第2話


 それから数日が経った。


 王女セレスティア様への“性教育”は、表面上は順調だった。少なくとも、身体を触られて心臓が止まりかける回数は減ったし、急に服を脱げと言われても「はいどうぞ」と諦めの境地に至りつつある。


 ……慣れって怖い。

 だが、王女の好奇心は止まらなかった。



「最近読んだ本に、こんなことが書いてありましたわ」


 その日も、例の静かな部屋での教育中だった。セレスティア様は膝の上に一冊の本を広げ、ぱらりとページをめくる。


「男女が想い合ったあとは、特別な行為をすると」


(来た)


 嫌な予感が、的中する。


「……ど、どんな本を読んでるんですか」


 できるだけ平静を装って聞くと、王女はにこりと笑った。


「恋愛小説ですわ。とても人気があるそうで」


 人気があるからといって、王女が読むべき内容とは限らない。


「セレスティア様、その……それ以上の話は、まだ早いかと」


 俺が必死に止めると、王女は首をかしげた。


「どうしてですの?」

「え?」

「わたくしは王女ですし、いずれ結婚もいたします。知っておく必要があることではなくて?」


 正論を、無邪気な顔でぶつけてくるのは反則だ。


「い、いえ……そうですが……」


 言葉に詰まる俺を見て、王女は満足そうに頷いた。



「それに男女の営みは、本で読むだけでは分かりにくいものですもの」

「ちょ、ちょっと待ってください! それはさすがに――相手もいないのに、そんなことは無理です!」


 俺は思わず声を荒げていた。

 すると、セレスティア様はきょとんと目を瞬かせ、それからあっさりと言った。


「もしや、わたくしが相手役になれと?」

「……はい?」

「残念ながらわたくしには婚約者がおりますし、レオンとはそういった仲にはなれませんわ」


 なぜだろう。今、俺は告白もしていないのに断られているような気分になっている。


(いや、最初からその予定はないし、そもそも立場的にもあり得ないんだけど! なんで俺が振られた側みたいな空気になってるんだ!?)


 内心でそんな理不尽なツッコミを入れていると、セレスティア様はにこりと微笑んだ。



「ですから――」


 そして、さらりと言う。


「あなたの相手役を用意しましょう」


 とんでもない提案が、何の前触れもなく投げ込まれた。


「……はい?」


 聞き返すことしかできない。

 王女は、迷いなく視線を横へ向けた。


「エレナ」


 呼ばれた侍女――エレナは、その場で完全に動きを止めた。


「………………え? わたし?」


 何も聞かされていなかったのだろう。いつもは無表情な彼女から、聞いたこともない声が出た。


 さすがにまずいと思い、俺は慌てて口を挟んだ。


「い、いえ! セレスティア様、それはさすがに――」

「断るのですか?」


 王女は小さく首を傾げる。


「もし断ったら……」


 そこで、にっこりと笑った。


「レオンが、わたくしをいやらしい目で見ていたと、お兄様にお伝えしますわ」

「!?!?!?」


 いやいや、ちょっと待て。いまコイツ、なんて言った!?


「ははは。いくら王女様といえど、そんな冗談は――」

「たまにわたくしの胸元とか脚を見てましたよね? 鼻が膨らんでおりましたわよ」

「――っ!?」


 いやそんなことは……たしかに密着されたときに、チラッと見たことはあるし、小さいのに出てるところは出てるんだなぁとか思ったことは……あれ?


 背筋が凍る。


 脳裏に浮かぶのは、王子アルベルト殿下の険しい目。

 妹に関することになると、理性が消えるあの人だ。


(終わった……)


 言い逃れできる気がしない。



「……わ、分かりました」


 観念して頷く。


 エレナが、わずかに肩を震わせた。


「……セレスティア様。本気でおっしゃっているのですか」


 声は落ち着いているが、どこか硬い。


「ええ。本気ですわ」


 王女は楽しそうだ。


「二人には、恋人の見本になっていただきます」

「……恋人、ですか」


 エレナは一瞬だけ視線を伏せ、すぐにいつもの表情に戻った。



「おい、大丈夫か? 本当に嫌ならお前は断っても――」

「いえ。承知いたしました。職務として、務めさせていただきます」


 そう答えながらも、彼女の耳がわずかに赤い。


(……本当に大丈夫か?)


