第十一話:依代の終焉

 古来、まほろばの地において火というものは、神聖なる浄化の象徴であると同時に、すべてを灰塵に帰す絶望の化身であった。


 秋祭りの余韻が冷めやらぬ夜、わが獺祭館を襲ったのは、御神火の如き崇高な炎ではありゃせん。

 それは、南雲銀蔵という男の、腐りきった湿った憎悪が、狢どもの悪意と結びついて燃え上がった、不浄なる業火であった。




 深夜。

 祭りの疲れに身を任せて眠る人間たちの鼻腔を、不吉な焦げ臭さが突いた。

 気がついたときには、館の四方から南雲銀蔵率いる狢の軍勢に取り囲まれたいたのだ。

 狢たちが手に持つ火は、今にも、この神々しい風格を誇った老舗温泉旅館を、紅蓮の地獄へと変えようとしている。


 オイラは、川獺の姿から慌てて人間に化け直したが、あまりの混乱に右足の指だけが水かきのままという、大層ちんけな醜態を晒していた。

 だのに、そんな些末なことを気にしている暇はありゃせん。


「火事だ! 逃げろ! 命が惜しけりゃ、湯上がりの牛乳なんぞ捨てて外へ出やがれ!」


 オイラは喉が裂けるほどの声を上げ、腰の抜けた湯治客の襟首を掴んでは、玄関先へと放り出していく。

 スズメバチに襲われたニホンミツバチの如き必死さで、オイラは館の中を駆け回った。


 その時、庭園の方から、地響きのような咆哮が聞こえてきた。

 見れば、そこには春人兄上がいた。

 辛気臭い、いつもの若旦那の姿はない。

 彼は親父殿譲りの神通力を全開にし、その体躯を大入道の如く巨大化させていた。

 それはまさに、神話に語られる巨大川獺オオカワウソの再臨。

 春人兄上は、獺祭館を守らんと、巨大な前足で狢たちの群れをなぎ倒し、火の粉を振り払う。

 だが、南雲が放った狢の数は、まさに百鬼夜行の如き多さであった。


 多勢に無勢。

 春人兄上が一匹を叩き潰せば、影から十匹が這い出し、彼の薄くなった尻の毛並みに食らいつく。


 一族の運命という重圧を双肩に背負った巨大な戦士は、無数に降り注ぐ牙と爪の雨に耐えかね、ついに無惨な悲鳴を上げた。

 春人兄上の意識が遠のき、その巨体が力なく崩れ落ちる。

 狢たちは勝ち誇ったように笑い、彼を館の中庭にある古びた池へと投げ込んだ。

 水しぶきと共に、春人兄上の巨体は冷たい水底へと沈んでいく。


 オイラが兄上を助けようとした瞬間、館の奥から、心臓を直接握り潰すような鋭い気配が伝わってきた。


 南雲銀蔵。

 あの腹黒守銭奴ジジイが、体躯の良い狢を二匹連れて、一歩、また一歩と「奥の間」へと進んでいくのが見えた。

 目指すは、母上が命を懸けて守り続けてきた、あの掛け軸。


「待ちやがれ、この丸太ん棒!」


 オイラは、かまいたちの如く廊下を滑り、南雲の前に立ちはだかった。

 手にあるのは、オイラの唯一の得物……すなわち、先端にゴルフボールを接着した、特製の孫の手である。

 オイラは決死の覚悟で孫の手を振り下ろした。


 しかし。

 南雲は、オイラの攻撃など眼中にないといった様子で、持っていた杖を軽く一閃させた。


 ゴツリ、という鈍い音が響く。

 オイラの視界は一瞬で火花が散り、脳髄が激しく震えた。

 脳震盪。

 膝から崩れ落ち、孫の手が指先から滑り落ちる。

 南雲は、地面に伏したオイラを冷笑し、その歩みを止めようとはしない。


「夏生くん!」


 背後から深雪さんが駆け寄り、オイラの震える肩を抱き寄せた。

 彼女に包まれる肩があたたかさを感じる。

 南雲は、オイラを庇うように立ち塞がる深雪さんを一瞥し、その足を止めた。

 その瞳には、かつて見たこともない、冷たいな色が宿っている。


「……退がれ。これは人間風情が出る幕ではない」


 南雲の声は、氷の如く冷たいが、どこか紳士的な落ち着きを保っていた。

「無駄に怪我をさせたくない。お前のような娘が、この掃き溜めような旅館を守る義理もないであろう」


