いまや透明の幕に覆われて霞んでいる。激しい雨がコイン式望遠鏡を打っていた。竜児の足元では、水がせわしなく跳ね返っている。聴覚も視覚も、すべて雨が支配していた。これで準備は整った。

「耳塞いで」

「わかった」

 恭子に指示すると、竜児は熊を見つめた。黒い巨体は、突然の雨をものともせず、悠然と大自然の中を歩んでいる。

 生きている。

 これからすることを思うと、竜児は心が痛んだ。しかし、これは自分にしかできないことだ。

 唸るような雨音が、奇妙に消えた。手の平の皮膚に、ピリピリとした感覚が走った。鈍色の雲が渦巻く空に、脈打つような光が明滅した。竜児は呼吸を整えて、意識を集中させた。

 今だ。

 次の瞬間、鮮烈な紫の光が視界に焼き付いた。雷光は、縄のように天と熊を一直線に結んだ。山が割れるような轟音に、二人は体を丸めた。

「あっ……!」

 二人が目を開けると、熊の巨体が山肌を転がり落ちていくのが見えた。しかし、せり出した大岩にぶつかって、熊の体はすぐに静止した。

「止まった! 行くよ!」

 雨はもう止んでいた。二人はフードを脱いで、荷物を持って走り出した。



 数十分後、巨大な熊の亡骸に向かって、二人は手を合わせていた。

「竜ちゃんに頼んで良かった。苦しませないで済んだ」

 恭子が熊の体を見上げて、静かに言った。その体はもう動かない。

 この時押し寄せる感情に、名前を付けるのは難しかった。とりあえず、全身の力が抜けるように感じられた。竜児は少し休みたいと思った。この熊が見えないところに逃げたかった。

 そんな竜児の顔を見て、恭子がそっと言った。

「ここから離れて休憩しよう。調分さんたち、到着まで1時間かかるって」

 恭子が歩き始めたので、竜児は後ろを付いて行った。

「あの巨体を回収は無理だよね? こんな山の中だし。どうするんだろう……」

 恭子が喋りながら前を歩いている。竜児は、恭子の長い髪の毛の先が濡れていることに気が付いた。先程の雨の中、恭子がフードを被っていた光景を思い出した。後ろに結んだ髪の束が、フードからはみ出していた。



 熊から離れた場所で、竜児は足を投げ出して座った。雨を止ませ、再び晴れにした空を眺めて、少し気持ちが穏やかになってきた。

 恭子はなにやらリュックの中身を漁っている。

「あった」

 恭子はお菓子の袋を取り出して竜児に見せた。

「マシュマロ? 緊急出動だったのによくそんなもの……」

 竜児は少し呆れて言った。

「持ってきたっていうか、入れっぱなしだった。だいぶ前のだし潰れてるけど食べる?」

 恭子は平らなマシュマロを一つ取り出して言った。

 恭子のだらしなさにまた少し呆れたが、竜児は思わず頬が緩んだ。そういえば空腹が限界だったことを思い出した。

「食べたい。焼いてくれる?」

「もちろん」

 恭子はにっこり笑って、人差し指を立てた。すると、その指先に小さな炎が灯った。山風に吹かれて、炎が一瞬躍るように揺らめいたが、消えることはなかった。恭子はその火でマシュマロを炙った。香ばしい甘い匂いが、風に乗って漂ってくる。