 王女は手を叩いた。


「決まりですわ。これからは二人、疑似恋人として振る舞ってください」


 逃げ道は、完全に塞がれた。


 こうして俺とエレナは、王女の前で恋人を演じるという、意味の分からない役目を負うことになったのだった。



 ――その翌日。


「では、本日は実践編ですわ」


 そう宣言したセレスティア様に案内されたのは、王城の中庭――手入れの行き届いた庭園だった。


 白い石畳の小径の脇に、低いテーブルと椅子が用意されている。花壇の向こうでは噴水が静かに水音を立て、上空はよく晴れている。


 テーブルの上には紅茶と菓子が並べられており、どう見ても“お茶会”だった。



「恋人同士でしたら、庭園でお茶をするのも自然ですわよね?」


 その言葉に、俺とエレナは同時に黙り込んだ。


「……では、始めてください」


 セレスティア様は少し離れた位置の椅子に腰を下ろし、顎に手を当てて観察態勢に入る。


「え、ええと……今日は、いい天気ですね」


 俺が無難な話題を振ると、


「……そうですね」


 エレナは一拍遅れて頷いた。


「距離が遠いですわ」


 即、ダメ出しが飛ぶ。


「恋人でしたら、もっとこう……近くに座るものです」

「ち、近くって……」

「はい、そこまで」


 セレスティア様の指示で、俺とエレナの椅子が寄せられる。肩が触れそうな距離だ。


「……失礼します」


 エレナは冷静を装っているが、声がほんの少し硬い。


(いや、これ……普通に緊張するんだが)


 紅茶を飲もうとして、手がぶつかる。


「……っ」

「……すみません」


 二人同時に謝る。


「うーん、どうにも会話がぎこちないですわね」


 容赦がない。


「もっと自然に、感情を込めてください」


 感情って何だ。

 その後も、


「目を合わせてください」

「呼び方が他人行儀です」

「今のは恋人というより職場の同僚です」


 と、細かい修正が飛び続けた。

 そして――



「次はお散歩ですわ」


 中庭を歩く俺たちの前を、セレスティア様が少し離れて進む。


「恋人なら、手を繋ぐのが自然ですわよね?」


 いやいや、さすがに物理的な接触はエレナも嫌なんじゃないのか?


「ほら、はやく! エレナも待ってますわよ!」

「えぇ? わ、分かりましたよ……おい、エレナ。嫌だったらすぐ離してくれよ」


 覚悟を決めて、そっと手を差し出す。

 エレナは一瞬だけ迷い、それから静かに俺の手を取った。


 指先が触れた瞬間、びくりと肩が揺れる。


(冷たい……いや、緊張してるだけか?)


「力が入ってますわ」


 またダメ出しだ。


「もっと自然に。ほら、恋人なのですから」


 言われて意識しない方が無理だ。

 そのまま歩いていると、視線を感じた。


「……なあ、見られてないか?」

「見られてますね」


 騎士や侍女が、ちらちらとこちらを見ている。


「……噂になりますよ、これ」

「もうなってると思いますわ」


 淡々とした返事。


「はぁ、あとでアイツらには誤解だって説明しておくよ。悪いな、嫌な気持ちにさせちまって」

「別に、わたしは嫌では……」


 その直後だった。



「おや? そこにいるのはレオンか?」


 聞き覚えのある声がして、血の気が引く。


(王子!?)


 回廊の向こうから、アルベルト殿下がこちらを見ている。


「こんなところで何をしている? そっちの女性はたしか……」

「……ええと! これは、その……王女様のご命令で!」

「そうですわ」


 俺が慌てて手を離そうとすると、エレナが逆に、ぎゅっと握ってきた。


「――っ!?」

「……レオン。今は恋人役でしょう。逆に堂々としていないと怪しまれますよ」


 小さな声。


(助けてくれてるのか!?)


「ほう……?」

「わたくしの教育の一環ですの」

「……教育?」


 王子は疑わしそうだが、妹の言葉に強く出られない。


「そうか。ならいい」


 去っていく背中を見送り、全員で深く息を吐いた。


「助かったよ、エレナ」


 俺がそう言うと、


「……当然です。役目ですから」


 エレナはそう答えたが、耳まで赤い。


(この人……)


 気づく。


 冷たいわけじゃない。

 真面目すぎて、不器用なだけだ。



 その後、城内では、


「近衛騎士と侍女が付き合っている」


 という噂が広がった。

 否定しようとすればするほど、「照れてるだけだ」と受け取られる悪循環。


 疑似恋人のはずなのに、周囲の目はどんどん本気になっていく。


 ……俺たちは、どこに向かっているんだろうか。


 そんな疑問を抱えたまま、数日が過ぎた。



 そしてある日、王女の自室に呼び出された。

 セレスティア様は、いつもより少し改まった表情をしている。


「本日をもって、わたくしへの授業を一区切りといたしますわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る