 深雪さんは、激しい憎悪を込めて南雲を睨みつけた。

 南雲の視線は、彼女の首元に巻かれたストールに釘付けになった。

 彼の表情が、一瞬にして硬直する。


「それは……お前、それをどこで。どこで手に入れた」


 南雲の理性が、初めて音を立てて軋んだ。

 それは、恐怖なのか、驚愕なのか、あるいは……。

 南雲はストールを奪おうと、震える手を深雪さんへと伸ばす。

 深雪さんは、その異様さに恐怖を感じ、後退りした。

 追いつかれそうになったその時、炎の中から、鬼の如き迫力を持った影が飛び込んできた。


「銀蔵兄さん……あんたって野郎は、どこまで下衆なんだい!」


 母上、冬子であった。

 彼女は深雪さんを背後に隠し、鋭い眼光で南雲銀蔵を射抜いた。

 薄れゆく意識の中で、オイラはその言葉を聞き逃さなかった。


「下衆だと? それは、お前の行方不明の旦那のことだろう。冬子」

 南雲は、歪んだ笑みを浮かべて吐き捨てた。


「もう何年になる? あの男こそ、川獺の誇りを捨てて逃げ出した下衆じゃないか。今頃はどこかの山道で軽トラに轢かれ、白骨化しているだろうがな」


「黙れ! この極悪人! あの人は、あんたのような外道からこの街を守るために……」


 母上が叫び、南雲へと飛びかかろうとした。

 だが、南雲の動作は、老いを感じさせぬほどに迅速であった。

 南雲は無造作に突き出した杖の先端で、母上のみぞおちを正確に射抜いた。

 声にならない吐息を漏らし、館の絶対的な女将として君臨した彼女が、膝から崩れ落ちる。

 南雲は、気絶した母上に一瞥もくれず、ついに「奥の間」の扉を蹴り破った。


 オイラの視界が、真っ赤に染まっていく。

 それは血のせいか、それとも炎のせいか。

 南雲の手放した火が、母上の悲鳴を飲み込むようにして、奥の間に掛けられたあの掛け軸を舐め上げた。


 庭で鞠を蹴る、無邪気な童の姿。

 獺祭館の繁栄を百年支え続けた、座敷わらしの依代。

 それが今、灼熱の牙に食らわれ、黒い煤へと変わろうとしている。


 炎の中で、絵の中の童は、こちらを見つめた。

 怒るでもなく、恨むでもなく。

 ただ、大層寂しげな微笑を浮かべて、オイラたちに別れを告げたのである。


 最後にひとつだけ。

 カラン、という、乾いた鞠を蹴るような音が、炎の爆ぜる音に混じって響いた。

 それが、座敷わらしがこの館を去った合図であるかのようだった。


 依代が完全に灰となり、その姿を消した瞬間。

 まほろばの地を繋ぎ止めていた霊的な均衡が、音を立てて粉砕された。

 オイラの耳には、館の悲鳴が聞こえた。

 いや、それは物理的な破壊の音であった。


 頭上、館を支えてきた巨大な天井の太い梁が。

 轟音を立てて折れ曲がり、大きなヒビが入った。


「あ……ああ……」


 これまでどれほどの増築に耐え、どれほどの歴史を支えてきた木材が、哀れなほど無惨に折れそうだ。

 一族の誇りも。

 借金の山も。

 母上の祈りも。

 すべてが、崩壊という名の偉大なるニヒリズムの中に飲み込まれていく。


 オイラは、薄れゆく意識の中で、深雪さんの温もりだけを感じていた。

 その背後で、南雲銀蔵の笑い声が聞こえたような気がしたが、もはやそれを確かめる気力はありゃせん。


 栄華を誇った獺祭館は、今、終わりを始めようとしていた。

 源泉の音は聞こえない。

 代わりに聞こえるのは、何かが終わる前の、無慈悲な静寂。

 オイラは、事件の解決を見ることなく、犯人の嘲笑に包まれている。


 なんとまあ、気持ちが良いほどの惨敗ではないか。

 オイラは、口元に滲んだ血を舌で舐め取り、不敵に、弱々しく笑った後に目を瞑った。


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