第8話 「わたしの名前は『きつね』」
「おめでとう、ナオタロが第一号」
言った後に彼女はふふっと笑った。表情は見えないが、それでも空気がやわらかくなったことを感じる。って、おいおいおい、名前を初めて呼ばれた。覚えていてくれたのか。なんじゃこりゃ、めちゃくちゃ嬉しいぞ! 今にも雄叫びを上げそうだ。
「うおー!」
実際に上げてしまった。握りこぶしも天を突いていた。彼女はさらに小さくなっていた。
こぶしとともに天を仰いでいた俺の視界がぼやける。ぼやけて色以外がわからなくなった時、頬を温かいものがつたう。ここでようやく気付く。
ああ、俺は怖かったんだ。何も知らない場所、俺のことを誰も知らない場所。存在としては認識されていた。でもそれは、生物として、人として認識されていたにすぎず、俺個人の存在が認識されていたわけではない。だから名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しいし、安心するんだ。この世界にやっと、俺という存在が確定したから。
「あの……、大丈夫? もしかして名前間違ってた?」
喜びを味がしなくなるまで嚙みしめ続けていた俺に、彼女が怪訝そうに問いかける。
「いや、大丈夫。間違ってないよ。ありがとう。」
頬を手で払い、証拠を隠滅する。目の前の大人がいきなり泣き出したら怖いだろうし、なにより俺が恥ずかしい。叫び出し、天を仰ぎ、お礼を言われる。彼女の頭の中は大変なことになっているに違いない。
「ちなみにさ、なんで俺のことは助けてくれたの?」
そう、これが疑問だった。出会った時から、物理的にも精神的にも距離を置かれていた。それでも助けてくれたことが、今の彼女の会話とは矛盾するように思える。一貫している彼女の行動で、唯一その点だけが逸脱している。
「わたしにもよくわからないけど……、たぶん同情したんだと思う。知らない場所に転生して、ひとりぼっちのあなたに。考えて動いたわけじゃないけど、たぶん、そういうことだと思う」
その歯切れの悪さと、俺にではなく、自分自身の疑問に答えているかのような口調が、俺が第一号だということに現実味を持たせる。はたして、そんなことがあるのだろうか。
そして、心の隅で……、いや、本当はど真ん中で期待していたことは裏切られた。もしかしたら、フィクションの中だけに存在する、いわば都市伝説の「一目惚れ」なのではという甘い期待が。異世界転生のお約束だろうに。異世界転生するだけでモテモテに、お金持ちに、最強に、という雑誌の後ろの方にある広告みたいなものはなかった。
あまりの残念さに肩が地の底まで落ちた俺だった。
「あと、あなたが悪い人じゃなさそうだったからっていうのもある。最初に顔が目の前にあった時は驚いたけど、その……、ポカリと叩いてしまった後に体を確認したけど、なにかされたわけでもなかったし。叩いたことにも怒らなかったし」
よしっ! 人間性には合格点が貰えている! だいぶ会話もしてくれるようになったし、少しずつ距離が縮まってきた。俺は先程落とした肩を入れ直すことに成功した。
だから、目で追えない速さで相手の意識を刈り取る拳を「ポカリと叩いた」と印象操作したことには、目を瞑ることにした。
そして機は熟した。今の好感度であれば、名前も聞けるはずだ。
「そういえば、君の本当の名前をまだ聞いてないけど……、そろそろ教えてもらえるんでしょうか? 『たぬき』ではないんですよね?」
ふふ、小さい子には必勝法がある。俺の統計によると、小さい子に対して大人がへりくだると、気分を良くしてなんでも答えてくれるはずだ。もちろん統計はフィクションの中の人物からとった。
「わたしの名前は『きつね』」
「なるほど、きつねか。いい名前だね。これからもよろしく、きつね」
必死に笑顔を貼り付ける。
まじか! 「たぬき」じゃなくて「きつね」だったのか。「たぬき」については地球と同じ生物みたいだったけど、「きつね」は違うのか? 名前に付けるくらいだから、俺が想像する、ちょいモフ・スタイリッシュビューティーな生物とは違うのだろう。
「ふふっ」
「きつね」が震えている。いや、笑っている。堪えているようだが、口から空気が漏れ出ている。それを隠そうとして、小さい体をさらに小さく丸めている。何がおかしいんだ?
「ごめんなさい、嘘よ。わたしの名前は「きつね」ではないわ。きつねも可愛いけれど、動物の名前をつけたりしないでしょ? 本当に信じてしまうのね」
「あー、なるほどね」
とりあえず、意味のない相槌で平静を装う。
……、やられた! またやられた! 普通だったら「たぬき」からの「きつね」なんて、安直すぎてすぐに気づくのに。制約のせいでまんまと騙された。
「……怒らないのね。嘘をつかれて、笑われたのに」
彼女は、ひとり言のようにつぶやく。
「怒らないさ。別に俺を騙してどうこうしようってわけじゃないんだ。嘘っていうか、冗談ってやつだな」
「冗談……」
「仲良しこよしのじゃれあいってやつだな」
「仲良しこよしのじゃれあい……」
「それに美女に騙されるのは男の
「男の性……」
理解が追い付かない彼女はオウムになっていた。オウムの後は女性版「考える人」として、そこに存在していた。
芸術品となった彼女はとりあえずそのままで考える。あのくらいの冗談で怒るやつなんてそうそういない。無論、彼女が美女でなかったとしても。あれは冗談を言ったり、言われたりしたことがない人間の反応だ。そんなやつには会ったことがないけど。「冗談が通じないやつ」はいても、「冗談を知らないやつ」はいない。
考えられるのは、「冗談」が存在しない村、町、国、世界で育ったか、他者との関係がとてつもなく稀薄な状態で過ごしてきたか。今までの言動からすると後者で間違いないと思う。会話ができることから、森等で野生で育った可能性はないだろう。となると……、あまり想像したくないような予想が浮かぶ。
もし、この予想が当たっているのであれば、俺は……。
一通り頭の整理を終えたので、そろそろ芸術品を解凍することにする。
「それで、本当の名前は? 教えたくないのであれば無理にとは言わないよ。君が教えてもいいと思えた時で十分だ」
努めて穏やかに、なんでもないことのように、一応聞く。
名前は情報の第一歩にすぎない。知っても特になんということはない。ただ、その第一歩についてさえ追及しないことにより、その後に連なる彼女の情報についても無理に詮索する意思がないことを暗に伝えたかった。あえて明確に伝えないのは、それでも彼女のことを知りたいという気持ちの足搔きだった。
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