第2話 居場所のない成功

その冬、Tは志望大学に合格した。春には大学近くのアパートへ仕送りで住めるようにもしてもらった。

引っ越しの荷物をまとめながら、数日前のことを思い出す。


大学からの合格通知が届いた日、Tの家ではささやかな祝杯があげられた。

いつもより贅沢な食卓に、父親は珍しく酒を開けた。母親は「よく頑張ったね」と何度も言い、その言葉は、労いというより確認のように聞こえた。努力が、物語として正しかったかどうかを確かめるために。


Tは笑った。同調的に笑う癖は、いつのまにか身についていた。


大学の入学式は、人の多さに圧倒された。スーツの集団、大勢の視線、写真を撮る列。ここにいる全員が「選ばれた側」なのだと思うと、胸の奥がざわついた。自分もすでにその中に含まれているはずなのに、受験の頃とは違い、新たな不安が生じて、落ち着いた気持ちになれなかった。


数日が過ぎて何度か講義を受けると、その不安ははっきりした形を持ち始めた。


講義内容そのものは理解できた。ノートも取れる。試験も落第するほどではない。ただ、周囲の学生たちは理解の速度も、関心の向きも違っていた。教授の冗談に即座に反応し、雑談の中で専門用語を自然に使う。Tにとっては必死に取り繕う場面でも、周りの人間はどこか余裕を持って応じているようだった。


最初はTも、その輪の中に入ろうとしていた。

昼休み、食堂で同じテーブルに座り、話を聞く。相槌を打つ。笑うタイミングを探る。会話に置いていかれないために、話の内容を理解しようと努力する。その緊張が、首筋から背中にかけて張り付いて離れなかった。


雑談が苦手だと、Tは気づいた。

「わかっていること」が前提で進む会話。

「知らないこと」を恥じる必要はないと言いながら、知っている者同士だけで成立する世界。


Tには、「雑談の中で、自分がどこに立てばいいのか」がわからなくなった。試験のように模範解答がなく、評価基準の見えないやり取り。誰が賢いのか、誰が劣っているのかが曖昧な場面ほど、Tは不安になった。

そんな毎日を送るうちに、Tは次第に口数が減っていった。


講義が終わると特に誰かと話すこともなく、すぐにアパートへ帰るようになっていた。サークルの勧誘は断り、飲み会にもほとんど参加しなかった。誘われないわけではない。ただ、行けば余計に「中身のない自分が露呈する」気がしていた。頭のいい集団の中で、自分は何者でもない。それが静かに、しかし着実に突きつけられていた。


夜、アパートの狭い部屋で、Tはベッドに横になり、天井を見つめた。実家にいたころと違い、誰の気配もない。静かすぎる部屋は、落ち着くはずだったが、逆に不安が増幅された。だからといって、サークルの飲み会に参加したところで同じことだった。


「今になっても、これか」

そう思うと、胸の奥が冷えた。


大学でもアパートでも、一人でいるとスマートフォンを手に取る回数が増えていた。

理由は、もはやはっきりしなかった。

何もしたくないのに、間がもたない。誰とも話したくないのに、一人でいるのも耐えられない。両極のどちらでもない、ただインターネットの海を漂っているだけになっていた。


以前、気になっていたカジノサイトは変わらずそこにあった。

だが、あの一件からは触っていない。罪悪感も胸の内に残っていた。

アパートにいる最初のうちは、家にいる頃のような息苦しさは半減していた。だが、最近は大学がそれに代わるものになりつつあった。



ある日、久しぶりに男友達のHから連絡が来た。

Hとは中等部からの付き合いで高校受験を期に連絡は途絶えがちになっていた。Hも同じ大学を受けるために受験勉強に励んでいた。しかしHは、Tとは違って合格には至っていなかった。


そのHからのメッセージは短く、「元気か?」とだけ送られていた。


Tは、すぐには返信できなかった。何を言おうか迷っていた。元気か、と聞かれて、元気だと言えるほど、自分がどんな状態なのかもわからない。

結局、なんだか形式的で他人行儀なメッセ―ジをやり取りして、久しぶりに会って話すことになった。


数日後、二人は駅前で会った。

Hは少し日焼けしていて、服装もラフだった。話し方も身振りも高校のころを思い出させるものだった。

二人でファミレスに入って、Tは変な有料セミナーにでも誘われるのかと少しだけ身構えていたが、Hにそんな素振りは見られず、いい意味で昔と変わっていなかった。


聞きづらいことかと話題の切り出しを慎重にしていたが、受験の話題を出してもHは肩をすくめるだけだった。

「俺? 落ちてよかったよ」

Tには意外なほど、あっさりとした口調だった。


それがTにはどこか羨ましく思えた。

有名大学に入ることは成功だ。その向こう側にあるものが今のような状況だとは思っていなかった。こんなにも不安や孤独があるとは考えたくなかった。

Hの言葉は、そんな敷かれたレールの前提をもはや対象にしていなかった。


「頭のいい連中の中にいたらさ、俺たちなんて、俺たちから見た頭の悪いやつと同じなんだって、思ったんだよ。だったら最初から無理しなくてよかったんじゃないかって、いまは思うんだ」

Hは笑った。その笑顔は、負け惜しみには見えない。何かを諦めたというより、何かから解放されたようだった。

「……そういうものかもな」Tは、曖昧にそう返した。


しばらく雑談した後、別れ際にHは言った。

「無理すんなよ」「ああ」「じゃあ、また今度な」

そう言って帰宅する最中もTは、Hとの会話がずっと心の中に引っかかっていた。


翌日からTは再び大学へ通う毎日に戻った。講義に出て、ノートを取り、最低限の単位は落とさないように過ごした。外から見れば順調だった。両親に話せば安心するだろう。実際、電話口の母親は「大学生活、楽しそうね」と言った。


Tは「うん」と答えた。自分でも何が楽しいのか判らないが、いちいち説明する気にもなれない。

通話を終えてスマートフォンの真っ黒な待機画面をぼんやりと見つめる。

心のどこかで、Hの言葉が反響していた。


――落ちてよかった。


Hが、大学に落ちた自分を正当化する言い訳には聞こえなかった。

「ここにいなくてもいい」という許可のように思えた。

Tは大学に合格してしまったことで、Hのようにはなれなかった。大学に受かったことは良いことのはずなのに、どうして自分はこんな気持ちになっているのか。


有名大学に入った以上、ここにいる意味を証明しなければならない。優秀でなければならない。役に立たなければならない。

それはTの家にあった「正しさ」のように輪郭を伴ってくる。自分はそこに上手く収まっている感覚がなかった。

その認識が焦りを生み、徐々に日常に染み込んでいた。


その夜、気づけばスマートフォンを手に取り、指が例のサイトをなぞっていた。トップ画面は新しくなっているが、カジノサイトのUIは昔のままだった。

アカウントを新しく登録すると再び無料のポイントが貰えた。

ここでは、雑談も、比較も、居場所を証明する努力も必要ない。勝っても負けても、それは自分という人間の価値とは何の関係もない。ただ、運に身をゆだねて結果があるだけ。


Tは、その単純さに救われながら、同時にそれ以外の世界で息ができなくなっていく自分を感じていた。

成功したはずの場所で、Tは初めて、はっきりと「やっていけない」と思った。けれども今の生活を投げ捨てて、自分に別の居場所があるのか。

Tはギャンブルへ溶け込むことで不安に感じる自分を消し去り、日々の夜を凌ぐようになっていた。

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