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平安の都のとある夕刻、中級貴族の子息、源兼明は屋敷にいた。兼明のもっぱらの懸案事項は、近頃文を交わしていた女性、東の御方のことであった。夜が近づくにつれ、今夜こそは東の御方のもとを訪れようと気持ちを固めつつあった。
牛車の準備を進めさせていたところに、家司の影房が暦を手に割って入った。曰く、「今宵は東方が塞がります」とのことである。兼明の屋敷から真東に位置する東の御方のもとを訪ねるには、日が悪いようであった。北の縁者のもとで宿を取り一日待ってからの訪問を強く勧められた。
兼明は、暦何するものぞと笑って受け流そうとするものの、影房とのやりとりを耳にした供回りの表情は暗く、準備の手も心なしか遅い。勇み足を嗜められる形で、兼明は北の縁者を訪ねることにした。
北の縁者の屋敷で宿を取ることになった兼明であるが、おとなしく寝付けるものでもなかった。いつも以上に夜が長く思われる。
一夜ばかりの我慢と思いつつも辛抱が効かず、とうとう兼明は牛車を用意するように命じた。影房は再び遮り、「今夜だけは堪えてください。陰陽を軽視するとよくないことがあるやも知れませぬ」と告げたが、兼明は聞く耳を持たなかった。
予定よりも遅れすっかり暗くなり人通りもない通りを、東の御方の待つ屋敷へと牛車を急がせた。
東の御方の屋敷へ辿り着き中へ通された兼明を女房が出迎えた。女房は夜も更けてからの来訪に驚いた様子であったが、東の御方との逢瀬を認めてくれた。
御簾越しに初めての対面を交わす東の御方は、これまでに交わした文から感じたような理知を感じさせる女性であった。向こうから届く声は静かな響きで、香の柔らかい匂いがただよっていた。
短い逢瀬を終え、満足気に立ち去ろうと腰を上げる兼明に対し、東の御方が問うた。「本当に今宵、来られてよろしかったのですか」兼明は軽く笑って、逢瀬を過ごせたことに比べればなんでもないと応じた。兼明にとっては、実りある一夜に思えた。
帰宅後、兼明は早速と息巻いて東の御方への文をしたためた。
使いに文を託し、返事を心待ちにするが、一向に届く気配がない。諦めきれずに再び使いを送ったが、物忌みに入られたという言葉を告げられ、門前払いにされる始末であった。
幾日か経ったころ、東の御方は別邸へと移られたという噂が兼明のもとに聞こえてくるようになった。行き先を尋ねても答えてくれるものはおらず、応対の女房の態度も逢瀬の夜と違ってどこかよそよそしい。もうあの方との恋は叶わぬのだと、兼明にもようやく実感された。
さらに伝え聞くところによると、東の御方を別邸へ移したのはその兄君の差配であるとのことであった。我慢をしかねた兼明が夜道に牛車を走らせたために、噂が立ち、風体を気にした兄君が縁を断たせたようであった。
兼明にとって、あの逢瀬は確かに良いものであったと思うが、「本当に今宵–––––」と訪問を咎める東の御方の声は今でも時折思い起こされる。それ以来、兼明は縁起についての家司の言葉を聞き入れるようになった。
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【解説】
・方違え
陰陽道では暦に応じて避けるべき方角がある。目的地がその方角にある場合、別の場所に宿を取りそこから目的地へ向かった。これを方違えという。
・物忌み
陰陽師の占いに従って、人との面会や手紙のやり取りを控えることを物忌みといった。物忌みは人除けの方便に用いられることもあった。
・後朝の文
女性のもとを訪れた男性は帰宅後に文をしたため、女性に送った。
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