「焼けた」

 恭子が摘まんだマシュマロを、竜児の口に近付けてきた。竜児が思わず口を開けた時、恭子の背後の草むらから、細長い影が出てくるのが見えた。

「ん?」

 それは、体長1.5メートルくらいの蛇だった。竜児は思わず体をビクッと震わせた。

「うわっ……ヤマカガシだ」

「すごい、大きいね」

 恭子も蛇を振り返って見た。

「あれ……噛まれたらまずいよ」

 それは強力な毒を持つ蛇だと、竜児は知っていた。やっと心地良い時間がやってきたのに、またとんでもないものが現れて、心臓がギュッと絞まるようだった。

「大人しい蛇だから大丈夫だよ。でも離れようか」

 蛇はなぜか、二人をじっと見つめて動かない。竜児の胸がざわついた。

 その時突然、恭子が口にマシュマロを押し込んできたので、竜児は驚いて情けない声を出した。

 恭子は素早く動き、リュックの隣に置いてあった細長い袋を手に取った。ファスナーを開けて、中から取り出したものは、日本刀だ。それは恭子の第二の武器だった。

「怪しいね。あれも何か特殊能力持ってそう。竜ちゃん少し下がってて」

 それは竜児も薄々感じ取っていたことだった。マシュマロを噛みながら慌てて立ち上がった瞬間、蛇が恭子に向かって飛び上がった。

 恭子はまったく表情を変えず動いた。鞘がついたままの刀で蛇を薙ぎ払うと、金属と金属がぶつかるような甲高い音がした。

「硬っ」

 明らかに普通の蛇ではない手応えだったのだろう、恭子は少し驚いた顔だ。

「うわっ、カーンっていった」

 竜児も異様な音に驚いていた。これはもう間違いないと思った。

 蛇は飛ばされ、数メートル離れた場所に落ちた。

「やっぱりこれもDANGERか」

 恭子が蛇を観察しながら言った。蛇は地面を這い、また二人に向かってくる。

「また来るね……」

「恭ちゃん、これどうする?」

「捕獲は難しいかな……」

 捕獲か駆除か、生かすか殺すかを決めるのは、二人より上層にいる人間の仕事だ。しかし、こういう緊急時には、自分たちで適切な判断しなければならない。

 竜児が迷いながら見ていると、蛇が再び飛び上がる気配を見せた。次は自分に向かってくる。竜児の体が反射的に動いた。しかし、避けなくても良かったようだ。

 蛇の体は、すでに激しく燃え上がっていた。

「良かったのかな、これで」

 そう言いながら、恭子はゆっくりと燃える蛇に近付いた。炎がだんだん小さくなり、あとには黒焦げの蛇だけが残された。

 竜児は恭子の隣に立って、彼女の肩を叩いた。

「ここは普段なら多くの登山客が歩いている場所だろ。人を見て襲い掛かってくる毒蛇を野放しにするのは……危険だと思う。これで良かった」

 竜児が自分なりの見解を述べると、恭子は神妙な面持ちで頷いた。

 恭子と竜児はその蛇にも手を合わせた。

「あっ!」

 恭子が慌てた様子で、少し離れた場所を見ていた。

「ん?」

「マシュマロが……」

 恭子が素早く動いた弾みで、袋からマシュマロが全部出て地面に散乱していた。雨が上がったばかりの土の上で、マシュマロは泥だらけになっていた。

「あーあ……」

 お互いもうしばらく空腹に耐えなければならない。再び恭子を励ますように、竜児は彼女の肩を叩いた。



 夜の8時半ごろ、竜児と恭子は疲れた表情で、ある建物へと入って行った。その大きなコンクリートの建物の上部には『東京特対局 多摩支部』と文字がある。ここが二人の勤務先だ。『東京都 特殊能力保有生物対策局 多摩支部』という、長すぎる正式名称がある。特殊能力を持つ生物から国民を守る。これがこの機関で働く人間の仕事だ。

 あの後、山に調査分析部の局員が到着した。現場調査が始まり、二人は聞き取りに応じた。熊の方はすぐ終わったが、蛇の方の聞き取りはやはりしつこかった。しかし、あの感じではたぶんお咎めなしで済みそうだと、竜児は思っていた。その後は自力で下山だった。昼抜きでこれはきつかった。山を下りると7月の猛暑が襲ってきた。強烈な陽射しがないだけマシだが、夜になっても不快な蒸し暑さが残っている。

 二人は無言で正面玄関の自動ドアを抜け、廊下を歩き、ある部屋の前で立ち止まった。ドアの室名札には『現場対処部』と書かれている。

「瀧と篝、戻りました」

 ノックをして、竜児はドアを開けた。数々のデスクが並ぶ広い部屋の一番奥に向かって、二人は歩いた。すでに多くの局員は退勤していて、昼間に比べると静かな印象だ。普通のオフィスと何ら変わりない印象の部屋だが、少し違うのは壁の中央に貼られた大きなマップだ。

『令和2年度 多摩支部管轄区域内DANGER発生状況』

 マップのあちこちに散らばるように、赤い丸のシールが貼られている。市街地エリアにもたくさんのシールがあった。先ほど竜児と恭子がいた山の位置にも、すでに新しいシールが貼られている。

「お疲れ~」

 二人に気付いて、課長の東がひらひらと手を振った。

「あのデカイ熊をよくやったね」

 二人は東の脇に立った。

「瀧さんが雷でやってくれました」

 恭子が嬉しそうに報告した。

「あとなんか、カチカチの蛇もいたんでしょ?」

 東が椅子に寄りかかりながら聞いてきた。

「はい……」

 恭子と竜児は身構えた。

「ヤマカガシで、体が金属みたいに固くなる特殊能力を持っていました。私を見るなり飛びかかってきたので、火で駆除しました」

 恭子がいつもより固い表情で報告した。

「なかなか見ないタイプだね。たぶんあれはレベル3になるかな。できれば捕獲が望ましけど……まぁ駆除でも許される範囲内かな」

 何とも言えない反応に竜児はモヤモヤした。OKなのかNGなのかはっきりして欲しかった。

「俺個人としてはやっちゃって良かったと思うけどね。だって……話を聞く限り危険でしょ」

 恭子の表情が少し軽くなった。竜児も少し胸のつかえが取れた気がした。

「ありがとうございます」

 恭子が東に向かって頭を下げた。

「ご苦労さん。じゃその熊と蛇の報告書作っといてね」

「これからですか?」

 竜児は泣きそうな顔になった。

「うーん、まぁ今日はいいよ。山下ってきて大変だったろ」

 東が壁の時計を見ながら言った。

「ありがとうございます」「ありがとうございます」

 二人は同時に頭を下げた。

「あの東課長、これ昇給の可能性ありますか?大物ですよね、今回」

 恭子が東に向かってこっそり聞いた。

「うーん……無いでしょ、これくらいじゃ」

 東が額を軽く掻きながら言った。恭子は大ショックを受けたような顔だ。

「そもそも熊は瀧が倒したのに、篝まで昇給なんておかしいだろ」

 背後から先輩の男性局員が話しかけてきた。

「はぁ……」

 恭子はがっくりと肩を落とした。



 二人は私服に着替え、職場をあとにした。車道の脇の坂道を上り、モノレールの駅を目指して歩いた。車が何台も二人を追い越していく。空腹と暑さと疲労感で、足取りがいつもより重かった。しかし、幸い明日は休日だ。竜児は束の間の解放感を感じていた。

 隣を歩く恭子を見ると、まだショックを引きずっている様子だ。

「いいじゃん。そんな昇給にこだわらなくたって」

 竜児が恭子を励ました。

 恭子はチラリと竜児を見たあと、周囲を警戒するように、背後を確認した。竜児も振り返って見たが、後ろを歩いていたのは、大学生風の知らない若者一人だ。特対局の人間ではなさそうだった。

「早く結婚資金貯めたいから。新婚旅行は絶対サモアがいいし」

 恭子は竜児に熱っぽい視線を向けている。

「……そっか、そうだな。俺も頑張るから」

 それは二人の夢だった。恭子と目を見交わしていると、重たい体が少し浮くように感じた。

「うん」

 恭子が微笑みながら頷いた。

「夕飯どうする? 俺もう空腹通り越して何も感じなくなってきたかも」

「あ……私、物凄く辛いカレーが食べたいな」

「あそこ行く? 20辛まで選べるところ」

「いいね、竜ちゃんはまた甘口?」

「いや、今日は1辛に挑戦しようと思ってる」

 二人は並んで坂道を歩き続けた。駅はもうすぐそこだった。

 恭子は竜児の相棒だ。二人で何度もDANGERと戦ってきた。でも、制服を脱げば恋人だ。彼女は、誰よりも愛しい存在だった。


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